夢喰い

涼月

第1話

 「大人はね、夢を食べて生きているんだよ」

 唐突に彼女は口を開いた。右手に持ったグラスの中で小さくなりかけた氷が、からんと涼やかな音を奏でる。向かいに座った青年はくわえたストローで琥珀色の液体を吸った。ずじゅ、と鳴ってしまい彼は思わず顔を顰めた。昔散々しつけられたことというのは大人になっても抜けきらないものだ。

 「夢を食べて生きている?」

 グラスをテーブルに置いてそっくりそのまま返すと、彼女は至極真面目な顔で頷いた。

 「そう、夢を食べて生きているの」

 「……獏みたいに?」

 「うーん、獏とはちょっと違うかな。獏は悪夢を食べてくれるけど、大人は子供の夢を食べるの」

 そう言って彼女は半分になったケーキにフォークを刺してすくうと、ちびりと口に入れた。美味しいからって惜しみすぎだろうに、思いつつ彼がウェイターを呼ぶと、彼女が私もとおかわりを頼む。友人にはえらく饒舌なくせに、初対面の人には人見知りを発揮してしおらしい。そんなところがモテるゆえんなのであろうが、過去にこっぴどく振られた彼にとっては関係ない――それでも二人きりでお茶をするのは、彼女が変わらず接してくれているからとも言えるし、彼にまだ少し未練が残っているからとも言える。

 「だから、見た目は普通の人間だよ」

 「いやそれは当たり前でしょ。それに、『大人』って言ったのは君だし」

 冗談めかして付け加えられた言葉に青年がつっこむと、そういえばそうだったねと彼女が笑う。年齢の割にあどけないその表情に彼の心臓が音を立てた。胸の奥で未だに疼く感情に気付くのは、いつもこんな時だ。

 運ばれてきたドリンクを受け取って、彼女はグラスを傾けた。見張るような白い喉がごくりと上下する。彼女が縁から彼を見やって、青年は自分が見惚れていたことに気が付いた。ふいと目を逸らすと、視界の端で彼女が目を細めるのが見えた。

 「それでね、大人は夢を食べるの」

 「それはさっき聞いたよ」

 「うん、でもね子供はそのことに気が付かないんだ。気が付いた時にはもう遅いの――夢は大人に食べられたあと」

 先程とは違って彼女は意地悪く唇を歪めた。普段見せない表情に青年の背中がぞわりと粟立つ。

 「……その夢はどうなるの?」

 「どうもならないよ。ただ夢を食べるだけ。それを糧にできる人もいるけど、そんな人は滅多にいない」

 「じゃあどうして」

 水滴のついたグラスを優雅に両手で持つと、彼女はちゅうとストローを吸った。

 「――子供の頃、夢をみることは大事だ、とかってよく言われたでしょ?大人が食べるのは、そんな夢。子供の描く純真無垢で真っすぐな夢」

 ますますどうしてという疑問が青年の頭に浮かぶ。

 「でも、思い出してみて。いつからか子供は皆夢を諦める。自分に自信が持てなくなったり、現実を知ったりして諦めてしまう」

 「うん」

 頷く彼の声は細く頼りない。それは彼自身にも思い当たることがあるからだろうか。

 「じゃあ、そんな風に子供をしたのは誰だと思う?」

 まるで子供に言うような声色で彼女は尋ねた。

 「……大人?」

 「正解。それが『夢を食べる』っていうこと。大人は子供にあれこれ言って、夢を諦めるように仕向ける。大人は役に立たないとか道は狭いとか、君を思って言ってるんだ、みたいなふりしてるけど、結局やってることは『夢を食べる』ことだよ。大人は自分が成しえなかったことを本気で夢見る子供に嫉妬して、悔しいからって子供の目を背けさせる」

 「それは違うんじゃないかな。子供のことを憂いてそう言ってるはずだ」

 「違わないよ」

 被せるように思わず反論した彼に、さらに彼女は被せる。

 「あなたはマジメだからそういうだろうね。だけど、そういう大人もいるんだ。自分ができなかったことができる子供に嫉妬して夢を喰らう大人がね」

 いつのまにか虚空のように暗くなった瞳で彼女は青年を見つめた。その瞳には”子供”のような輝きはない。

 なにも言えずに彼が口を閉ざしていると、彼女はふとかばんを膝に置いてごそごそやり始めた。そしてその中から一枚の紙を取り出した。有名な舞台作品のフライヤーだ。

 「――実はね、これに私出るんだ」

 「……」

 それは青年もオーディションを受け、落ちた作品だった。監督は厳しいと評判の監督で、噂だとほとんど作品に出たことのない新人は滅多に採らないらしい。そして彼は、彼女が役者を目指していると聞いたことがない。

 「ずっと黙っててごめんね。私も俳優になりたかったんだ」

 恋人ではないのだから、彼女が彼に言う義務などない。しかし、それを分かった上で彼女は謝った。そのことが彼の心をさらに深くえぐる。

 「でも言ったでしょ?中には食べた夢を糧にできる大人もいるって」

 そうして彼は思い出す。そのオーディションに落ちたら、役者の道は諦めると彼女に宣言したことを。恋人ではないのだから、彼が彼女に宣言する義務もない。しかし、それを言ってしまったのはやはり彼に未練があるからで、それ以上に長い付き合いでもあるからだ。

 「ありがとう、あなたの夢、すごく美味しかった」

 彼女はグラスを空にすると、まだケーキの残る皿をぐいと彼の方に押しやった。

 「ちょっと甘かったから残りは食べていいよ」

 言ってにっこりと笑みを浮かべる。今度は天使のような笑顔だ。彼女の告白を聞いたにも関わらず、また高鳴った心臓に彼は唇を噛んで俯いた。

 「良かったら、舞台観に来てね。楽しみにしてる」

 立ち上がって彼女はじゃあねと小さく手を振った。ふわりと気配だけを残して彼女は背を向けた。軽やかなベルの音が静かな店内に響きわたる。ありがとうございました、という店員の遅れた掛け声が彼の頭に木霊した。


 しばらくして彼が頭を上げると、グラスの中の氷はすっかり解けてしまっていた。水っぽくなったアイスティーを無理矢理喉に流し込もうと手を伸ばすと、透明の筒の中には伝票が丸まっていた。相変わらず抜け目が無いな、そう微笑んだ自分にぐぅと臍を噛みつつも、もう会うことはないだろうと青年は思った。

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夢喰い 涼月 @R_moon

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