第13話 スワンボート
吉祥寺・井の頭公園に到着。
7月上旬の雲一つ無い快晴の空の下、業務用として渡されたずっしりと重いリュックを背負う。
額にはうっすらと汗が
池でスワンボートに乗る者の姿は無く、ただ蝉の声が響くのみ。
有名な観光地と聞いていたが、幽霊の噂があるからだろうか。
「では、この前渡した業務用スマホの電源を入れてください。AIコンシェルジュのダニエルに命令すれば、全て対応してくれます」
「AIのコンシェルジュで幽霊対応だなんて、文明の
言われたとおり、スマホの電源を入れると、社長はスマホに向かって話す。
「ダニエル、こちらは華菱と漆原。幽霊対応を致します。見えるようにしてください」
『カシコマリマシタ』
ダニエルから応答があると、右上に小さく「Y」という文字が現れる。
「Yって……これ、Wi-Fiのマークじゃないよね?」
「これは、幽霊のYです。このマークがついているとき、僕達は幽霊を見ることができます。ダニエル、幽霊はどこですか?」
『現在地カラ、北ヘ100メートル、橋ノ中央デ、池ヲ見下ロシテオリマス』
ダニエルの言うとおりに進むと、赤い橋に
男は、赤と黄色のチェックのシャツをジーンズにインしている。
「あれが、噂の幽霊・天福さん!?」
「大きな声を出してはいけません。気付かれてしまいます」
はっと口元を押さえる。
「ボートに乗るカップルのフリをして接近しましょう」
「え、幽霊を説得するんじゃなくて?」
「説得はジュディが行ったのですが、無駄でした。カップルが険悪な空気になることで喜びを感じていますが、僕達を何度か転覆させ、反応が薄ければ飽きるかと」
仕事とはいえ、何度も池にひっくり返るだなんて。
「ほら、幽霊がこちらを見ましたよ。別に、貴女のこと意識している訳ではないですから。勘違いしないでくださいね」
社長はそっぽを向きながら、私の右手に指を絡める。
夏なのに、ひやりと冷たさを感じる手だ。
恋人繋ぎでボート乗り場へと向かう。
彼は意外にもツンデレだ。
********************
ボート乗り場から、間抜けな顔のスワンボートに乗り込むと、足場がぐらぐらと不安定に揺れる。
足下にペダルがあり、これを足で漕ぐと進むスタイルとなっていた。
ペダルを自転車を漕ぐようにゆったりと漕ぐ。
社長はいつものように手鏡を取り出し、顔をうっとりと眺めている。
「白馬に乗った王子様は、もう古い。時代はスワンボートに乗った王子様ですよね。ほら、楽しそうにしないと幽霊が寄ってこないですよ」
「そ、そうだね、社長。わざと面白いこと言ってくれてるんだよね。美しいのは分かったからさ、社長ももっと元気よくペダル漕いでくれないかな?」
「駄目です。汗をかいたら、髪がぺたりとしてしまうでしょう」
絶対に私達は、幽霊から見ても楽しそうにボートに乗るカップルだ。
しかし、幽霊こと天福さんはまだ私達を観察しているだけで、転覆はさせない。
笑顔が足りないからだろうか。
「社長、疲れた。せめてなんか、面白いこと言ってくれない?」
「ブーン、ブルンブルンブルン」
社長の方を真顔で見る。
彼は唇を震わせてエンジンの真似をしている。
「ブーン、ブルンブルンブルン……って、エンジンの音です。貴女の気持ちが少しでも楽になるように……」
「遂に顔芸まで手を出したのね! そういうのはいいから、鏡なんか見てないで、手伝ってよっ!」
作りに作った笑顔で鏡を取り上げると、彼は必死で取り返そうとする。
「このっ! 真っ昼間から、目の前でイチャつきやがって! 気まずい空気にさせてやる!」
天福さんは怒り狂い、橋から池に飛び込み、素早い速さでボートに接近する。
彼はボートを掴むと、ものすごい勢いで揺さぶる。
「わああああ、怖いっ!」
「大丈夫です、葵さん。絶対に僕は髪を水に浸かって乱したりはしませんから!」
社長の業務用リュックは、何をどう操作したのか、いつの間にかジェットパックに変わっており、虫の羽音のようなエンジン音が鳴り響く。
「社長、それはどうやって!」
「僕は飛びます! 絶対に髪を水に濡らしたくはありません!」
「どんだけ髪にこだわってるの! 一緒に何度も転覆するって話だったじゃない!」
天福さんがスワンの頭を掴んで振り回すため、揺れはますます酷くなる。
彼には、こちらが見えていて、全て聞こえているなんて思っていなく、大声を上げて笑い転げる。
「この男、自分だけ助かれば良いと思ってやがる! 所詮男女の愛なんて薄っぺらいんだ!」
スワンボートが大きく傾き、白鳥の頭が水面へと叩きつけられそうになると、社長はボートの入口から飛び立とうとする。
「葵さんも早く! 貴女もスイッチを押すのです!」
「どれ?! 分かんないよ!」
どこかへと飛び立つ寸前で、宙に浮きかけた社長の腰周りを両手で辛うじて掴む。
悲しいかな、社長の今日のズボンはベルトレスアジャスタータイプで、私の掴んだ部分は丁度ズボンの金具の部分だった。
「葵さん! お願いですからズボンは下ろさないでください! 下着姿で飛ぶとか、死ぬより恥です! 化けて出てやります!」
社長はヒステリックに金切り声を上げる。
「下ろしたくてやったわけじゃないよ!」
ジェットパックで飛ぶであろう社長は、いつ戻ってくるか分からない。
こんなところで幽霊と2人きりなんてまっぴらごめんだ。
社長はリュックの脇にあるボタンを操作し、エンジンを切ると、彼の身体はボートへと崩れ落ちる。
その衝撃で、ボートは見事にくるりと転覆した。
池へと身体は投げ出される。
何とかして顔を水面から出す。
植物が足に絡んでいる。
池の底は浅かったため、溺れることはなかったのが唯一の救いだ。
「葵さん、大丈夫ですか?! 僕に
「社長! 何とか生きてる!」
社長に掴まり、必死になって岸まで辿り着く。
私達は、漁で引き揚げられた魚のように地べたに寝転がる。
「社長……髪が……」
ぺたんとしているどころか、
髪や服からから水滴が流れ落ちている。
社長は、下を向いて肩を震わせている。
「僕のヘアスタイルが……」
相当機嫌が悪くなってしまった様だ。
彼の白い顔が、更に血の気がしない。
「ククク……やはり険悪になってやがる! ザマァ! なぁ、どっちがボートに乗ろうなんて言い出したんだ!? ケンカ別れしろ! 早く!」
喜びで大声を上げる天福さんに苛立ち、わざと明るい声を張り上げる。
「……写真撮ろう! 初スワンボード記念写真!」
社長は、大量に並んだスワンボートの前で脚を交差させて座り、髪をかきあげるポーズをするので、言われるがままに写真を撮り、撮ったものを社長に見せる。
「写真撮れたよ。ずぶ濡れ記念写真だね、でも大丈夫、いつも通りかっこいい!」
私は社長の機嫌を出来るだけ損ねないようにするため、黄色い声を上げる。
社長の顔が、みるみると希望の光に満ちていく。
「水も滴る美しい僕……
社長は潤んだ目で私の両手を包み込む。
「こ……この……転覆させても気まずくなるどころか、愛が深まっているだと! チキショー!」
天福さんは地面を踏みならそうとしたが、自らの足がないことに気がつき、悟ったように瞬く間にどこかに消えていった。
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