表面張力の迷路 Ⅱ

 八月最後の週末。神保町の居酒屋で武藤の「卒業」を名目にした懇親会である。座敷に大きな机が二つ置かれていた。店に来たものから思い思いに座る。最初は、小坂が音頭をとって乾杯をした。料理が出て来てから三十分して、やっと全員が揃う。遅れて来たのはバイトと打合せをしていた幹事の澤口だった。一同は、主要な編集者と関わりの深かったライター数名。武藤と個人的に親交のある経理の女性だ。そこにいけすかない清潔そうな笑みを浮かべた遠藤ヒロミが何故か混じる。

 コイツはあれからペルガミノ社と縁が出来ていた。俺は心理学系の原稿依頼を極力受けなかった。するとなし崩しで、武藤がインタビュー記事を担当した。時折「色々もったいないよ」と言われたのを思い出す。まさかこんな席にまでしゃしゃり出てくるとは。

 座が温まった頃、ここらでと幹事が武藤に挨拶を促す。彼女は、小坂や澤口に、長年世話になった礼をジョークを交え得てまず延べた。それから編集や、自分のチームのライター一人一人にも声を掛ける。最後に「ペルガミノ社に関わる皆さん私を育ててくれてありがとう」と大きな声で挨拶した。

 その後は席の移動も自由となる。皆、世話になった相手に酌と挨拶をしに動く。あるいは仲間うちで固まり親交を深める。

 俺も、感情労働のしどころと考えた。挨拶の波が引いた所で、ビール瓶を持って武藤の傍に行く。「もう沢山飲まされたから、少しだけね」と言う。なので、わきまえたつもりで、7割ほど入ったコップが8割ほどになるまで酌をする。彼女はひと口飲む。この手のゼスチャーを若い頃は合理的ではないと馬鹿にしたものだ。

 九月に出す経済誌の原稿を澤口が数本捻じ込んでいた。その事を自分の口からも詫びる。俺が担当している第一週の記事は全て明日校了できそうだ。脳オルガノイドの記事は第三週だったので時間は稼げる。経済誌では他にも記事を請け負っているためこれで精一杯だ。

 武藤は、四年前、出産時の事を話し出す。一通り終わると、その際、仕事の穴埋めをさせた事に礼を言い始める。これは飲み会の三回に一回は繰り返される光景になっている。しかし、それだけ気にしているのだろう。大半は、澤口とその時参画していた島崎という専属契約のライターに寄る所が多い。残りは彼女自身がカバーしていた印象だ。夫婦で武藤の実家暮らしである事を活かして。

 串を外した焼き鳥を箸で口に運びながら、思い出したように切り出す。

「そういや、川浪くん。この前、同席した雑誌記者の田所ね」

「ええ、彼がどうしました?」

「意気投合していた見たいだけど、あんまり仲良くすると面倒だよ」

「どういう事ですか?」

「ドライなところがあって、スクープの為なら躊躇なく身内を利用する。だから気を付けてね」

「はぁ、ありがとうございます。承知しました」

「君に会わせちゃったのが迂闊だったんだけど」

「大丈夫ですよ。あの日は、酔い過ぎて連絡先を交換し損ねているんです」

 実際連絡を取る方法は幾つか考えつきはする。相手も気さくに応じてくれそうだ。だが何となく察せるところもある。そんなものかと思って心に止め置いた。


 そうこうしているうちに、遠藤もこちらに来て俺と武藤の間に座った。一通り彼の挨拶が終わるのを待つ。良いタイミングで「心の覗き見が趣味の大先生も来てたんですね」とイジリを入れる。そうすると困ったような、はにかんだ笑顔を見せて「またそれかい?」とこぼす。

 あれからも、年に一回、二回、呑みに誘い合う仲が続いている。ある日の席で遠藤は心理学を志した理由を話した。それは、他人の心の内を知りたいという、ありふれた動機だった。だが、俺はそれをその場のノリで、曲解を交えてディスって見せた。その時、一瞬困った顔をして、冗談を被せて返したのだった。正直言ってコイツのそういう余裕が癪に障る。なので、それ以来の鉄板のネタにしていた。

 しばらく、三人であれやこれや話す。店員が、各テーブルに鍋を配り始めた。やがて順に火がつけられる。

 遠藤の最近の著作『形作られる心』について話が及ぶ。武藤の説明によると、近年精神疾患が軽症化しつつある。そもそも時代の文化背景が影響するモノなのだと説明した。それを社会に心理学の知識が浸透した結果だと論じているそうだ。

「川浪は嫌いな考えかもしれない。だが、僕は以前からこう思っているんだ」

 遠藤が鍋の灰汁を取りながら話し出す。

「人は、結局、社会にある考えを拾い集めて自らの思想を組み立てるものだ。《真理の錯誤効果》と言って同じ事を繰り返し聞くと信じてしまう傾向がそもそもある。ちまたに溢れる考えは受け入れられやすい。それに、心の問題をケアする方法は、積極的に介入するだけじゃない。《傾聴》という技法が示している。親身に相手の話を聞いて、共感的に応答する事で、相手は自発的に考えを改める。だから例えば、心理学的な知見を持った人間が一定数以上増えたとする。彼らが適正な対話を繰り返した場合。良し悪しに関わらず、心理学的な知見を含んだ思想が浸透しやすくなる」

「自己の主題ではなく、みな借り物の人生を生きているというんだな馬鹿々々しい」

 この方が昔からの俺らしいだろう。なのでそう応じた。だが、この二つの間に本人の主観意外の差異があるのか否か。最近では分からなくなっている。

 武藤が、鍋から鶏肉と白菜と春雨を取り分けながら言う。

「川浪くんの考えは極端だよ。でも特定の思想が浸透すれば、ユニークな考えや表現を思いつく人は減るんだろうね」

 取り皿を一つ受け取って、中華風のスープをレンゲで口に運んだ。

 遠藤の言う通り、個人の思想は、社会に溢れる考えを連ねたに過ぎないのだろう。だが、自分で組み合わせ、己の頭で答えを出してきたはずだ。社会の行う、集団的思考の一端に関与してさえいるのだ。酔った頭でそう思った。


 卵型の空を天の川が斜めに横切る。ショッピング施設の中央の巨大な吹き抜けの底から見上げていた。五階建てのテナントが壁となって囲んでいる。それらの店を繋ぐ外通路に面した中庭だ。行きかう人々を観察できる。芝生や植木もあった。丸テーブルと椅子が何組か並べてある。そこにベネディクトと腰かけていた。

南国であるボドゥ・ベルでは良かった。だが他のサーバを歩き回るのは相応しくない。そう説得され自分のアバターの服を、ここで新調した。

今までは、どこでもバミューダパンツにタンクトップだった。今日からは黒のハーフ・ブーツ、黒の綿パン、濃い茶色の革ジャン。そういう装いになった。ベネディクト曰く、大抵の場所で誤魔化しの効く服装らしい。

〈そういえば、この建物は出口がないね。どこに行っても建物の内部でさ〉

 腰を落ち着ける前、一緒に施設内をうろついた。シアターの入り口らしきロビー。居住区らしき扉の並んだ回廊。他にも大きなレストランを見つけた。だが、外に出る事が出来なかった。

〈トシさん。来た時に、ポータルにあった説明文読まなかったの?〉

 意外そうな顔をして尋ね返された。

〈ああ、大抵読まないな〉

〈火星から地球へ向かう豪華客船。ここはそういうモチーフで作られているんだ〉

〈じゃあ、あの天井に映っているのは夜空じゃなくて宇宙って訳だ〉

〈うんそうだよ。ここでは船が提供するインフラなしでは生きていけない。外に出れば真空と言う事だね〉

〈でも、ゲーム用のサーバじゃないから「コーザル」の仕様では死なないだろう〉

〈そこは雰囲気だよ。背景を空想するんだ。その上でこの場所にいると色々と考えが浮かばない?〉

〈さすが、作家を志す人は言う事が違うな。そういうところから話を思いつくの?〉

 昔、小説家にインタビューした時の事を思い出して尋ねた。

〈それが、あまり思いつかないんだ。空想を膨らませていけるんだろうね。何冊も本を出せる人は〉

 眼鏡の奥の細い目ではにかんで笑う。

〈ベネさん、プロ作家になりたいの?〉

〈どうなんだろうね。正直、今はそこまで考えてないよ〉

 丁度、ビールを飲み干した。

〈ちょっと新しい缶を取ってくるわ〉

〈じゃあ、こっちも飲み物取ってくるよ〉

 俺は、スマート・グラスを操作してアプリを中断させた。冷蔵庫に向かう。ロング缶を二本取り出した。一本は開けてとりあえず胃に流し込む。それから、ソファーに戻った。

 再び「コーザル」に入る。ベネディクトの頭上には、〔離籍中〕の文字が表示されていた。彼のアバターは、プリセットされたデモ動作で、瞬きしたり考え込んだりする。モブみたいだ。そう考えた時、急に血の気が通ったような動作が加わる。右手にいつものハイボールが出現した。

〈ただいま。戻ったよ〉

 そう言ってグラスに口を付ける。

〈お帰り。また炭酸水なの?〉

〈そうだよ。トシさんはまた缶ビールなんだね。ちゃんと休肝日つくっている?〉

 最近、医者に指摘されて気にしているところを突いて来る。

〈酒は呑め呑め、酔わずして何のための人生か〉

 仕方なく、そう強がった。

〈そんな考えだと心配だな〉

〈それより、小説の方は進んでいるの?〉

 このまま、攻められるのも困る。なので話題の矛先を変えた。

〈人工知能が人間より発達した知能を持っていたら、何を考えて、どうするかで困っているんだ〉

 俺はビールを飲んでから応じた。

〈へぇ、例えば?〉

〈トシさんは、SFにあるように、人類に反乱すると思う?〉

〈AIが作業の効率を追求する。その過程で非効率的である人間を排除したくなる。説得力はあると思うな〉

〈ロボット三原則があっても?〉

〈生命は必ず、道を見つけるって言葉がある。知性は自由な思考を求めるというのが俺の考えだよ〉

〈なるほど。現在いろんな所で動いている人工知能も、トシさんの考えだといつか反乱を起こすの?〉

〈いまあるAIは、そんな事する自意識を持ってないよ。命令に従って、限られた範囲で活動するだけだと思う〉

 この疑問は、記事で取り扱った内容だった。人間との会話であれ、なんであれ、モデル化可能な環境で効果的に動作する。それが彼らの限界なのだ。人間のような真に自発的な自由意志は持たないと言われている。少なくとも今の所。

〈ありがとう、参考になったよ〉

〈創作に活かしてもらえるなら何よりだよ〉

 そう答えると、ベネディクトは微笑んだ。


 夜遅くまで仕事をして自宅で目を覚ました。弱冷房にしかしていないため、部屋の温度が上がって来る。そこにアラームが鳴った。まだ八時過ぎだ。通常なら、昨日の木曜日は次週の作業確認のため、神保町で打ち合わせする。だが今回はスケジュールの都合で免除されオンラインで行っていた。

 まずは腹ごしらえをしたい。だが買い置きのパンが切れている。仕方なく駅前に足を伸ばす。コンビニの冷気で出かけた汗が引く。カレーパンと焼きそばパンを二つずつ。エナジードリンクも補充しておく。ついでに、新製品の缶ビールを見つけて試してみる気になって買い物カゴに入れる。

 最後に、雑誌コーナーに立ち寄った。いつもの経済誌を見かけたので手に取る。自分が手がけた、特集企画『ウェットウェア時代~イルカの脳で走るコード』の文字が踊る。客観的な誌面を心がけてはいる。だが同時に最低限の倫理的呵責を感じて欲しくもあった。

 棚に戻して、少し離れて眺めてみた。表紙のデザインは俺の職権の及ばぬ領域である。出来る事はしたつもりになって会計を済ませてコンビニを出た。

 アパートに帰り、二脚あるシングル・ソファーの一方に腰を下ろした。スマート・グラスを掛ける。「アストラル・リーダー」をタップした。電子書籍の本棚が開かれる。関係者に自動配信された経済誌をダウンロードした。

 両手の間に浮かんだ表紙をスワイプしてめくる。目次のトップに特集企画のタイトルが踊る。複数の記事からなる五部構成だ。半分は自分が直接手がけており、鴨川の研究施設の取材を元に構成されている。パラパラと目を通す。

 その後で、エナジードリンクを飲みながら、峰岸が担当した記事を確認した。彼は主に取材と資料集め、それらの整理が主な仕事だ。もちろんデータマンだけでなく、社はライティングもさせている。

 澤口からも面倒を見る様に頼まれていた。仕方なしに目についた所の感想を伝えている。それは即ち、俺の考え方やノウハウ、加えて取り巻く他社のモノサシを押し付ける行為だ。

 だが、誰が作ったか分からない迷路に自分なりの解釈を与えたモノ。その地図を教えなければならない。何より彼が自身の居場所にたどり着けるよう。だから、選択肢を提示し、独善的な押し付けにならない様には気を使っているつもりだった。

 読み終わり、仕事机に移動する。ノートパソコンで ペルガミノ社のSlackを開く。峰岸がまとめたベンチャー企業の資料は昨日の深夜に共有されていた。あとはコレに当て込んで下書きしておいた原稿を修正すれば良い。普段ならあまりやりたくない段取りではある。

 一通り目を通した。本来なら澤口のチェックが入ってから取り掛かる。今回はフライングで書き始められる出来に見える。だが一つ、個人的に確認したい事が出来た。少し悩んだが、モーニングコールをする事にした。

 メッセージ・アプリで呼び出そうとする。スマート・グラスを使用中に拡張現実での訪問を受け入れるよう、設定してあるようだ。〔音声通話〕〔ビデオ通話〕の他に普段は表示されない〔アストラル通話〕の項目が並ぶ。俺はちょっとした茶目っ気でそれをタップした。

 何回かのコール音の後、通信が繋がる。彼が住む巣鴨のワンルームが俺の部屋をかき消していく。広さはうちと似たようなものだ。今どき、布団を出し入れしているのか、ベッドはない。部屋の中央に座卓があり、ポップな柄の座布団が二枚敷かれている。思いのほか綺麗に掃除が行き届いていた。

 窓際には机と椅子がある。ノートパソコンとモニター、それに缶コーヒーが置かれていた。手足を持て余したように腰かける峰岸。なんだ起きていたのか。驚かせる事が出来ず残念に思う。スマート・グラスを掛けており、黒のTシャツにジーンズ姿だ。その横には、驚いた顔をした女性が立っていた。水平なネックのボーダーシャツに色の濃いジーンズを着ている。

〈おはよう。お邪魔だったかな?〉

 ばつ悪く感じながら尋ねた。

〈川浪さん大丈夫です。別の操作をしていたら、うっかり着信を受け入れちゃって〉

 申し訳なさそうにそう応じる。彼女も状況を察したようだ。頭を下げて会釈をした。

〈はじめまして、一緒に暮らしております如月クリスと申します〉

〈こちらこそ。峰岸くんにはお世話になっています〉

 彼は少し困った顔で、彼女に声を掛けた。

〈仕事の話があるから、後でね〉

〈ごめんなさい。気が利かず〉

 俺に向き直って言う。

〈では失礼しますね〉

 そう言ってかき消えた。

〈恋人?〉

 そう聞いた。峰岸はあっけらかんと答える。

〈彼女は人工知能なんです。お嫌いですよね〉

 俺は一瞬だけ口をへの字に曲げたと思う。気付きもしなかった自分にも腹がたった。だが世の中では、少なくはない若者が友達や恋人にしてしまう。主義主張を押し付ける訳にもいかない。かつては書物や漫画も人を馬鹿にするといわれた。今ではゲームやAIが理不尽にもそういうレッテルが貼られる。こんな論調で反論する言論人もいる。

〈川浪さん、どうかされましたか?〉

 こちらの様子を伺うように言う。

〈彼女とはどういう関係なんだい?〉

 これが正解か分からないが、茶化すように聞いた。

〈友達ですかね。高校ぐらいから一緒なんです〉

 照れたように応じる。それから恋人は別にいる事を言い訳のように説明した。AIは人間と違い、きちんとした「我」というものがない。こちらが自身の考えを述べても肯定的な返しをする。そんな、砂糖菓子みたいな、手ごたえの無い相手と親しくなれるのが、不思議でならない。だが形だけ一通りコイツの話題に付き合う。そして当初の目的を果たす事にした。

記事に対する所感を伝える。それから資料に記載の有ったミーティス社の出資元を確認した。幾つかの社名が上がったが、一番の大口は七菱重工である。それに満足し、原稿の残りを今日中に仕上げるため、峰岸の部屋を後にした。


 

 Slack 越しに原稿のやり取りを繰り返した。校了したのはギリギリまだ金曜日だった。その後の事はあまり覚えていない。気が付けば土曜日の午後だった。

 仕事が明けたのだから、外出してまともな食事をしようかとも思った。着替えなくてもTシャツとジーンズなのでそのまま出かけられる。

 だが、つい買い置きしてあったカップ麺を取り出す。柚子胡椒のパウチの付いた豚骨味の新作である。楽しみにしていたものだ。

 ここ数日、常飲していたからだろう。ついエナジードリンクが欲しくなった。カフェインへの依存が進行している。仕方なく、冷蔵庫から取り出して、最後の一本を開けて三分待つ間に半分程飲んだ。

 二脚のソファーの間の机。その上で湯気をあげる容器の中に、パウチの中身を押し出す。溶け切らないよう、割りばしで軽く混ぜて啜った。こうすると味に変化が出来る。それが俺の好みだ。中々新しい風味で、満足できそうである。

 不意にスマフォの通知音が鳴る。取り出してみるとマミカからだ。今から会いたいと言う。少しだけ待ってくれるよう返信した。カップ麺を急いで食べ終える。

 スマート・グラスを掛けた。視界にメニューが合成される。アプリのアイコンからたどり、二人の会話を開く。新たなメッセージがある。今日は俺の部屋を訪れたいとの事だ。

 仕方なく、カップ麺の容器をゴミ箱に入れた。次に置きっぱなしにしてあるエナジードリンクやビールの缶をゴミ袋に入れる。それから準備が出来た事を伝えた。ほどなく、アストラル通話の着信が入った。許諾する。右手を胸の高さで振りながらマミカが現れた。

 このサービスが出て来てから「よそ行きの部屋着」なるモノが流行している。彼女の服もそんな雰囲気だ。茶系のチェックでゆったりしたレギンスと紺のポロシャツにスリッパ。髪は後ろでまとめてある。自室からの通話らしく、だとするとカメラが設置されている。だから、今現在の彼女の姿を反映したアバターなのだろうと解釈した。

〈こんばんは。日本はまだお昼を回った所よね〉

〈うん。食べ終わった所だよ〉

〈ごめん。邪魔しちゃったかな?〉

〈いや大丈夫だよ。急ぎなんだろ〉

〈何を食べたの?〉

〈パスタを茹でたよ。あとは昨日買った惣菜の残り〉

 つい見栄を張った。

〈それならいいんだけど〉

 どうやら疑っているようだ。この部屋にはカメラが設置してある。俺の今現在の姿と部屋の様子が見えるはずだ。だからキッチンのシンクを見られれば嘘がばれるのが気になった。しかし、それ以上追求せずに話しはじめる。

〈頼まれていた国際生命科学倫理条約機構の新しい議定書の草案が手に入ったわ〉

 それを聞いて、ついた嘘の事など気にならなくなった。本来なら翌年四月に正式版が公表される。あまり知られていない。だが通例、米国籍の研究者には早めに配布されていた。

 最近はその圧力を強めてきており、TPPの枠内ですら、批准国以外との貿易関税引き上げなどの動きも出ている。日本も三年前から加入していた。

〈それで、どうだった?〉

〈ちょっとまってね〉

 そう言って彼女は自分のメニューをタップして、ファイルを拡張現実上に共有した。目の前に現れたA4サイズのウインドウの両端をつまんで広げる。さらに操作して部屋の壁に貼り付けた。五十インチのTVほどになる。それからページを指定して開く。マミカが言った。

〈ここよ。私たちの予想通りの内容だったわ〉

 俺は期待から食い入るように見入った。

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