囚われた人々 Ⅳ
明大前に帰り着き、駅前の牛丼屋で早めの夕食を済ませる。自宅に戻って、しばらくはベッドに横になり、スマート・グラスで電子書籍を読んでいた。だが、何か落ち着かない。頭の中で何かが形を取ろうとする。しかし、その事に気乗りしないのだった。
振り払おうと、ビール片手にスマート・グラスを掛ける。いつもの時間より早めに「コーザル」へと入った。
ベネディクトは既にログインしており、合流していつものゲームの続きを始めた。
銃を手放した後、陳が解放されて俺の腕の中に飛び込む。安堵した瞬間。俺のカバンから写本を抜いて、王大佐の元に戻った。五顕財有限公司の内通者であった事が分かる。父、劉卓鵬が〈それ見たことか〉とこぼした。
中断前のプレイ内容の再生が終わる。俺達三人は、捕縛されて社長室に連れていかれた。そこで待っていたのは、依頼主である董張偉だった。彼は仙丹を飲んだ不死身の傭兵団について熱く語る。そして引き続き協力するように求めた。
断ると、白々しくも残念がる。陳が、写本が破られており、敦煌から肝心の隠された石窟寺院に至る道が分からない事に気付く。
大佐は俺たちを詰問した。しらを切るが、蘇州で一緒にいた謝が破られたページを持っているに違いない。陳はそう伝え、董は俺たちを処分してしまうのではなく、捕らえておく事にしたようだった。
シーンが切り替わると、俺たちは牢に入れられていた。カードサイズのハッキング装置をベネディクトが取り出す。取り上げられなかった事になっているようだ。内側から電子錠を破ろうとする。
待っている間に、プレイによって頭から振り払っていた事柄が再び頭に浮かんできた。
〈ちょっと、悩んでいる事があるんだ〉
〈ゲームの内容とは関係なさそうだね〉
言いながらハッキングを続ける。
〈この前話した冗談、あながち間違ってないかもしれない〉
〈彼女さんの事?〉
〈マミカにはきっと動機がある〉
〈でもそんな事、可能なの?〉
俺が自分の考えを纏めて、一通り話し終わった時、牢の扉が開いた。
〈それで、長野に行くのは今日なんだよね?〉
〈うんそうだ。十時には出かけると言っていた〉
言葉に出来ない逡巡を感じていると、ベネディクトはこちらを向いて言った。
〈ここから、出口までは一気に行きたいから、今日はここでセーブしよう。ちょうど九時だよ。トシさんの家から、彼女さんの家までまだ間に合うんじゃないかな。確かめてきたらどう?〉
その言葉に後押しされて、意を決し俺は家を飛び出した。
千歳船橋の駅に電車が滑り込み、扉が開ききる前にホームに躍り出る。階段を駆け降り改札を出た。駅前の道の細い夜の商店街を他人にぶつかりそうになりながら走り抜ける。千歳通りに出るころには息が上がって、粗い呼吸で歩くしかなかった。
それでも、並木の下を街灯に照らされながら足を進め、いつもの路地に入る。マミカのマンションまでもう少しだ。呼吸もずいぶん落ち着いた。
エントランスの脇に「わ」ナンバーのセダンが停車している。これに違いないと考え躊躇なく中をのぞく。段ボールが後部シートの足元に二箱、座席に三箱積んである。その上には毛布が無造作におかれている。
サイズ的にはぴったりだ。中身はツマグロヨコバイの飼育ケースに違いない。
「俊くん、来たのね」
後ろから声がする。驚いて振り返ると、街灯の下に、Tシャツとジーンズにスニーカー姿で手提げ鞄を持ったマミカがいた。顔に張り付いた微笑みは、何か諦めたような観念したような雰囲気を漂わせる。少し間をおいて、俺は口を開いた。
「意外じゃなさそうだね」
「気づくんじゃないかとは思っていたの」
「君は今から、飼育ケースを実家のある長野の駒ヶ根まで運ぶんだね」
「ええ、そうよ」
そう言ってこちらに数歩近づいた。影で顔が隠れる。
「自分で設計したウィルスの塩基配列を遺伝子合成会社に作らせた。そしてツマグロヨコバイに感染させたんだね」
「イネ萎縮ウィルスを元にしてあるわ。ヤマトヒカリに感染した場合のみ、遺伝子を書き換えるようにしてあるの。これで子孫を作れるのよ」
重々しい声だった。
「私を止める?」
「禁止する法律はないんだろう?」
「解釈を広げれば、種苗法には触れるかもしれないわ。私が裁判官なら、まず処罰しようとすると思う」
「でも、助手席は空いているんだろう。付き合うよ」
そう言ってセダンのドアを開けた。
ナビは慢性的に渋滞する環状八号を避け、住宅街を縫うように進む迷路のような道を誘導する。都道に入って甲州街道までは一本道のようだ。夜の薄暗い公園の横を通り、リビングから光の漏れるマンションの間を抜ける。対向車とすれ違い、店じまい済みの花屋や、中から談笑の声が聞こえてきそうなバーの前を走っていく。ようやく甲州街道に入ると、片側二車線ある。マンションの合間に、ファスト・フード店やショッピングセンターが顔を覗かせた。信号を渡り、新車がライトアップされるひと気の無い自動車のショールーム。寝静まった大学のキャンパスを通り過ぎて、中央道の調布ICの入口が見えてきた。
「ETCカードは?」
俺は車が出発してから初めて口を開く。
「忘れてた。グローブボックスの中だわ」
料金所に向かうカーブの遠心力に抗う。インパネの上にあるレンタカー会社から渡されたクリアケースを手に取った。目的のモノを見つけて、助手席正面の小物入れを開けると暗い室内に灯りが漏れる。だが、挿入口が見当たらない。
「ここじゃないんじゃない?」
「えっ嘘!」
「じゃあ、こっちかな」
速度が弱まるのを感じる。座席の間、ドリンクホルダーの後ろのコンソールパネルを開いた。スロットを見つけ挿し込む。「カードを確認しました」と電子音が響き、マミカが再びアクセルを踏み込んだ。
「ありがとう。助かったわ」
本線に合流する。星の見えない夜空。一定間隔で照明灯が流れていく。
彼女が口を開いた。
「ウィルスをバラまいている事、いつ気づいたの?」
「ついさっきだよ。それも、家に帰って友達とゲームをしている最中」
俺はおどけて見せる。
「それで、飛んできたのね」
「実は以前にも、もしかしてとは思った。だけど、馬鹿々々しいと思って忘れてた。今日のインタビューでコンストラクトゥール・バイオの社名が出ただろう。君のマンションに同じ名前の入ったパウチの切れ端があった事を思い出したんだ。よくよく考えたら、研究室ではツマグロヨコバイを使ってる気配がないじゃないか」
「そうか。大丈夫だと思ったんだけど」
嘘か本当か、そう笑う。俺は決め手となった動機についての推理は口にしない事にした。そこからは、また無言だった。
多くのトラックと並走する。乗用車はむしろ少ない。夜は更けていく。途中、双葉SAで休憩をはさんで、岡谷JCTで長野道に取る。気が付くと、高速からの夜景は人家や工場らしき光もまばらになっていく。駒ヶ根ICを降りたのは、深夜一時を少し過ぎていた。
ヘッドライトの中に食事処や園芸店の看板が流れる。畑や田、空き地らしい暗闇の合間に、時折マンションや紳士服店、スーパー、ラーメン店が大きな駐車場を取って点在した。ナビを見れば、天竜川の方に向かっているようだ。
少しずつ、道が狭くなっていく。林と見まがう庭の大きな民家が続いたと思えば、視界が開け水田だけになった。マミカはヘッドライトを落とす。更に進んでから、車は止まった。EV車であるためアイドリング音はしない。インパネの灯りだけが室内を照らした。
「ここでいいの?」
彼女は頷き、シートベルトを外して車から降りた。ルームランプは切ってあるようで暗いままだ。後部座席のドアを開ける。上から被せた毛布をどけて、段ボールから飼育箱を取り出した。俺も外に出た。
「貴方の記事の写真もこの辺りよ」
静まり返った中、彼女は囁いた。車の反対側だが十分に聞こえる。穂の付き始めた一面の稲が、風に吹かれ、反射した月明りが揺れた。
こちら側の後部座席を開ける。
「手伝わなくていいわ。私にやらせて」
そう言われて頷いて閉めた。彼女は薄いゴム手袋を取り出して嵌める。取り出した飼育箱を持って水田に近づいた。蓋を外して開口部を稲の海に向けて左から右に大きく振る。月明りがあれど、暗いため灰色の雪片に見えた。決して多くは無い昆虫達。それが扇のように広がる。そして弧を描いて落ちて消えて行った。
彼女が車に乗り込むので俺も助手席に座る。砂利を踏みしめて回るタイヤの音が車中に響く。しばらく走ってから止めた。そして同じ事を繰り返す。十分遅い時間とはいえ、住民に見つかるのを危惧したが、最後まで杞憂に終わった。
何度目かの移動の時、俺は尋ねた。
「君はどうしてこんな事をしているんだい」
動機は分かっている。だが合理的でない。種苗法がある。《雑種交配第一世代》に制限されている発芽を開放しても、農家は《自家増殖》させる事が出来ない。実家や国内の農家のためにこれを行っているなら、まったくの無駄なのだった。彼女はどう思っているのだろう。
「そうね、無意味な事なのは分かっている。やっぱり色々と噛み合ってないよね。私はきっとヤマトヒカリにあるべき姿になって欲しいだけなの」
日が上がる前に作業を終え、まだ朝日の昇らぬ暗闇の中、駒ヶ根ICに向かった。諏訪湖のビジネスホテルに部屋を取っているらしい。長野道を北上する車中でマミカが語った。
「初めて会った時。貴方はパノプティコンを持ち出したわね。私は少し感想が違うの。研究者という形で社会というより会社の歯車をしていたわけ。それは承知の上で世の中を変えられると思っていたわ。
でも、日本アルカネナは意外と欧米的でない社風を残していたの。自分が間違っているとか、合理的でないと思った事も、社内や業界の慣習と論理に基づいてジャッジされる。会議で相手の発言に対して反駁しても、前もってされた根回しに左右されて埒があかない。
彼らが正当と考える彼らの正義で説得しないと事態は変わらない。そういう意味で、私の想いは最後まで会社の思惑とは噛み合わなかったわ。
元の旦那もそうだった。アルカネナでの上司だったのだけれど、何もかも自分で決めたわ。ヤマトヒカリが発芽しないように制御する事を提案したのも彼だった。あの人ともお互いかみ合わないままだったわ。
私はつまり、社会を表面張力の壁で出来た迷路だと思っている。壁一枚で行きたい場所に行けなくても、歯車が噛み合えば、きっと壁を動かすチャンスがあるわ。
俊くんは、今はうんざりしているかもしれない。でも、続けていれば、いつか想いが目の前の現実とかみ合う。そういうタイミングがまた現れるかもしれない。貴方の職業はその時、力を発揮できるのよ。だから諦めないでほしい」
俺はただ黙ってそれを聞く。運転席側からの朝日が彼女のまなざしを隠した。
赤道に近い角度で降り注ぐ太陽。まぶしく輝く。空は青く、海は透き通っている。島は珊瑚の環礁の一部を成して目の前の砂浜は内側に面しており、波は穏やかだ。
チハルさんが、ボドゥ・ベルの店内で客をもてなしている。俺達はテラス席に居た。いつも通り、ビールを口に運ぶ。マミカとの事の顛末を聞いてベネディクトが頷く。今は会話が聞こえる範囲をお互いだけに限定していた。
〈彼女さん、随分と苦労をされていたんだね〉
〈俺はマミカの辛さを理解しきれてないと思う〉
〈でも、誰だって、他人を完全に理解するって事は出来ない訳だし〉
〈分かってる。そう言ってしまえばそうだろう〉
〈来年も同じことを続けるの?〉
〈もう止めるつもりらしいよ〉
俺はビールを飲み干し、傍に置いてあるハズの次の缶を探す。
〈今して上げられる事は傍に居てあげる事じゃない〉
知ったような綺麗ごとを言うなよとは思った。だが会話の無難な締めくくりとしてはそうなるか。そう思考を巡らせてから、実際にそれしか出来ないであろう自分にも気付いた。
その後、二人で島のポータルまで歩いて、ゲーム用のロビーに移動する。
〈彼女さんとの話を聞いたらもういいかなと思ったんだけど、最後までやろう〉
景色が切り替わる前に、意味の分からない事を言うが聞き流した。
プレイを再開して五顕財有限公司のビルを脱出する。南京でカーチェイスを繰り広げ、追手を振り切った。その後は空路で敦煌に向かう。現地で友人の丁に合流した。日焼けして、太った巨漢だ。彼の報告で謝が既に捕らわれている事を知る。陰陽の谷に先回りするか、道中で待ち伏せて助けるかを迫られた。後者を選ぶ。
董と陳が先頭のジープに乗り兵員輸送トラック二台を従えて向かってくる。それを丘の上から双眼鏡で確認した。こちらはまだ気づかれていない。奇襲するとしても、二十名ほどの小隊を四人でどうにかなるバランスのゲームなのか疑問だった。だが、なるほど我々より先に彼らに攻撃を始めた一団がいる。
AKライフルを備え付けたバイクが数台、丘の後ろから飛び出していく。少し遅れて二台のジープが現れて下って行った。すぐに戦線が開かれた。白人や黒人を中心にした集団で、蘇州で俺たちを襲った勢力である事が分かる。この交戦に乗じて謝を助け出す事に成功した。だが董達は損害を追ったものの彼らを退ける。
ゲームのシーンが切り替わり、砂漠に囲まれた陰陽の谷の入口に立った。待ち時間の間に、再開前のベネディクトの言葉が気にかかり始めてつい尋ねた。
〈そう言えば、ゲームに入る前に言っていたのどういう意味?〉
〈ああ、あれ。トシさん、よく社会をパノプティコンだとか、正しさの表面張力が煩わしいと言うじゃない。でも、それってゲームと同じで障害をクリアするヒントが、最初から与えられているって事だよね。手続きを踏めばいい訳でしょ。ゼロから積み上げるよりは、上手くすれば早く希望がかなえられる場所だってことかも知れない。そう伝えたかったんだ〉
意外なセリフに言葉をなくす。気を取り直して、先に到着した董の配下がこちらを狙っている可能性を考えて、用心しながら谷に近づく。ベネディクトは続けた。
〈トシさん、直接アドバイスすると機嫌が悪くなるでしょ。こうすれば気付いてもらえるかもって思ったんだけど、余計なお世話だったよね〉
意外と納得できる捉え方だ。助言を受け入れたくない気持ちはある。数年前なら反発していただろう。口をヘの字に曲げて、嫌味の一つでもと言葉を探した。だが気遣わせていた事に対する申し訳なさが押しとどめる。
不本意ながら礼でも述べようかと思ったが、歩哨がこちらに気付いたようだ。銃を撃ちながら迫ってくる。さっき奪ったAKライフルで応戦を始めた。
たどり着くのが難しいエンディングなのに。ゲームを終えた時、ベネディクトはそう言って陳博士が生き残った事を驚いた。
今週分のゲラが上がる。なのでその確認と次の原稿の打合せだ。あれからは岡部とも安心してやり取り出来ている。ネット越しにビデオ会議もしていた。だがSlack上だけなので不安は残る。
急行を捕まえる事が出来そうだ。京王線のホームに急いで上がり、なんとか電車に乗り込む。ドアに持たれて外を見た。戸建てや低層マンションの間を抜けて、途中の駅を過ぎるたびに、線路脇の建物が高くなる。
直接の専属契約と違い、偶には好きな仕事を強引に受けれないことないだろう。その事を自分に言い聞かせた。そうやって、どこかで抗う自分の心をなだめすかす。その間に電車は地下に降りて、新宿で都営新宿線へと乗り入れた。
神保町の千代田通り、雑居ビルにあるペルガミノ社。その編集部のドアを開けて奥に進んだ。指定のブースを覗く。時間前で前の組が打合せ中だ。周囲に並べてある丸椅子に腰かける。スマフォをいじってると岡部が現れた。随分ニヤニヤとして機嫌が良さそうだ。
「ちょっと良いニュースがあります」
小声でそう言われる。過去のやり取りから嫌な汗が出かけた。癪に触る。
前の利用者が席を立って出ていった。そさくさとブースに入る。向かい合って座るなり岡部が切り出した。
「川浪さんが以前出した企画。先方からOKが出ました」
意外な報告に心が跳ねる。
「それって、どの件?」
応じた声は上ずったかもしれない。
「例の『恋人・友人化するAI』ですね」
「それも一度、断られたよね」
「八月のメイン企画のテーマと合致したので組み込みたいそうです。それと村上編集長の目に留まったとかで。川浪さんなら上手くまとめてくれるだろうって仰ってたようですよ。お親しいんですか?」
そんなに気に入られていたのは知らなかった。
「少しの間、何度かお世話になった事がある。すぐに編集長になっちゃったけどね」
「すごいじゃないですか。うらやましいですよ。その件で、来週は先方の佐伯さんと打ち合わせが入ります。九日の水曜日午後、予定開けておいてくださいね」
言われてスマフォにスケジュールを入れた。岡部がゲラ稿を封筒から出そうとする。今さら、この決断を伝えるのに事に気おくれはした。
「そういえば、専任担当の件受けるよ。悪いね。今まで答えを引き延ばして」
岡部は一瞬、何を言われたか分からないようだった。だがすぐ、ニヤついた笑いを浮かべる。
「ありがとうございます。その件もう諦めていました。これで当初計画した体制で回して行けます。そっちの詳細も少し打ち合わせておきましょう」
こう応じられて安堵した。ここで周りが作ったレールに乗せられてみるのが、近道かもしれない。噛み合う事につながるかもしれない。仕方なく腹を括ったつもりになった。
その年の秋。駒ヶ根の収穫後、水田で去年より多くのヤマトヒカリが穂を付けて話題になった。この日に岡部から感じた違和感は翌年に現実ものとなる。彼はペルガミノ社を辞め、競合する編プロに転職した。
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