表面張力の迷路 Ⅰ

 日差しが肌を刺す。遠景には海原が見える八月のプールサイド。かなりの広さだ。だが人間用ではない。三頭のイルカが水中を列になって泳いでいる。海洋バイオ研究所、広報の大野がマイクで呼びかける。するとジャンプを披露しはじめた。空中で弧を描いて着水する。もう一度、水面に飛び上がり横に回転した。一頭ずつ規則正しく繰り返す。アシスタントの峰岸が何度もシャッターを切った。舞い上がる水しぶきが、霧になって降り注ぐ。心なしかアタリを冷やしてくれる。事前にスマート・グラスを外しておいて正解だ。しぶきで見えなくなっていただろう。続けて、縦方向に回りながら飛び上がる。最後にハイジャンプをする。三頭はそれを終えるとプールを再び、自由に泳ぎだした。先に説明があったとはいえ、芸の後に褒美を貰いに来ない。違和感を禁じ得ない。

 峰岸が一眼レフのバックモニターを見つめる。背が高く四肢が長い。邪魔そうに折り曲げて、撮った写真を確認していた。大野が俺たちに向き直り、得意げに語る。

「ご覧の通りです。調教の難しい、集団で行う統制のとれた演目をごく簡単に行って見せます」

「凄いですね。一糸乱れぬパフォーマンスだ」

 そう返しておく。心中を気付かれないか気になった。

 経済紙の夏の合併号。既にその記事を入稿した後だ。だからスケジュールにも余裕があった。普段は自分ではあまり足を運んでの取材は行わない。だが、こだわりのある企画であった。また夏の海辺という事で行楽気分も味わえる。そこで鴨川まで足を伸ばしたのだった。

 この施設では、哺乳類の脳を遺伝子改変でバイオ・コンピュータに仕立てる研究を行っている。説明では、泳いで見せたイルカ達には、ホーソン・テクノロジー社のAIがインストールされているそうだ。さっきまでのショーは俺の嫌うものが合わさった悪夢だと言う事になる。

 事前に渡されたタオルで、濡れた髪を拭きかけた。だが、既に渇き初めており、そのままにしておく。その代わり、念のため帽子代わりに頭に乗せた。水辺で涼しく感じるが太陽は残酷なぐらい眩しい。

「彼らが実用化されれば、より多くの人命を助ける事が出来ます」

「災害時にと言う訳ですか?」

「まずは海難救助ですね。その他にも、行楽シーズンに合わせて、ビーチ監視員の仕事。つまり、ライフガードのサポートにも需要があると思っています」

 こちらの出方を窺っているのだろうか。欺瞞に満ちた説明だ。いい加減慣れっこだ。そんな目的で研究をしてコストが合うはずがない。

「お人が悪いですね」

 向かいなおってそう言った。大野はなんの事か分からないと言った顔をする。

「海難救助と言う事は、沿岸警備隊の管轄なのですよね。国境警備も行うんじゃないですか?」

「ご存知でしたか。そちらの話も出ています」

「いや、ご立派な研究ですね。地政学的リスクが高まっていますからね」

 そういって表情を伺う。取材の対応に慣れていないのだろう。いまの言葉で少し空気のようなものが和らいだ。もう一押ししてみる。

「国家の為にご苦労様です。防衛設備関係の助成金も出ているんですよね」

 記事に必要である以上の情報を問い詰めてまで暴く必要はない。だが、自然に喋ってくれる分には十分有難い。だから今の言葉は、まじないの様なものだ。武藤の知り合いの田所という雑誌記者による入れ知恵である。

「そうなんです。その他にも大口では、七菱重工さんからの出資もありますね」

 口を滑らせたように思う。方々でウェットウェア関係に出資している嫌な大手会社だ。さらに探りを入れるのも面白そうだ。だが警戒されると困るので控える。次に大野は持っていたマイクに向かって言った。

「サクラ、上がって来てくれない?」

 水中の一匹がこちらに向かって泳いで来る。勢いよく、体の前半分をプールサイドに乗せた。事前に説明を受けた通りの見事なバンドウ・イルカだ。目を興味深そうに動かす。峰岸がシャッターを切る。

「私の発話を彼らに聞き取りやすい周波数に変換して、水中で流してます」

 大野は、ポケットから吸盤の付いたスピーカーを取り出した。イルカの頭部に貼り付ける。

「これで直接話せます」

 電子合成された音声が流れる。

「コンニチハ、ハジメマシテ、サクラデス」

「こいつ。しゃべった!」

 峰岸が黙ってられなかったようで口を開く。

「最新のスマート・グラスにも搭載されている技術ですよ」

 そう言った大野に、俺は相槌を打って応じる。

「非侵襲性の脳トラッキング技術ですね。操作や入力にゼスチャーが不要になる。期待して自分も買い替えを検討しています」

「この子たち専用の機材なので人間には使えませんけどね。脳の特定の部位を読み取ります。そこを流れる信号をデコードしてアナログ音声に変換してくれるんです」

「本当に、イルカが喋っているんですか?」

 尋ねた峰岸に大野が応じる。

「先ほど説明した通りです。正確には、脳にインストールされたAIが話しています。何なら会話してみますか?」

「今日見せてくれた中で、君の好きなパフォーマンスは何だい?」

「スキ? サクラ、ワカラナイ」

「彼らは一般向けのAIと違い、不用な感性が実装されていません」

 大野はそう説明した。イルカに向き直り、ランダムに一つ答える様に指示する。縦スピンジャンプと答えた。やって見せるように指示して、スピーカーを外す。サクラは水中に戻った。プールを一周泳いで勢いを付ける。そして縦方向に回転しながら高くジャンプ。峰岸の切るシャッターの音が聞こえ、再び水しぶきがあがる。その後、悠々と戻って来て、再度プールサイドに体の前半分を乗せた。

「ありがとうサクラ」

 大野は、そう言いながらスピーカーを頭に戻す。そしてこちらに微笑む。他に質問はないかと言う事らしい。峰岸に目くばせをする。AI慣れしているようだ。意外と上手く話題を広げる。さっきの演目中もその間も、イルカ達は本来の高い鳴き声を発さないのが記憶に残った。

 

プールを後にして、研究施設の内部を案内される。そこではスマート・グラスの使用は禁じられていた。だが、許可ある場所でのカメラによる撮影はいいと言う。遺伝子の設計を行うコンピューター・ラボ。妊娠中の母イルカの水槽。峰岸がシャッターを切る音が耳に残る。脳だけを短期間で生産する研究を行う部門。そう紹介されたエリアには沢山の標本が並んでいる。大野が、現在に至るまでの試行錯誤を解説した。峰岸が随分と嫌悪感むき出しの表情を見せる。確かに気分の良いものではない。だが顔に出さないよう耳打ちする。

 どの部屋での説明も大半は、専門的過ぎて理解が及ばない。大事な所を抜き出して原稿に落とすため、録音は続けさせた。

 事前に資料に書いてあった内容と合わせて要約する。これらイルカの脳では特別なコードが神経回路上で実行可能だそうだ。AIのインストールは、電波感受性の高い細胞で構成された新たな脳の部位が担うのだと言う。

 

 取材が終わり、都内に向けて出発した。既に十七時に近い。まず俺がレンタカーのハンドルを握った。房総スカイラインは、最初のうちは二車線ある普通の県道と変わらない。スマート・グラスが〔そのまま直進〕と視界中央の下部に合成している。その横には、目的地まで一時間四十分かかるとの表示。

 左右には田畑。駐車場がやたら大きい飲食店やホームセンター。庭の広い平屋建ての家。並んで営業している個人経営の中華料理店と喫茶店には共用の駐車場。そんな風に景色が流れていく。またしばらく田畑が続き、気が付けば山中に分け入る。林や切通しを抜けて車を走らせて行く。対向車はまばらだ。

 峰岸は一眼レフで取った写真をスマート・グラスで視界に映して整理しているらしい。これは互いに共有を承認しないと、こちらからは見えない。顔の前に手を置いて、指をつまんだり、左右に滑らせている。ゴルフ場への入り口らしき看板を通り過ぎた所で、集中力が切れたのか、伸びをした。

 それから、車外を流れていく景色を眺め始める。退屈気に時折、スマフォのカメラを外に向けた。彼の癖というか、趣味というべきか。シャッター音のしない無音のカメラ・アプリで目に映っている景色を撮影しているのだ。

 それからしばらくして不意に話しかけて来る。

「川浪さんなら、同じ気持ちだと思うんですけれど」

「ああ、多分そうだろうな」

「命をおもちゃにするのにも程があると思いませんか? 取材中、気分が悪くて仕方ありませんでした。生命の本質を軽んじ侵襲して、計算資源に割り当てる。彼らは自由に自らの生を決定する事すら無い。プログラムをインストールされて人間に都合の良い処理を行わされる。体を持ったままの個体だって、本来の生命の喜びを知る事もなくAIにこき使われる訳です」

 かつての俺が言いそうなセリフを静かな調子で並べる。対象が哺乳類ともなれば、今でもこの意見には同感だ。だからこそ記事にしようとしている。しかし最近では諦観も身に染み付いていた。以前ほど、怒りに熱量がないのは自覚している。

 それゆえ、自分と十歳ほども離れた若者の口から、今のような言葉が出ると、かわいくも思えるのだ。つい肯定的な姿勢を見せる事にした。

「たしかに、教育の出来の悪いカリカチュアだな」

「どういう事ですか?」

「現在の学校教育はプロイセン・モデル。あるいは工場型教育と呼ばれている。ドイツで生まれて広まり、日本でも産業の礎になった。つまり、読み書き、計算の出来る労働者を大量に作り出す為に出来上がった代物なんだ。チャイムで時限を区切るのも工場労働をベースにしているからさ。元来、歯車を生み出す装置なのさ」

 峰岸が、そしてかつての俺が喜びそうな解釈だ。社会に対する悪意を持った切り取りである。

 真剣な眼差しで外を見ている。憤りを新たにしているのだろうか。すこし、薪をくべ過ぎたかもしれない。なので、学校教育に、自立した思考を身に着ける事を疎外する側面があるという論を話すのは止めにした。

 社会を離れて自由に生きて行くコストは高い。例えば、小金をためて、それを切り崩す様に世を捨てて生活する。それでも何もかも一人で生み出す分けには行かない。ファッション、音楽、思想。何を読んだり聴いたりするにしてもだ。どこかで出来合いの既存インフラの世話になる。それには教育で埋め込まれた尺度も含まれる。つまり特定の条件で一定の判断が出来る事そもそもが。我々は社会に別ち難く接続されているのだった。

「川浪さん、よく我慢して、行儀よく記事を書いていますね」

「君の出して来る資料だって、ちゃんと客観性を損なわずきちんと整理してくれるじゃないか」

「なんていうんですか、やっぱり仕事にプライドもあるんですよ」

「俺もそうだ。雑誌のカラーや読者の期待を必要以上にはみ出した記事を書きたいと思ってないんだ。その中でいかに表現するのかというのが主題なんだ」

 峰岸は、分かったような、分からないような表情をした。そして話始めた時と同じように、唐突に外を流れる景色に顔を向ける。車は左右を林に囲まれた山中の長い緩やかな下り坂を走っていく。


 俺の住居が、五年前のまま明大前のアパートなのは変わらない。まぁ一時はマミカのマンションで暮らして仕事場として活用していた。ここに戻ってからは、仕事机とベッドの他にも家具が増えて少し手狭になった。最近は二脚ある一人掛けのソファーの片方から、「コーザル」にログインしている。

 南の珊瑚の環礁に立地したバー、ボドゥ・ベルが休業してしばらく経つ。チハルさんの息子が受験生となったため自粛中だそうだ。

 しばしの腰の落ち着け先を探している。ヴェネチア、フランクフルト、ロンドン。色んな都市をモチーフにしたサーバを巡った。様々なカフェやバーを訪れた。だが上手く馴染まない。

 気の利いた景色と立地だと思えば、接客にAIが置いてある。あるいは客層が妙に馴れ馴れしく礼儀を知らない若者だったりする。

 後から、実際に中高校生だったりする事を知って驚く事もあった。そんな場合は、年長者として柔軟に受け入れてやりたくなる。だが、いかんせん話題が合わない。結局、ベネディクトを付き合わせ、ロマニーを気取っていた。最近はSF的な趣向のサーバに良く来ている。

巨大で透明なドーム越しの夜空に浮かぶ二つの月。今日は、火星のパーシヴァル・シティだ。運河に面した繁華街の一角。バロウズ・スクェアの一階にあるバーのテラス席。ここはセルフ・サービスだ。俺はいつも通りビールを喉越しで胃に注ぐ。植え込み越しに、雑踏を眺めた。やつらの大半は、知能を持たないNPCでモブと呼ばれる。だが話しかけると、AIが代替して、即興で作られた個性で喋り始める。

〈それで、峰岸さんが、トシさんの言いそうな考えを言った時、どう思ったの?〉

 ベネディクトはハイボールのグラスを揺らした。氷が触れ合う音がする。眼鏡の奥の細い目をこちらに向ける。

〈正直、同じ意見だよ。だけど、技術の進歩は止められない〉

〈その事には何も感じない?〉

〈無力感とか?〉

〈以前のトシさんは、いつも社会に自分の意見をぶつけたいようだったから〉

〈一応、書かせてもらってはいるんだ。雑誌の読者が受け入れ易いようにフィルターを通しているけれど〉

 ちょっと控えめに答えた。鴨川に足を延ばした件だって、暗に批判的な文脈で取り扱う工夫をするためだ。

 だから諦観はあれど、何処かで己を鼓舞する気持ちも残っていた。それに世間に溢れる考えを連ねて、彼らにぶつけている自負はある。その為に自らにも問うてきたつもりだ。無自覚に侵襲されずに自分の考えを積み上げて来たはずだ。そう考えていると、ベネディクトは意外な事を言い出した。

〈トシさんを見ていて、僕も何か書いてみようかと思うんだ。例えば小説とか〉

 若いサラリーマンが発症しやすい病気に罹ったようだ。給与も安定し、社内での立場もはっきりして来る。すると学生の頃に妄想しただけのような、安直な夢を自己実現の目標に据えたくなる。よくある話だ。そういう意味では彼は俺が思っていたより若いのかもしれない。

〈自分の考えや気持を小説という形で文章にしたいと言う事かい?〉

〈うん、たぶんそうなんだと思う。以前からそれなりに本は読んでいる。だから書く事に憧れていたというのもあるかな〉

〈いいと思うよ。やってみなよ。ベネさんの小説読んで見たいな〉

 俺はビールを飲み干して、次の缶を開ける。そして尋ねた。

〈どんな話を書いてみたいんだい?〉

〈シンギュラリティ物かな〉

〈AIが人類の知能を越えるってあの?〉

〈まさしく、今進行している事だし〉

 世の中はそんな雰囲気ではある。だがシンギュラリティが進行しているなんて事には異論があった。だが指摘は控えた。

〈SFなんだな。でも難しいかもよ。インターネットが出始めた時も急にサイバー・パンクが流行ったらしいけど。他との差別化で苦労しそうだね〉

 ベネディクトは思案気に頷いた。書かせるべきところに水を差したかもしれない。俺は柄にもなく自戒した。

 

 定例のコンペのため、ペルガミノ社の打合せブースで雁首をそろえていた。

「今月末に載るウェットウェアの記事の流れで推したいのは、脳オルガノイドですね」

 俺はそう言いながら机の上に置いた企画書の束を一部手に取った。

「この前、鴨川までイルカを見に行ったヤツの続きね」

 澤口がそう応じて手に取る。峰岸も倣った。この中から四本をいつもの経済誌の担当編集に渡すのだ。

 俺は事前に下調べして、いくつかの技術研究を異なる特集の為にまとめてあった。相手先には、専任を任せてもらってから、相応に多様な企画を扱わせてもらっている。その点、引き受けた当時に心配したほどではなかった。得意としていたITの記事の他、資産投資にまつわるもの。時間の使い方。脱炭素業界。効率的な睡眠の取り方。思考法としての哲学というものまであった。ただやはり傾向やカラーという枠をはみ出し過ぎる分けに行かない。その匙加減が肝であり、結局は窮屈に感じている原因でもある。

「『脳オルガノイドによる社会予測』『計算資源としての細菌』『人工眼球による再生医療』ね。川浪くん、以前に提案していた『中東の光合成プラント』は御蔵入りかい?」

「この前、他誌に近い内容を書かれたので時期を開けたいんです。デスクの企画案の本命は『最新ベンチャー地図』ですよね。あとのは、当て馬ですか?」

「そうそう、ビジネス文章と記憶術の特集とか。どれもかなり以前に取り上げた事のある内容を下敷きに使えるように考えて選んだんだ。いつも通り、二週分の特集記事が採用されるだろう。今回は君が重たそうな企画を上げてきそうだったからね。他の連載記事の事もあるし」

「お気遣いありがとうございます。助かります」

 澤口は、気にするなと手を振ってゼスチャーする。数年前に岡部が辞めた後、編集者の補充は何度かあった。だが結局、経済誌の取り仕切りをずっと務めている。

いつも通り、灰皿を引き寄せて、ソフトケースからタバコを取り出した。この間、何度目かの禁煙宣言をした気もする。だが、突っ込まない事にした。いけすかないビジネス・カジュアルも、ペルガミノ社に入った頃と変わらない。だが顔の皺と白髪は少し増えた。

「さて、ここから絞る訳だけれども」

 澤口は、そう言って咥えたタバコに火を付けた。印刷した企画書の束を眺める。

「峰岸、折角立ち会わせているんだから、自分の考えを言えよ。こういう場所は喋ったもん勝ちだからな」

俺の下について一年になる。なのに、未だこういった場では意見を控えがちだ。だから一言掛けた。

「はい、わかりました」

 快活に返事を返したが頼りない。まあどうでもいい。ここで重要なのは、本命である脳オルガノイドの企画記事が残る事だ。運よく、経済誌側の企画会議を通ればよいが。


 マミカは、七月に帰国していた。だが互いに多忙だった。その為、一度、体温を確かめ合った以上には時間を作れず仕舞いだ。

 彼女は三年前からハーバードでポスドクとして働いている。向こうでの教授職を狙っていた。だから、きっと俺たちは遠距離恋愛とかではない。ずるずると関係を続けて来たというのが正しい状況理解だろう。その関係も近いうちに終わりそうな予感がしている。

 約束の十時半になった。仕事机の前に座り、スマート・グラスを身に着ける。最近流行りのメッセージ・アプリで友人一覧からマミカを選択。〔アストラル通話〕をタップした。しばらく呼び出しした後つながる。

 ワンルームのアパートを、川べりの公園がかき消していく。芝生が広がり土手は築かれていない。開かれた空間が対岸の建物まで広がっている。現実に通話先の相手がいる場所に、自分のアバターを送り込んで訪ねる事が出来る流行りのサービスだ。俺から見える景色は、ネット上に蓄積された映像と、彼女のスマート・グラスからリアルタイムに生成される。

〈おはよう。そっちは朝だろう?〉

〈久しぶりね。周囲の景色は見えている?〉

〈チャールズ川?〉

〈そう、朝の散歩に出ているの〉

 よく着ている服装で普段と変わらなく見える。だが、マミカを直接捉えるカメラが無い場所だ。なので実際の彼女を再現したアバターである事が察せられる。反対に俺は自室にカメラを置いてある。互いを訪ね合うために設置したものだ。靴だけは後から合成されている。だが今着ているTシャツとジーンズ姿で見えるはずだ。

〈君のマンションの引き渡しは済んだよ〉

〈甘えちゃって、ごめんなさい〉

 歩きながらこちらを振り返って笑顔で言う。

〈忙しい中、ありがとう。とても助かったわ。新学期が始まる前だけれど、こちらでやっておかないといけない事が出来たから〉

 下流にある、レンガで出来た橋に向かってマミカは歩き続ける。なので〔追従〕と書かれたボタンをタップした。俺のアバターは一定の距離を保って彼女の後を追う。

〈わかっているよ。大丈夫〉

〈東京に帰ったらまた会ってくれる?〉

 ちょっと間を置いて返事をした。

〈ああ、もちろん〉

 すると、彼女はすこし多弁になった。いつもの様に、研究室で起こった笑い話であるとか、その場の空気を読んで調子を合わせなきゃならなかった愚痴であるとかを話し始める。そこに出てくる面々は、いつも名前を聞いている。そのためか、風貌を思い描けそうなぐらい身近に感じられる。ハウスシェアしているアシュレイ。研究主任のレミントン。その他にも幾人かは写真を見せられて顔を知ってもいた。

 次に、俺が峰岸や澤口、経済誌の佐伯や、取材相手への不満を少し大げさに可笑しく話す。それから、マミカが興味のありそうな最近の話題に時間を費やした。

 ふと、俺たちは、互いの迷路を形成する壁なのだろうと考える。そんな関係でも、付き合って来て良かったのだとも思えた。それから、マンションの引き渡しの代わりに、頼んでいた事について尋ねた。

〈この前、お願いした件だけど手に入りそう?〉

〈来月の頭までには何とかなりそうよ〉

 良かった。これで温めてきた方向で特集が書けそうだ。


 旧盆も過ぎ二十四節季でいう処暑が近づく。だが、落ち着くどころか、ますます猛威を振るう気温にうんざりする。すずらん通りのコンビニに逃げ込むように入った。汗がみるみる引いていく。

 神保町に来ていた。今日は経済誌側で企画会議だ。決まれば向こうの編集の佐伯から連絡がある。という予定なのだが、いつもより遅れていた。その為、結果を受けてペルガミノ社で行う打ち合わせが始められていない。

 俺は買い物カゴを手に取り、奥のペットボトルの並ぶ冷蔵庫に向かう。これでも例年よりマシらしい。だがあまり変化は感じない。なんにせよ、地球が未だ燃えださないのは有難い。

 記事にしている、人工光合成や南米とアフリカの再緑化。いまやそれらの成果は二酸化炭素排出権取引の枠組みで売買可能になっている。実際効果を出しているのかもしれない。

 とうに昼は過ぎている。遅めの飯になりそうな弁当をカゴに入れてレジに並ぶ。付いて来た峰岸が、紅茶を左手、菓子パン二つを右手に持ちあとから列に加わる。俺が払うからカゴに入れる様に伝えた。すると快活な笑顔で礼を言う。こっちも悦に入って「気にするな」と応じた。

支払いを済ませ、表に出る。十分に涼んだはずなのに汗が吹き出す。紅茶とパンの入ったビニール袋を渡した。帰る途中、峰岸は何度かスマフォで目立たぬようスナップを取る。俺は注意すべきか逡巡してから口をつぐんだ。

 

 ペルガミノ社にたどり着いた。残念ながら、編集部の中は快適とは言い難い。エアコンが二八度で固定されているからだ。編集長である小坂の説明だと、ビルの大家が電気代を渋っているらしい。「皆さんこの温度でお願いしています」と頑なだそうだ。

 出かけた時と同じ打合せブース。そこから澤口が半身を乗り出して手招きをする。吹き出し口の真下だ。冷風を当て込んで、ノートパソコンを持って来て仕事をしていたらしい。

「丁度、佐伯さんから結果が届いた。忙しくなりそうだ。夕方からオンライン会議で仔細を詰める」

モニターをのぞき込む。澤口が、Slack をクリックして、DTPアプリの前面に回す。俺が文面を読むのと並行して説明を始めた。

「君の『脳オルガノイドによる社会予測』は通った。それはいい。だが、予定より増えて計三本やる事になった。なんでも他社のライターが倒れて、提案した代替企画がボツったらしい」

「二社入っていましたよね?」

 峰岸が尋ねる。Slack では理由にまでは触れられていなかった。ただ採用された企画のタイトルと、佐伯の申し訳なそうな文面があるだけだ。

「オフィス・ヒカルのライターが倒れたんだろう。参画して日の浅いシュヴァリエ社に二本振るのを渋ったってところかな」

 俺が当て推量する。澤口が頷いて続けた。

「さっき先方と通話したんだ。急性虫垂炎だそうだ。だが多分嘘だろう」

「バックレたんですかね」

「だろうな。うちだと武藤くんがいるからバッファがあるという判断だろう」

「でも、フリーに戻るタイミングで、九月頭から、二週間休みが欲しいって仰ってたんじゃ?」

 峰岸が思い出させた。俺と澤口は無言で顔を見合わせた。

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