囚われた人々 Ⅲ

 遮光性のカーテンが部屋を暗く保っていたが、日は高く昇っている。裸のマミカを起こさないように、そっとベッドから抜け出した。ジーンズとTシャツを持って寝室を抜け出し、キッチンへ向かう。続きのリビングは明るい。服を着てから、シンクにある昨晩の皿を洗う。乾燥カゴへと並べた。腹が減ったが炊飯器すら見当たらない。パンも切らしているようだ。下駄箱の上にある小物入れから、カギを取って外に出る。

 歩道と車道の間に街路樹とガードレールのある大きな道。初夏の日差しを浴びながら歩く。表通りの駅に向かう途中にあるコンビニにたどり着いた。自宅の近所と違うチェーン。当然、品ぞろえも少し違う。カレーパンとクリームパンを二つずつ。それと野菜ジュースにカフェオレとブラックコーヒーを買ってマミカのマンションへ戻った。

 空腹と天秤にかけて、起きて来るのをもう少しまってみる気になる。とりあえず、リビングのゴミ箱に重ねられた袋を確認する。可燃ゴミだけなので、三角コーナーの中身をぶちまけた。中に見慣れぬパウチがあり、コンストラクトゥール・バイオと書かれていた。名前に覚えがあるようで気に掛かった。だがフランス製の健康食品か何かだろうと結論した。もう一度外に出て、表のごみ捨て場に置いて戻る。

 リビングでソファーに座った。リモコンでTVを付ける。情報系バラエティ番組を流しながら、スマフォを手に取った。既に昼前だった。ニュース・アプリがサジェストしてきた記事をチェックする。そこに、部屋着姿でマミカが現れた。

「おはよう」

「目が覚めた?」

「もうお昼が近いわね。食器洗ってくれたんだ。ゴミも捨ててくれたのね」

 俺は食卓に戻って答える。

「パンを買って来てあるけど食べる? 好きなの選んでよ」

「ありがとう。お皿出すわね」

 彼女はクリームパンを一つと、ブラックコーヒーを選んだ。俺はカレーパンと野菜ジュースを取って、残りを冷蔵庫に入れた。

「頂くわ」

 席に着いたマミカが口を付ける。俺も座りパンの封を開けた。一瞬視線が交差する。目を見ながら、そのまま齧りついた。

「そうそう、この前、頼まれていたインタビュー受ける事にしたわ」

「そう伝えるよ。君にとっていい話だったんならいいんだけど」

「良くは分かってないんだけど。この辺で、少し露出しておくといいんじゃないかと教授に言われたわ」

 そういうものかと思って頷いて聞き流した。中のカレーの辛さを確認しながら、仕事の愚痴を話してみる事にする。

「ちょっと聞いてくれるかい?」

「どうかしたの?」

「おれの新しい担当編集の話なんだけどさ」

「うんうん。そういうの興味あるわ」

「自分の思い通りにならないと、あの手この手で要求を飲ませようとしてきてね」

「いるわよね。そういう人」

「俺はね、この間の経済誌でIT関連の記事を幅広く扱う事が多い。より専門的な内容は他に得意としているライターがいたりするんだけど。何故か専任担当にならないかと持ちかけられてね」

「その雑誌の専属ライターと言う事?」

「いや、あくまでペルガミノ社との契約の話なんだ。単価もあがる。だけど、面白おかしく、無責任で幅の広い内容を扱う事はほぼ無くなる」

「貴方、その仕事が好きなのね」

 その言葉が意外で俺はしばらく自分に問うてから、答えた。

「うん、多分そうだ。君に言われて気付いたよ。専門を一つに絞って視野が狭まるのが怖いんだとばかり思っていた」

「単価は上げたいけど、好きな仕事は出来なくなる。難しいわね。無理いって両方書かせて貰うことは出来ないの?」

「最近、駆け出しのバイト・ライターを沢山集めたので、そちらに回したいらしい。それに、俺のレイヤーだと、いざと言う時は、同程度の内容の記事のカバーに入って欲しいそうだ」

「気持ちは分かるわ。私がアルカネナを辞めたのも同じような理由よ」

「同じ?」

 マミカは、リビングに面した、ベランダの方に目をやる。俺もその視線を追った。彼女はポツリ、ポツリと話始めた。

「私の実家は長野の駒ヶ根でね。農業法人として稲作をしていたの。おじいちゃんの口癖が、お前は美味い米を作れだったわ。わたし、その影響で遺伝子生物学を専攻して、生物情報学を学んだわ。ヤマトヒカリが製品化した時はこれで祖父の期待に応えられたと思った」

「違ったのかい?」

「私、分かってなかったの。意味をよく考えてなかったのよ。当然アルカネナは、出来た遺伝子を知的財産として考え、勝手に繁殖されないようにしたわ。種苗法で守られているだけじゃ我慢できなかったのね。それはきっと祖父と私が望んだ米とは違ったわ。したい仕事とさせてもらえる仕事が同じだとは限らないのよね」

 二人の間に沈黙が流れる。彼女は見知らぬ人物に思えた。俺が視線を戻すと良く知った微笑みを湛えていた。


最近のIT技術を紹介する原稿の件でペルガミノ社を訪れた。打合せブースに入って来た時から、岡部は見るからに機嫌が悪そうだ。

ふて腐れた態度も、仕事に影響を与えるほどではなかった。だが、前回の件もある。俺に向けた感情表現なのだろうとは察せられたので、理由を聞くのは躊躇われた。

脳の活動を非侵襲式でトラッキングしてデバイスを操作する技術の小型化が進んでいる話題。人工知能を利用した企業経営のサジェストサービス。普及してきた警備用ロボット犬。これらが今回担当する記事だ。どの技術も目新しくは無いが、アップデートされてきており、それが革新的である程度を上手く短い原稿で説明するのが腕の見せ所だ。

 一通り打合せを終える。別段、機嫌が悪そうである事以外はなにも無い。なので澤口が上手く話してくれてあるのだろうと安堵した。

 ペルガミの社から出て駅に向かう途中。以前より減ったとはいえ、まだ古本屋の並ぶ表通りで、声を掛けて来た人物がいた。武藤だ。

「やぁ、川浪くん。インタビューの件ありがとう。近いうちにペルガミノ社のSlackで調整させて貰うね」

 メッセンジャーで返事をした件に改めて礼を言って来た。

「その件は良いお話、ありがとうございます。武藤さんも今日打ち合わせだったんですね」

「しかし、大変だね。岡部くんの機嫌が悪くて。隣のブースに居たら、聞こえて来たんだけど、気の毒でならなかったよ。君も早めに、例の担当の件、応じてやればいいのに」

「それ、岡部の機嫌になんで関係あるのか分からないんですよ。何であんなに俺を専属ライターにしたがるんですかね」

「自覚ないのかい?」

「どういう意味です?」

「失礼だけど、君はもう少し自分の立場を知った方がいいと思うよ」

 思い当たる節が無く二の句が告げずにいるとなにかを察した武藤は続けた。

「君は編集部内での評価は高いんだよ。みんな当てにしている。もちろん僕もね」

「もっと名の通った人も所属しているじゃないですか」

「ペルガミノ社には、君ぐらい力量があって、抑制の利いた情熱ある批判精神を持ち合わせたライターは足りないんだ。僕も裏では君に下についてもらえないか、デスクに打診しているぐらいだ」

「岡部くんは、君を専任担当で据えて、例の経済誌から、記事の枠をもっと取れないかと考えている。編集長も乗り気でね。君を説得できたら、取り仕切りを任せると確約したそうだ」

 不愉快にも裏で出世の具にされている。檻に囚われているだけでなく、自分の思惑とは別に、モノの様に取り扱われている気さえした。それが、評価されていると言う事なのは重々承知している。とはいえ、岡部の態度の意味は理解が出来たのだった。


 その夜、再開したゲームの中。敦煌にいる友人、丁皓然(ディン・ハオラン)を頼る段取りで、謝を先に向かわせる選択肢を選んだ。陳を含めた俺たち三人は、父の救出に南京に向かう。ベネディクトのキャラクターが持っているハッキング技術で、五顕財有限公司ビルに侵入した。父である劉卓鵬(リュウ・ケヤオ)の救出がかなう。

 監視カメラを避けながら、縫うように死角を歩いていく。別室で待たせていた陳の元に戻った。

 扉を開けるとマミカに似た彼女が振り返る。その後ろには頭一つ背の高い軍服姿の男が立っており、これ見よがしに銃口を彼女の頭に突き付け言い放った。

〈銃を捨てないとコイツを撃つぞ〉

 襟には階級章がある。ゲームシステムがガイドを出して、五顕財有限公司の王(ウォン)大佐である事を知らせる。

〈殺すもんか。どうぞやってもらおう、彼女は敵だ〉

 父はそう吐き捨てた。陳は悲壮な声で大佐に従うよう懇願する。三人が各々のセリフを三回繰り返したところで、ベネディクトが言う。

〈悩んでるんだ? ゲームなんだから、もっと簡単に決めればいいのに〉

〈自分の選択に、彼女の命運が掛かっていると思うとね〉

〈ここの選択待ち、シナリオが分岐しそうだね〉

〈俺もそう思うよ。さて、どうするかな〉

〈似ているものね。そういえば、マミカさんにも、パノプティコンの話もしたの?〉

 彼にとって、俺はそんなイメージなのかと内心苦笑しつつ答えた。

〈最初に会った時にしたよ。それで意気投合したんだ〉

〈ボドゥ・ベルでも、僕やチハルさんにも話していたよね。あの時は、あんまり共感出来なかったんだけれど、理解してくれる人が出来てよかったじゃない」

〈ありがとう。あの話、そんなに分かりにくいかい?〉

〈理屈は分かるんだけどね〉

〈銃を捨てないとコイツを撃つぞ〉

〈殺すもんか。どうぞやってもらおう、彼女は敵だ〉

 大佐と父のセリフが五回目のループに入り、陳が従うように懇願する。

〈彼女を見捨てるのはうしろめたいな〉

 そう言って、俺は獲物を傍の机の上に放り出して、両手を挙げた。


 平日の火曜日、電車が下北沢のホームへ滑り込む。改札へ降りる階段の手前で、人の流れを避けて立ち止まった。スマフォを取り出す。メッセージ・アプリで、マミカに居場所を尋ねた。改札を出た所で折り返しがある。返信されて来たチェーンのコーヒー店に向かって、東口から、商店街に分け入っていく。

 個人医院の向かいにあるその店に入り、店舗の奥の階段から二階へ上がる。

通りに面したカウンター席に、見慣れた頭の形をした女性が座っていた。どうやらノートパソコンを広げているらしい。

 出来心で脅かそうと、そっと近づいてのぞき込む。スケジュールを広げている事が分かった。気兼ねして、予定を見ないように、直ぐに耳元で「お待たせ」と囁いた。

 彼女は驚いたそぶりもなく、こちらに顔を寄せて言った。

「俊くん、早かったわね」

 今日は、青のデニム・スカート。黒い袖なしのポロシャツにハーフ・ブーツ。アイスのモカが入ったプラカップをパソコンの横に置いてある。

 逆にこっちが照れながら、空いていた隣の席に腰を下ろした。

「本当は、昔通ったカフェで待とうと思ったんだけど、どうやら無くなった見たいだわ」

「そうなんだ。下北沢が君のテリトリーだったなんて以外だな」

「そう? 演劇をやってる知り合いがいたから、公演のたびに見に来たの。それ以外でも服を買いに来たわ」

「古着屋が多いのも、劇場やライブハウスが沢山ある影響なのかな」

「ええ、きっとそうなんでしょうね。友人もそんな事言っていたように思う」

 そう言ってストローでモカを飲み干す。

「さぁ、今日は、美味しいお店を教えてくれるんでしょ?  早く行きましょう」

 彼女は立ち上がって俺に手を差し出した。

 

 洋服を取り扱う店が多く並ぶ、下北沢の商店街を抜ける。昼時に出すお洒落なプレートが有名なダイニングバーに、彼女を連れて行った。記憶の中から、雰囲気の良い店を気取って選んだというのが正直な所である。

 実際に来るのは久しぶりだった。なので以前と変わらぬメニューをやっているかは事前に調べておいた。

 平日の少し遅い時間である事もあり、相応に人はまばらで、待たずに入れる。以前と変わらぬ、ゆったりとした雰囲気。ソファーが小さな机を囲む席が多い。勝手に腰かけた二人席も、マミカの座る壁側は一人掛けのソファーだ。DIYされた棚には意外と日本酒が並ぶ。だが昔来た時もあったか、記憶は定かじゃない。

 彼女は俺が注文したのと同じものを頼んだ。ローストビーフがメインで、サラダにマッシュポテトにレタス。綺麗な半円形に盛り付けられた、香りを付けられたライス。その上には、アーモンドのトッピング。

「美味しそうね」

 彼女にしては珍しく、目いっぱい口に頬張った。

「ところでメッセージで、連絡を貰ったインタビューの日。俊くんも来てくれるんでしょう?」

「いいよ。十五時にN大学だよね」

「あと、ごめんなさい。その日は金曜だけれど、実家に帰るから夜は居ないわ」

「変わった時期に帰るんだね。法事か何か?」

「そう祖父の三回忌よ」

「仕方ない。終わったらアパートに帰るよ」

 マミカは、ライスには手を付けなかった。彼女が米を食べたのを見た記憶がない。家には炊飯器も無かった。

「お米は食べないの?」

 あまり深く詮索し辛く、軽い感じでそう口に出した。美しい顔に、一瞬だけ眉間に皺を寄せる。

「あまり、食べたくないのよね」

 そう言って、彼女は曖昧にほほ笑んで見せた。


 打合せブースに腰を掛けて岡部を待つ。ふと、ヤツの虫の居所を心配している自分を自嘲する。あいつこそ、こちらの機嫌を心配すべきなのだ。ちゃんと、こちらを活かしてこその編集だろう。そう考える事で頭から悩みの種を追い出す事にした。岡部を探して、執務室の方に目をやる。ノートパソコンに向かう編集長の小坂と目が合った。会釈すると、片手を上げて応じてモニターに視線を戻した。

「川浪さん、お疲れ様です。じゃあ前回のゲラ刷りの話から始めましょう」

 岡部がやって来て腰を下ろす。その様子、表情から安堵する。今日はごく普通に打合せをして、自然な流れで終える事が出来た。ここから、次の原稿の話になる。はずだった。

「次の依頼は、ありません。いままでありがとうございました」

 すました顔でそう言うので、俺は面食らった。

「何の冗談だい。岡部くん」

「澤口さんにチクりましたよね。僕を敵に回さないようにお伝えしてあったのに。金輪際、川浪さんに仕事を依頼する気はありません」小さな声でそう言う。

 言葉に詰まり怒りがこみ上げ、俺はつい立ち上がって、相手の胸倉をつかんだ。

「なにするんですか?」

 岡部は急に叫んだ。続けて大声を張り上げる。

「暴力を振るわないでください。誰か助けてください」

 あまりの事に、そのまま殴り掛かりそうになったが、手を放して、両手をあげた。

「僕は何もしてません。コイツが俺を嵌めようとしてます」

 即座に抗弁する。

「あんた、胸倉つかんで、殴り掛かろうとしただろう」

 岡部が声を荒げて反論してきた。右隣のブースから、武藤や、見知った編集が顔を覗かせる。奥の経理担当の机から、女子社員が恐々とこちらを伺っていた。

 そこに澤口が駆けつけて、なだめ始めた。

「こいつは、俺に今後仕事を発注しないと言って来たんです」

 そう言い終わらないうちにヤツは被せて言い放った。

「そんな事言った証拠あるんですか? いきなり掴みかかって来て、あんたこそ僕を嵌めようとしているじゃないか」

 互いの主張をぶつける相手が出来たため、エスカレートして埒が明かない。そう分かっていても引き下がれない。

「さっきのは間違いなく暴行に該当する。編集部内でもちゃんと世間の法律に従った基準で判断してください。ここは無法地帯ですか?」

 調子づいた岡部がさらにまくし立てた。そこへ、いつの間にか左隣のブースに居たらしい小坂が出てきて一喝する。

「お前ら、いい加減にしろ!」

 いつもは、のらりくらりとしている編集長に、気圧されて俺もヤツも口をつぐんだ。

「この件は僕が預かる。みんな仕事に戻れ」

 そう周囲に伝えた。


 会議室で小坂と澤口がなにやら話している間、武藤が俺と岡部を監視する。

しばらくして二人が出て来た。小坂はヤツを連れ、もう一度中に入って行った。澤口は打合せブースの向かいに座る。これを両者に責のある諍いとして処理するのだろう。何もかも、迷惑極まりない。とんだとばっちりだ。

 嫌味なビジネス・カジュアルは、意外な事に、開口一番謝って来る。

「申し訳ないね。岡部への伝え方が悪かったのかもしれん」

「いえ、彼の様子では、遅かれ早かれ、何かしらの被害を被っていましたよ」

 先に謝罪されたので溜飲は下がった。だが、これは悪い予兆な気がした。

「そう言ってもらえると、こっちとしても気が休まる。だけれども、今回の件は編集長と話して、二人の喧嘩という形にする事になった」

 予想通りの内容を聞かされた。だからこそ、いちど収まったはずの怒りが再び煮えくり返る。喧嘩両成敗の事なかれ主義。こんな馬鹿げた慣習に従って、実際にどちらが悪いかなんてお構いなしと言う訳だ。

「岡部は三か月の減給。川浪くんは1ランク降格だ。悪く取らないで欲しい。君の処分は便宜的で、秋の評価でもとに戻すから」

 ヤツのは一時的だ。だが俺は単価の上昇が遅れるという点で恒久的である。不公平に思わないハズがない。自分が奥歯を噛みしめる音が聞こえた。

 こんな理不尽にはキレても構わない。以前も、今もそう思っている。だが、その場が定める、規範の外へと出ては自分が損をする。それが俺の知った世間と言う奴だった。岡部の胸倉を掴んだのもそのたぐいだ。だからこんな目にあっている。まとわりつく正しさの表面張力に不快感を覚えた。

 だが俺は溜息一つで何もかも飲み込むしか無い。だから「承知しました」と返答した。

 

 沈黙の後、澤口はこめかみを揉んで、タバコを吸い始めた。一服着くと、やっと岡部とのやり取りを俺に尋ね。編集長が隣で聞いていた流れとほぼ同じだと言う。打合せを済ませたらしい武藤がこちらに現れ、ねぎらってくれた。

 たっぷり搾られたのだろう。随分時間が経ってから会議室から二人が現れる。岡部はうなだれていた。澤口に促され、俺も立ち上がり二人を迎える。それから小坂が背中を押して、こちらに岡部が歩み寄った。

「行き過ぎた対応をして挑発した件。この度は申し訳ありませんでした」

 ヤツはさらに頭を垂れて言った。

「こちらも、同様に過剰な対応をしたうえ、つい胸倉まで掴んでしまい。すいません。謝罪を受け入れてくれますか」

 こういう場合は、より下手に出た方がマウントを取れるものだと割り切る。精いっぱい態度で示して見せた。こちらから手を差し出す。岡部は手を取って礼を言った。それから一瞬身構えるヤツを無視して、軽くハグして見せる。その場は収まった。

 本来、俺の仕事である依頼の半分は既に他のライターに割り振り済みだった。念の入り様に閉口する。まだ担当の無い依頼を集め、澤口が単価の高いモノを幾つか、こちらにまわしてくれた。そのため収入に大きな実害が出ずに済んで、安堵する。檻の中から出られない囚人の様な気持ちがした。

 その日はやりきれず、気分転換に「コーザル」に入った。ゲームはプレイせず、ボドゥ・ベルで、ベネディクトやチハルさんと談笑した。俺はビールを持ち込んで飲みながら途中から岡部がいけ好かないヤツであると滔々と語る。経験のない上に、やり手を気取って、こちらを強迫して言う事を聞かせようとして来た事。普段からの軽いのりに加えて不誠実なやり口。にもかかわらず、世間で空気と呼ばれている表面張力を忖度して腹に収めた事。

 最後の方は、客の連れているNPCにも絡んだ上、ご丁寧に慰められたようだ。それを翌日二日酔いの中、苦々しく思い出した。


 次の週末。金曜日。千歳船橋で武藤と合流した。以外と大きな荷物を持って現れる。駅に着いた事をマミカにスマフォで知らせ、二人でタクシーに乗り込んだ。今日は彼女のマンションに向かう道をたどらない。並木の間をまっすぐ直進する。すると左手にN大学が見えはじめた。途中にも入り口があったが、運転手は律儀に正門前まで走らせて止める。俺は先に降り、武藤が会計して領収書をもらった。

 構内に入り、木陰の下を何度か学生とすれ違いながら奥へと進んでいく。中央の研究棟のエントランス・ホールで数名が立ち話をしている。その中にマミカがいた。

 俺は恋人に職場でどう声をかけるべきか躊躇していた。それを察したのだろうか。武藤が先んじて歩み寄る。会釈して挨拶し名刺を渡した。

ちょっとした間を空けて、マミカが尋ねる

「武藤さん、妊娠されていますよね。何か月なんですか?」

「よくわかりますね。十一週ぐらいだと思います」

「おめでとうございます。うらやましい。わたしは結局授からなかったから」

 さほど驚かなかったが初耳だった。武藤をかばいながら、マミカが俺たちを案内する。

 研究棟は、中央に吹き抜けがある開放的な構造だ。エレベータで四階まであがり、バイオ・サイエンス学科の研究室にたどり着いた。室内は空調のファンが回り、冷房が掛かっている。戸口に温度計があり二十五度を指していた。

「教授を、ご紹介できれば良かったんですが」

 研究室の主の不在をマミカが説明する。武藤はすこし残念そうだ。生物学での遺伝子研究と聞いて想像した機材を探して目がさまよう。ノートパソコンが思い思いに並べられた中央の机。窓に向かって右の壁に目を向けると、二つの黒い柱が並ぶ。そろって一八十センチ程。思わず尋ねた。

「これ、量子コンピューターだよね。穂高電通のレゾナント2209」

「やっぱりこっちに目が行くわよね。科学技術庁が管理している思金神(おもいかねのかみ)の一つ前のスパコンを構成していたのと同型。これは学部生用に最小構成で組まれているんです」

「ということは、もっと大がかりのものがあるんですね」

 武藤が尋ねる。

「私がいたアルカネナの設備には及びませんが、十六台連結したものを各学部が共有して使っています。もっと、ちゃんとしたサーバ・ルームに設置してね」

 武藤は口笛を吹いて言う。

「それはすごい」

 そういえば数年前にN大が導入する件を取り扱った記事を読んだ覚えがあった。

「しかし、こんなコンピューターしか無い環境は想像してなかったよ」

 これに関して、武藤は予想通りであったようで、軽く微笑んでこちらを伺う。

「となりの部屋は、もっと雑然としていて生物学の研究室っぽいですよ。ご覧になります?」

 一度廊下に出て奥に進む。連れられて再び扉を入る。机の上にはメーカーの異なる炊飯器が何台か並び、何故か籾殻が散っていた。部屋の隅には品種の異なる米袋がいくつも積み上げられている。入って正面の壁にあるのは遺伝子シーケンサーと味認識装置だそうだ。稲のDNAと炊飯後の味の評価をセットでデータ・ベースに取り込む作業に使うと言う。それを元に美味い米の遺伝子を深層学習で予測させて、最終的には実際に栽培してみるとの事だった。

「もうひとつ隣には、試験管や滅菌機、安全キャビネットの置かれた部屋があります。そこで稲に作成した塩基配列を組み込むんです。そちらはお見せ出来ないんですよ。今までの二部屋のどちらで撮られますか?」

 先に伝えてあった記事に使う写真の件について尋ねて来る。

「両方で撮影させていただけますか?」

 武藤がそう応じて、カバンから一眼レフを取り出した。


 撮影を終えて、レゾナントの前でインタビューが始まる。マミカに促され隣に座った。

 武藤が彼女に、生物学者になった動機について尋ねる。応じて祖父との思い出を話した。続く幾つかの質問のあと、ヤマトヒカリについて聞かれると「あれは未完成なんです。食べて欲しくないのが本心ですね」と口を滑らせる。そして、笑いながら、その部分のカットを願い出た。

 現在のバイオパンクと呼ばれている、DIY生物学の話になった。マミカは米国で素人の作った遺伝子加工作物が、環境へ及ぼした影響の報告を引き合いに出す。そして、日本でも、そう言った方面の法整備が遅れているとの認識を示した。幾つかの製品の流通を規制すべきだ。人工遺伝子合成会社の受注を研究機関だけに許可する方が賢明だ。そう自説を唱える。上がった社名の中にコンストラクトゥール・バイオの名があった。

 最後にこれからの、活動の展望について質問され、少し間を置いたあとで「新たにより完璧な稲を作りたい」と述べた。

 インタビューを終えて、通り一片の礼を互いに言い合う。武藤はICレコーダーの録音を止めてから尋ねた。

「これは単純な興味なんですが、日本アルカネナをお辞めになった理由をお伺いしてもいいですか。自分である程度の答えは出ているんです。だからこれは、身勝手で興味本位なお願いです」

 マミカは机の下で俺の手を握った。すこし汗ばんでいる。

「ご存知の通りヤマトヒカリは、《交雑第一世代》しか発芽しません。でも種苗法があるから誰も気にしなかった。世間を席捲して、日本の稲作の大半がコシヒカリから置き換わりました」

「アルカネナが本性を現したのはそこからでしたね」

 武藤が合いの手を入れる。

「はい、急激に関連会社以外への卸価格を釣り上げた訳です。実家の営む農業法人も立ちいかなくなりました。子会社のアグリ・アルカネナの買収に応じるしかなくなり収入も激減。心労から祖父が急逝しました。それが、最後の一押しになりましたね。家族とは、いまだ関係が修復できていません」

 その後、俺と武藤は、マミカを交えて、その後予定しているやり取りの打合せをした。別れ際に軽くハグする。そして、さっきの話が頭から離れず、つい法事について行かなくて良いか聞いてしまった。彼女はあっけに取られるほど、軽やかに「大丈夫よ」と言って笑った。何時ごろまで家にいるのか聞く。九時すぎにレンタカーを取りに行って、十時前には出発すると答えた。

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