表面張力の迷路 Ⅲ

 土浦市にある七菱重工の総合研究所。取材先のミーティス社の住所がその施設内であった。これが気にかかり、事前に峰岸に出資元を確認したりもした。

 昼間はバスの本数が少なく、タクシーで乗り付けた。事前に送られてきた入館証を守衛に見せる。許可されたエリア以外で写真を取らないよう言明された。持参したビジネス鞄にスマート・グラスとスマフォを閉まった。峰岸も倣ってボディバックにそれらを入れる。

 スケジュール的には取材を任せて原稿に専念した方が楽だった。だが実際に足を運んで自分を焚きつけたい気持ちが勝った。門からは車道と歩道が続いており並木もある。目的の北館にむけて歩く。施設内の幾つかの建物を通り過ぎた。

 峰岸はボディバックの袋を前に掛け、右手をポケットに入れていた。俺の前を実に不格好に歩く。時折、体ごと向きを変える。それで気が付いた。こうしている間もコイツは写真を撮っているのだった。つまみ出されては元も子もない。歩み寄る。

「写真を撮るのはやめとけ」

「気づきました? いや大丈夫ですよ見てください」

 そう言ってボディバックを俺に向ける。少し空いたジッパーの隙間から、僅かにスマフォのレンズが顔を出す。

「ぱっと見、分からないですよね。昔ながらの無線ボタンをポケットにいれてシャッター切っているんです。気づかれた事ないっすよ」

「以前、袖に隠したスマフォで写真撮っていて睨まれたじゃないか。インタビューで都内のホテル使った時。廊下で男性客二人に」

「ライフ・ログですよ。それに、そんな一枚が、ある日役に立つかもしれないじゃないですか?」

 良識がないのかと呆れた。「何の役にだよ」と声に出掛かる。それを飲み込んだ。今でもトップ屋と呼ばれた仕事があるのだろうか。田所が近い仕事をしているはずだ。だが、俺は正直そっち方面には明るくない。年に一、二回、芸能関係や政治関係で、世間を賑わせるスクープが出る。だが専門化された狭き門だろう。俺たちの仕事のやり方とは違う。思考を巡らせ説得の材料を探した。その場しのぎの言葉をなんとかひねり出す。

「とりあえず、この施設では止めてくれ。怪しまれたり、問題を起こしたりしたくない。お前、その身長でただでさえ目立つんだから」

「すいません。分かりました」

 やや不満気だが、峰岸はポケットから手を出した。

「無線ボタンも閉まっとけ」

 もう一度手を入れ取り出す。ジッパーの隙間からボディバックの中に入れた。

 やがて、並木の先に北館らしき建物が見えて来た。少し近づくと、エントランスに黒塗りのセダンが止まっているのが分かった。仕立てたらしいスーツを着た男が後部座席に乗り込む。見送っている数名の中にミーティス社の社長の顔が見えた。近づく間に車は俺達の後ろへ走り去る。その様子を峰岸が振り返って見つめた。

「今の誰か分かるのか?」

 そう尋ねる。

「いえ、何処かで見た気がするんですよ」

 峰岸はそう言って訝しんだ。

 

 俺たちがたどり着く頃には、出ていた見送りも引き上げていた。館内に入り社名プレートを見る。七菱重工を連想させない名前が並ぶ。産学連携を名目にめぼしい研究に出資して誘致しているようだ。この前の特集で掲載からは漏れたベンチャー一、二社。それらの社名がある事でも察せられた。

 三階までエレベータで上がった。降りてすぐの案内に従って歩く。ミーティス社とロゴの入ったガラス扉があった。一歩中に入ると正面がすぐ壁だ。内線電話が置いてあり、左右に伸びるごく短い通路の両方に扉がある。こういう場合、片方が来客用会議室、もう一方が執務室等に繋がっているはずだ。受話器を取る。書かれている番号の中から広報を選んで呼び出した。男の声がここで待つよう伝えてくる。しばらくして、小太りした愛想のよさそうな男が左から出て来た。中原と名乗り、右の扉へ俺たちを案内する。

 思った通り、ドアが短い間隔で並ぶ。その一つに通された。再び挨拶する。それから名刺を交換した。その後で、勧められるままに椅子に座る。アシスタントだと紹介した峰岸が、会話の録音の許可を得て、取材がスタートした。

 最初に会社案内を渡される。社長を含め創業メンバーの苦労話をしばらく聴かされた。ひと段落付いた所で、エントランスで社長の他数名が連れだって見送っていた人物について尋ねてみる。

「それは弊社の専務ですね。驚かれたかもしれませんが、七菱重工から出向してきて下さっています。多方面に渡って助言を頂いているそうです」

 それだけ言って、苦労話に戻って行く。脳オルガノイドについての取材だと断ってあったはずだ。これでは困る。何か伝えた方が良いか思案しだす。そこでようやく話題が変わった。

 オルガノイドとは、幹細胞を利用して作るミニ臓器である。今回だと小さな人間の脳を利用する。大きさは小指の先ほどのはずだ。ミーティス社は、既存研究成果に基づき、遺伝子改編を行った。イルカの時と同じくコードを実行可能にし、電波感受性を上げた。

 ここからが独自のアプローチである。培養液で満たした水槽の中に大量に浮かべた。これらの脳オルガノイド群に制御装置となる旧来の電子装置から電波で入出力を行う。同時に計算課題を与えると、自己組織性を発揮して効率的に分散処理を行うよう作られているのだそうだ。この技術のアドバンテージは、学習を伴う社会シミュレーションの分野で既存技術を上回る処理性能を見せた事だそうだ。

 これら小さな脳は、自分の思想や信条どころか意識すら持たない。外部から渡された情報を受動的に処理する存在である。それに思い至り、何故か悲しく思った。頭からそんな気持ちを追い払う。

 彼らは自分たちの装置にミーティス・システムと名付け、そこから社名を取ったのだそうだ。一通り聞き終わり、専門的な解説の一切をはぶいた中原の説明について検討した。これはこれで記事にする時、一苦労しそうというのが率直な所だった。


 自室で作業机の前に座った。ノートパソコンを開き、ペルガミノ社で使っている Slack を立ち上げてある。定刻なので、俺はビデオ通話の部屋を開いた。

 チャットのログに参加の為のボタンが表示されたはずだ。メンバーが少しずつ集まる。新たに表示されたウインドウに顔が映し出されていく。峰岸は先日の自室から、佐伯は経済誌の編集部からのようだ。少し遅れて、澤口がペルガミノ社の打合せブースから参加する。

「お集まり頂いてありがとうございます。早速、次の『脳オルガノイドによる社会予測』に関する打合せ行っていきましょう」

 いつも通り、自然と澤口が進行を始める。そこに佐伯が割って入った。

「その前にいいですか? ペルガミノさん、今回は無理を通してもらってありがとうございます。特集企画を月に三本お願いする事になって申し訳ないです」

 こういった丁寧さは、形式を尽くす価値を俺たちに認めていると言う事だ。長く仕事していると、その辺は理解できている。

「いえいえ、とんでもない。わが社としては、毎月でも良いですよ」

 澤口は定型的な返しをする。だが俺は、つい人員が補充されるまでの間の負担を考えた。顔に出たかもしれない。

「それは心強いです。でも、そうも行かないんですけどね」

 佐伯は苦笑いする。

「ええ、残念ですが心得ています」

「川浪さん、峰岸さん、無理なスケジュールで申し訳ありませんでした。体調の方は大丈夫そうですか?」

「口先だけ、ねぎらって」若い頃なら内心そう毒づいただろう。どちらにせよ、俺の立場で返せる言葉は決まっている。

「お気遣いありがとうございます。問題ありません」

「はい、自分も、これぐらいでしたら、まだまだ大丈夫です」

 峰岸もそう応じた。

「それは良かった。では本題に入りましょう」

「特集のメインは予定通りで良いですか?」

 尋ねた俺に、佐伯は頷く。

「それで大丈夫です」

 既に取材が平行している事は双方理解している。ここでの確認は大抵の場合は形式的なものだ。

 記事の方向性を詰めた。脳オルガノイド利用の今までの経緯。社会の期待。新規技術の概要。市場でのシェアや用途。今後の見通し。

 そこに国際科学研究倫理条約機構の議定書の草案を取り扱いたい。そう言って事前に決まっていた二ページほどの内容を差し替えるよう提案した。幾つかの科目に属する生物の脳。それを計算資源として研究や商用利用するのを禁じる内容だ。決定事項ではない。だが、幾つかの用途において、量子計算機より費用対効果で優れるウェットウェア技術。その推進を止めたい欧米の思惑に沿うものである。各国の集まる会議の席でも、十中八九、通されるだろう。

「川浪さん、澤口さん。この内容、重大度が高そうですね。うちで出してもらっていいんですか、今回は少ないページしか割けませんよ」

 この質問も形ばかりのものなのは分かっている。澤口には仔細に話してなかった提案だ。だが、この場で取り下げない事も予測していた。読み通り、是非にとなった。

 会議を続け、大体の認識合わせが済んだ。そのタイミングで佐伯の後ろから、編集長の村上がこちらをのぞき込む。澤口はすかさず挨拶をした。

 それで佐伯も気付いて振り返る。

「どうしたんですか?」

「久しぶりだから、ペルガミノ社の皆さんに挨拶をさせて頂こうと思ってね」

「じゃあ席を代わりますね」

 村上が着座してアップになる。佐伯はその後ろに立った。ねぎらいを改めて聞かされる。澤口は恐縮してみせた。その間、笑みを浮かべて待つ。これも仕事だ。一通りの形式的な会話を互いに行う。そろそろ会議も終わりだと気を緩めた。そこに村上が俺に声を掛けた。

「いつもありがとう。今回も良いネタを仕入れて記事にしてもらえるみたいですね。恩に着ます」

「お世話になっております。そう仰って頂けて大変恐縮です」

「川浪さんの、抑制の効いた批判で誌面がいつも引き立って満足しています。これからもよろしくお願いします」

 流石に面と向かってそんな事を言われるのには慣れてなかった。つい、シドロモドロに成りかけて持ちこたえた。


 スケジュール上、仕方ない。日曜なのに昼前に仕事に取り掛かる。机のノートパソコンを起動した。前日までに、担当分の連載原稿は上げてある。そちらは澤口達ペルガミノ社で働く編集者の作業待ちという事になる。

 五部構成になる特集記事の最初のパートだ。脳オルガノイドの過去の研究もさらって概要を説明する。中には現在産業界から期待される役割の解説も含まれる。峰岸にまとめさせたモノと自分で整理した資料をまず読み込んだ。

 次に記事の中で取り扱えそうなトピックスを箇条書きにした。肉付けの材料になりそうな事柄を横にメモする。そこから記事の全体像をイメージしながら並び順を考えた。この作業にたっぷり一時間は掛かる。そこからワープロ・ソフトを立ち上げキーを叩き出した。

 時々詰まっては気を散らしたり、資料を読み返したりしながら進める。無駄になるものもある。だが最近はこのやり方に落ち着いていた。日付が変わった頃にベッドに倒れ込む。翌日は八時頃に起きて作業を再開し、第一パートの原稿が上がったのは、昼過ぎだった。気分転換がてら、駅前まで出かけて牛丼屋で昼飯を済ませる。コンビニで、エナジードリンクとコーラを補充して帰宅した。

 ようやく第二のパート。土浦での取材した「社会予想」の内容に取り掛かる。あの後、ミーティス社で脳オルガノイドの浮かぶ水槽を撮影してあった。使う写真は既に決まっている。それをモニターに映して、しばらく眺めた。録音したデータは峰岸にアプリで文字起こしさせてある。そこから、創業に纏わる話は触りだけ入れた。技術的概要は多めに取り上げる。幾つかの企業での実験的活用事例も紹介した。

 総務省統計局に去年新設された未来分析室。そこに量子計算機が七菱重工によって導入されている。ミーティス・システムは二年以内に少彦名(すくなひこな)と呼ばれるそれに連携される形で組み込まれる予定であった。これこそがキモだ。

 日が沈んでからの方が何故か仕事が捗る。その為、スケジュールがキツイ時ほど、段々夜型になっていく。だが平行して ペルガミノ社とビデオ通話で校正のやり取りをしている。それに差支えが出ては仕事にならない。昼夜が逆転してしまわないよう注意を払う。

 それでも、週半ばに眠るのが一時を回った。今後の見通しを書く第四パートを手掛け始めた頃は二時になった。部屋にはエナジードリンクの空き缶が溜まって来る。

 国際生命科学倫理条約機構の議定書の草案に言及する第五のパート。これで国内でも則った法がいずれ整備されるのは自明になる。ここは二ページ程と少ない。また事前にかなり固めて下書きしてありゲラのやり取りも最小限で済みそうだった。

 これで余裕が出来た。後ろの工程に皺寄せが掛かるのは知りつつ誘惑に負ける事にした。夕飯に駅前のグリル料理の店で牛肉を腹に入れる。酔わない程度にワインを飲む。血中にアルコールを補充するのも久しぶりだった。帰宅してから、なんだかんだで、締め切り日の十一時頃になんとか校了した。峰岸担当分の第三パートは澤口がケツを持つだろう。そう考えた後の記憶がない。

 翌日は血圧も上がらず家事も手が付かない。どうにもソファーから腰が持ち上がらない。昼飯前はカップヌードルで済ませた。夕方前ハンバーガーを出前に取る。それ以外は、スマート・グラスでネットオンデマンドのドラマを見て時間がつぶれた。


 夜になって「コーザル」に入る。ベネディクトと訪れたサーバは見渡す限りの草原、サバンナ。草木の香りがしてきそうだ。実際に匂いがする錯覚すらする。それは、随分と昔に、ミナと訪れた高尾山のものに似ていた。本当はもっと枯草のソレに近いのではないだろうかと考える。

 広がる平原。過酷であるはずの眩しい日差し。キャンプという体裁で、十畳ほどのテントが四張り並ぶ。どれも地面から金属の柱で支えられている。構造はかつて日雇いバイトで組み立てたイベント用のものに似ていた。加えて屋根付きのジープが近くに止められている。

 数脚ある折り畳み椅子に腰かけた。ベネディクトはカーキ色のサファリジャケットに同じく半ズボンだ。双眼鏡が置かれたサイドテーブルの反対側に座る。俺は黒の綿パンに革ジャン姿だ。流石にここでは違和感がある。だが実際は室内におり、半袖であるため気温は気にならない。

 辺りにサバンナの写真でよく見る樹木が点在する。イチジクの木。細い幹で枝を平べったく広げたアカシア。そびえるバオバブ。

目の前だが、かなり離れた所に、ライオンの群がいるのが見て取れた。木陰や繁みに寝そべっている。分かるだけでメスは数匹いた。うち何匹かは、子供とじゃれている。

〈たまには悪くないね。こういった大自然の中も〉

 仮想現実とはいえ、単純にそう思った。

〈良かった。最近忙しかったみたいだから、ここならトシさんの気分転換になるかと思ったんだ〉

〈オスが見えないな〉

 缶ビールのプルトップを開けながら言った。

〈きっと、少し離れた所にいるよ。どのへんだろう〉

 ベネディクトがハイボールを片手に辺りを見回す。そして指さした。

〈ほら、あそこ〉

 立派なたてがみの雄が二匹。互いに少し距離を取って伏せている。目線は群れに注がれていた。

 ビールの喉越しを楽しみながら、ライオンの様子を眺める。

〈それで、倫理条約機構の記事が載ると、結局どうなるの〉

〈国内で将来、法改正が行われる事が早めに分かる。鴨川でのイルカの脳の研究も中止されるだろう。導入後、三年と待たずにミーティス・システムは少彦名からパージされる事も予想できるはずだ〉

もっと上手く行けば、導入が見送られる可能性もある。だが、もともとは、海洋バイオ研究所とミーティス社の技術が結びつく事を俺は恐れていた。だから双方に七菱重工が絡んでいると知った時はぞっとしたのだった。ひょっとしたら一部技術供与が既にあったのかもしれない。

〈それ、分かる人が読めばって事なんだよね〉

 俺は頷いた。そこまで煽り立てて書くのは品が無い。なにより世話になっている経済誌のカラーではないと考えていた。それに今さら騒ぎ立てるまでもない。引導を渡すのが俺であればいい。議定書の草案の内容からは時間の問題であるのは明白だ。

〈そう言えば、AIが反乱する小説を書いているんだっけ〉

〈実は、まだそこまで具体的に決まってないんだ〉

〈どんな話にしたいんだい〉

〈まず、そこからだよね。主人公がどんな人物かイメージ出来れば膨らむ気がするんだけど〉

〈ベネさんが、読者に伝えたい事ってなんだい。それがあると決めやすいって聞いた事あるよ〉

〈テーマって事だよね〉

 そう言って考え込む。それを横目に周囲を見回す。今いるテントを挟んで反対側。ライオンと同じぐらい離れた所にバッファローの群れがいた。サイドテーブルにあった望遠鏡を覗く。どうやら池があるようだ。中央の三分の一ほどの個体が泥の中に使っている。

〈ここにいる動物達は、生態をかなり忠実に再現されているらしいよ〉

 こちらに気付いたベネディクトがそう補足する。俺はTV番組で昔見た、アフリカの動物達の狩や相互自助の性質をふと思い出した。

〈自然界での群は結局、集団で環境に適応する。自己組織的に個々が習性として役割を分担してさえ見せる。生き物には、その社会性が生得的に備わっている訳だ〉

 不本意ながら、気が付けばそう呟いていた。

〈トシさんらしくない種類の含蓄だね。このサーバだと夜になれば、相応しい光景が見えると思うよ。ライオンがチームプレイで狩をするからね〉

 それを聞きながら、一本目の缶ビールを飲み切った。


 寝入りばなにスマフォが鳴った。この時間でも呼び出しが掛かるよう許可している番号からだろう。そうするとちょっと面倒な事になる。そう思考はめぐる。だが、なかなか起きられない。そのため出るのに時間が掛かった。

「ああ、良かった。繋がった」

 声からも緊迫した状況である事が確認できる。一気に目が覚めた。

「デスク、何かありましたか?」

「今、経済誌の方から連絡があった。特集企画の一部に問題があって差し替えて欲しいそうだ」

「どの記事ですか?」

「君が碌な相談なしに掘りこんだ、議定書の草案の件だよ」

 嫌味が出る。澤口も疲労がたまった状態でのコレだ。仕方ない。

「どうしてです?」

 聞き流して尋ねた。

「詳しい事は分からん。小坂編集長の話によると、客の偉いさんから待ったがかかったらしい。直ぐに代替原稿が必要だ。着手できそうか?」

「もともとの内容であればなんとか。取材は峰岸に担当させていました。社のクラウドに資料がアップされてないか確認します。デッドラインは何時になりそうですか?」

「明日の夕方には輪転機を回してもらわないと紙版が間に合わない」

「澤口さんは、オフィスですか?」

「いや終電で帰宅した所だ」

「じゃあ、今日は寝てください。自分は取り掛かります」

 そう言って通話を切る。エナジードリンク二本が買ったまま机の上に出しっぱなしだ。片方を冷蔵庫に入れる。残った方を開けた。飲みながら、仕事机に腰かけノートパソコンを開いた。

 社のクラウドを確認する。峰岸のまとめた資料は幸いそこにあった。ファイルのタイムスタンプ的にも問題なさそうだ。少し酔いの残った所にカフェインが行き渡る。冴えてきたように思えた。

 翌日、昼過ぎに出来上がった原稿を Slackで送った。とりあえずカップヌードルを胃に流し込む。最近体力が落ちてきている。流石に徹夜は寿命を削る思いだ。チャット上で一時間の仮眠を宣言してベッドに入る。だが興奮しており一睡も出来ない。時間だけが過ぎる。

 そこにスマフォに着信があった。

「川浪くん、少しは休めたかい?」

「いやまったくですね。澤口さんも昨日は寝れていないんじゃないですか?」

「ご想像通りあまり疲れはとれていないよ。とりあえず、校正を戻したから頼む」

 そう言って電話が切れる。その後原稿をさらに二往復ほどさせる事になった。不本意だが流石にこういう時は仕方ないと諦める。なんとか夜には俺の手を離れた。ベッドで体を休め、後工程の印刷会社は今日が徹夜になるだろうと考えていたら意識が途切れた。


 数日後。十月の特集のため、定例の自社内コンペを行った。神保町に向かう地下鉄の中、クラウド上のカレンダーで共有されている予定を確認する。いつもと違い、打合せブースではなく、応接室兼会議室となっている。理由は察しがついた。

 ペルガミノ社に着く。会議室は自分達の前に利用者がなく、中に誰も居ない。なので執務エリアの澤口に声をかけて中に入った。天井のLEDを点ける。暑くならない程度にブラインドを少し明けた。そこに峰岸が入って来て会釈した。笑顔を浮かべながら「失礼します」と言う。

 俺は片手を挙げて応じる。すると窓から遠い出口の近くに腰を下ろす。いつも通り、申し訳なさそうに長い手足を縮こまらせている。だが気に障るのはソコジャない。下座なのだが、一番涼しい位置を取られた形になった事だ。仕方なしに峰岸に一つ席を開けて隣に座る。そこに澤口が現れる。見回して、仕方なさそうに俺たちの向かい、窓際の席にノートパソコンを置いた。

「編集長が来たら始めよう」

「今日は参加されるんですね」

 峰岸が不思議そうに尋ねた。

「ああそうだ。話があるそうだ。内容は聞けばわかる」

 小坂は直ぐに現れて、皆にねぎらいを口にした。そして、代替原稿への差し替えについて触れる。日曜日の夜、某党の代議士Nから経済誌の社長の方に直接電話があったのだそうだ。二人は同じ高校を出ており、旧知の仲だという。何処から漏れたのか出版前の誌面を見たようだ。「コレが出ると方々が困る。だから自主的に差し止めてくれ」そう強く要望された。小坂はそう説明した。加えて今日からしばらく、ペルガミノ社側の社内コンペに、経済誌の佐伯も立ち会う。そういう対応を相手先の村上編集長から頭を下げて頼まれたとの事だ。

 忖度を迫る為政者。長いものにすり寄る腐敗したジャーナリズム。実際、今回の背景の説明を受けたのだ。それは大蛇の尾を踏まないよう気を付けてくれという意味を言外に含んでいる。

 頭の中では、小坂にも村上にも罵声を浴びせる。久しぶりに強い憤りを禁じ得なかった。指摘こそされなかったが、数分は顔や態度に出ていたと思う。

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