囚われた人々 Ⅱ

 週が明けて平日の夕方。明大前から新宿へ向かう。武藤に、以前から誘われていた呑みだ。世話になったので断れず、ねぎらいたいと言われても感情労働に違いない。面倒だが悪い気もしない。

 電車の車中「芦屋マミカ」を入力してネットで検索してみた。スマート・グラスの視界に幾つものウインドウが散乱する。まずN大のウェブページに教員として名前が出ている。単著や共著の論文、数冊の書籍。雑誌への寄稿。地方の学会での登壇者にも名前が上がっている。研究者のプロフィールと業績を集めたサイトを見ると、研究分野は稲の内部で作られるアミラーゼに関与する遺伝子である事が見て取れた。

 インタビュー記事へのリンクも数点ある。中には、日本アルカネナに勤めていた頃の写真もあった。屋内で同僚達と、にこやかに並んでいる。主任研究員らしい壮年の男がマミカの後ろに立ち、肩に手を置いていた。少し気に食わない。

 型や枠に嵌めて他人を扱う事を軽蔑しているのに、マミカの事を利用して大きな企画を提案できないか思案している自分に気付いて、スマート・グラスを外した。付き合いがそう長くない事は頭から追い払う。そして「信条は別にしても、きっと俺がやってはならない事だ」と言い聞かせて、新宿で降りた。


 待ち合わせ場所の紀伊国屋書店で時間を潰す。しばらくして、武藤からメッセージがあった。遅れるので、先に店に入ってやっていてくれと言う。予約が入れてあるという中華料理屋に向かった。歌舞伎町のハズレの薄暗い路地にある店だ。

 壁も床も油っぽい。食卓の上も出された箸も同じだ。パウチ加工された、カラフルなメニューには番号が振られている。壁に架けられたTVでは、野球の交流戦が中継されていた。腹も減ったし腰を下ろして、鶏肉のカシューナッツ炒めを注文する。運ばれてくるなり、つまみながら、スマフォでSNSのタイムラインを眺めていた。だが、入口のガラスの引き戸が開くたびに目が行く。

 二度目か、三度目に、黒い革ジャンにジーンズとブーツの女が入って来た。武藤だ。眼が合うと破顔して、歩いてきて向いに座る。

「ごめん、ごめん、打合せが押してね」

「いえいえ、お疲れ様です。どうぞ」

 そう言ってメニューを渡しながら尋ねる。

「飲み物は青島ビールでいいですか?」

「ああ、ありがとう良いね」

 店員を呼ぶと、おしぼりを持って来て武藤の前に置く。他にも万人受けしそうな、油淋鶏と青椒肉絲に餃子の番号を伝えた。それからグラスを二つ持ってくるように頼む。

「旦那さんはいいんですか? 平日の晩に放っておいて」

「いつもの事だから平気、平気。そんなことより、この間の企画の時はありがとう。助けられたよ」

「とんでもない。大変勉強になりました。一緒に仕事させて頂けて幸運です」

「うちのチームの固定メンバー頼り無いだろ。こっちをメインに書いて欲しいぐらいだよ」

 このセリフを聞いて失望した。コイツも所詮、雑に人を型に嵌めるのだ。他人を役に立つか立たないかなどと、道具として評価するのだと内心毒づく。だが、最近では、それを非難する事も何かの欺瞞かもしれないとも考えるようになった。そんな自分が嫌でビールを飲む。そして答えた。

「でも、自分はバイオ・ケミカル系には明るくないですよ」

「そんなの川浪くんなら、すぐ一番になるって」

 答えた時に、青島ビール二本とグラスが置かれた。武藤から聞いた番号をタブレットに入力して、店員は立ち去る。

 ねぎらいを口にして、ビールを注ごうとする。しかし遠慮を口にしてから、俺にグラスを持つ様にしぐさで促した。

「すいません。ありがとうございます」

 次に、自分が青島の瓶を持つ。武藤は礼を言ってグラスを傾けた。

「川浪くん、この店こんな感じだけど、エビチリが絶品なんだぜ。他のも結構いけるけど」

 ビールを注ぎ終わって、メニューに目をやった。武藤の伝えた番号に含まれている。この店の味がいいのには同意できるので期待はする事にした。

 運ばれて来た料理を二人で思い思いにたべる。その間、最近のペルガミノ社に関する不満や、客先に関する愚痴を漏らしてきた。わきまえながら応じる。エビチリは、そこそこ旨かった。

 俺には、感情労働である事は変わらない。だが相手が執拗に持ち上げてきた。なのでさっきの固定メンバーに迎えたい言うのは、嘘でもないのだろうと勝手に納得する。過大に評価される居心地の悪さより、自分の慢心が勝ち、気分は良かった。

 だが、気を許して、ここで岡部の事や進めている企画記事に関する愚痴を言うのは上手くなさそうな気はする。なので別の不満をぶちまけて、打ち解けて見せる事にした。

 以前の倫理的な判断を覆すように行われている、受精卵への遺伝子治療や、脳オルガノイドを利用した実験。これら生命の尊厳に対する欠如をぼやき、それらの行き付く先を悲観して見せる。武藤は、おおむね同意してみせながら、追加で頼んだ青島ビールを俺のグラスに注ぎ足した。

 そして唐突に、切り出してきた。

「川浪くん、そういえば、芦屋マミカと知り合いなんだって?」

 酔っていたため返事に間を空けてしまったが、白を切る事にする。

「どなたです? その方」

「いや、とぼけなくていい。悪いようにはしないからさ」

 どう切り替えそうかと悩んでいると続けて武藤が言った。

「うちの班の坂上が、金曜日に、君と彼女が渋谷の本屋にいるのを見たそうだ」

 先日の百貨店に居た男の顔と名前が結びつく。知り合いのプライバシーを他人に吹聴する軽薄さに憤りを感じた。同時に、公人が相手とはいえ、個人の私生活を面白おかしく書いた事を思い出し自分の欺瞞に思い当たるも、悪態が口に出かかる。

「一応、お聞きしますね。だとすると、どうなんですか?」

 極力、穏当な口調で尋ねたつもりだった。だが武藤はなだめる様な調子で言う。

「いま大学院に准教授待遇でいるんだろう。インタビューを申し込みたいんだ。僕が仕事を受けている科学誌に、『研究者の履歴書』ってコーナーあるの知っているだろ。露出する事は彼女にとっても悪い話ではないと思う。聞いてみてよ」

 理屈は分かる。だが、研究者が専門誌の露出でどの程度好意的に認知されるのか、その実際は測り兼ねた。気は進まないが俺で止め置く事もできると考える。だから承諾したかのような曖昧な答え方をした。


 誰かに影響を受けたのだろう。大塚が急に競馬をしようと言いだした。加えて「こういう時は、ネットで購入するのは味気ない」と言う。なのに府中まで行く交通費は惜しいらしい。そのため、二人で新宿の場外馬券場で安田記念に突っ込んだ。

 明治通りの花園神社で当たるように願を掛けようと大塚が言い。参った後に境内の石段に腰かけ、スマート・グラスの大画面でレースの実況を観戦した。それぞれ、馬単でながしていたが残念ながら紙屑になる。

「一着はシルバー・ケーニッヒだって言ったじゃないですか」

 大塚は知名度と事前の勝率から、この英語とドイツ語が混じった名前の牝馬を推したのだ。さほど詳しくない俺はそれを信じた。その結果がこの有様だ。

「いや、俺は責任もてねぇから、最後は自分で決めなよって言ったじゃんよ」

 そう責任をなすり付け合い、愚痴り合った。

それから。人々が行きかう歩道を、ファミレスに向かう。一昨年ぐらいに、俺たちは前後して、イベント設営のラン・フォース社を離れていた。たまにあって近況を語り合う仲が続いている。大塚は「正社員」待遇で一つ元請けに近いオフィス施工の会社に移籍していた。だが依頼が入るのは土日が多い上に、個人経営で従業員が少なく、週休が一定しない。急に休みになったり出勤になる。そんな勤務形態に嫌気がさしたのだそうだ。転職する算段をしていると言う。

「で、俊やん、どうよ最近」

 相変わらずのヤンキースの白い野球帽。腰ばきしたズボンからソフトケースを取り出す。路上禁煙にも関わらず、大塚はタバコを咥えて火をつけた。

「いやー相変わらずですよ。パソコンの前で原稿書いてばっかりです」

「まじかー、それだと以前より腕細くなってねぇ?」

 そう言って口から煙を吐き出す。

「落ちますよね筋肉は」

「なさけねぇな」

 そう言って、自分の腕を突き出して来た。

「なんですか?」

「見てみろよ」

「流石ですね、前より筋肉ついてませんか?」

 なんとなく察したのでそう応じる。

「いや、分かる? つーか、俊やんホント違い分かって言ってる?」

 俺はつい苦笑する。ファミレスに入る前に大塚は吸い殻を携帯灰皿でもみ消した。

 席に着き、呼んだウェイターに、ドリンク・バーにデザートをセットで注文する。スマフォ・アプリの割引券も利用した。

 オーダーを終えて飲み物を取りに向かう。大塚がネットのレシピで、ジュースを混ぜていた。それを横目にコーラをグラスに注いで席に戻る。

「そういえば、いつから携帯灰皿使っているんですか?」

 遅れて帰ってきた大塚に尋ねる。

「最近、会社がうるさくてさぁ」

 そう切り出すとおどけて説明を始める。どうやら手伝いに呼んだ別会社のバイトが、客先の敷地内で吸い殻を捨てて、トラブルになったらしい。いつもの憎めない調子で、間抜けなヤツの為に割りを食うとぼやいた。

 俺が頼んだソフトクリームと、大塚が頼んだみつまめが運ばれて来る。餡と白玉を口に運ぶのを見ながら、打ち明けて見た。

「そういえば、さっき言い損ねたんですが、彼女ができましたよ」

「何、マジかよ」

 そう言って、一通り驚いて見る。

「まだ、間もないので続くかは分からないんですけどね」

「それでも、ぶっちゃけ、うらやましいわ」

「ありがとうございます」

「なに、今度もヒモするの?」

 礼を言った俺に、ニヤニヤとしながらそう切り返してくる。

「何言っているんですか、ライターで生活が出来ているんです。それは無いですよ。以前もヒモだったわけじゃないです」

「それにしても、俺の家に転がり込んできてからもう四、五年? そうか、やっと彼女が出来たか。めでたいじゃん。今晩、俊やんのおごりに決まりだな」

「二人で、今日の予算をハズレ馬券にしたばかりじゃないですか。嫌ですよ」

 大塚は笑う。その後も、かつての仕事仲間、共通の知り合いの最近の様子について話し合った。ソフトクリームもあんみつも皿だけになる。喋るネタがつきて来て、つい仕事の愚痴をこぼした。

「最近、どうも新人編集者に、型に嵌った仕事の割り振りをされるんですよ」

 そう切り出して、不満を説明する。

「俊やんの気持ち分からなくもないけど、俺らの仕事でも、信頼を得ると同じ所の依頼を回してもらえるのはありがたいじゃん。それがダメな訳?」

「思い込みから判断されて、張られたレッテルから抜け出せなくなる。そんな怖さがあるんですよ」

「おー、相変わらず、贅沢な悩みだなぁ」

「そうですかね」

 大塚は珍しく考え込んでから応じる。

「でも、ラン・フォース社でもあったな」

「というと?」

「あそこの手配って、元請け毎にあるチームの仕事意外は、過去にやった仕事から優先的に割り当てて来たじゃん。嫌な現場に行かされて断りいれておいても、しつこく仕事回して来たりしてさ」

「そうでしたっけ?」

「俊やん、週二しか出てなかったからあまり被害あってないのか。まぁ、俺たちも意外と他人を型に嵌めて見てんだろうなと思ってさ」

 その言葉に意外と繊細な一面を見た気がする。

「昨日、俊やんが嫌いなエリちゃんと話していて思い出したんだけどな」

 付け足してそう言う。その事で大塚が、いまだにスマート・スピーカーに友人の様に接しているのを再確認する事になった。過去に、彼が気分を害さない程度に、軽くディスって辞めさせようとして無駄だったのを思い出すのだった。


 誘われて訪ねたのは、マミカの勤務先の最寄り駅、千歳船橋。そこから近い小ぎれいなマンション。外壁に白く小さなタイルを貼ってある。インターフォンで部屋番号を入力してエントランスの扉を開けてもらい、三階まで上がった。

 マミカは、ポロシャツにパンツと。それに明らかに念入りなナチュラルメイクだ。玄関を抜けると廊下は暗く、蛍光灯が切れていると説明される。リビングに通されたが、途中の扉の数から考えるに、3LDKはありそうだ。

 出された食事はイタリアン。サラダはごく普通のシーザーサラダ。けれども、メインはリボンみたいな幅広のパスタだ。フェットチーネだと教えてくれる。口に運ぶとチーズを溶かしたソースにはアボガドが混ぜ込まれている。少しフォーマル目の服を着てきたのに、自分が場違いな気がしてくる。

 それを察してか、急に彼女が破顔する。

「そんなに、おすまししなくていいのよ。ちょっと私も気取ってパスタなんか作ったけど、気楽にして」

 そう言って姿勢を崩す。注ぐときは静かに入れたワインを一気に飲み干した。そしてグラスになみなみと音を立ててお代わりした。

 その後は、吞みながら二人ではしゃいで話した。食後には、会話に上った映画を見る事になった。ソファーで寄り添う。大きな液晶TVを操作して、ネットデマンドのサイトで再生を始めた。


 米国人医師は学会出席のため、妻とフランスを訪れる。空港からパリ市内に向かう明け方、薄明りのハイウェイ。乗っていたタクシーはパンクし、代わりが到着する間、待たされる。この来仏でトラブルが待ち受ける暗示。

 朝の陽ざしの中、ホテルにチェックインした。荷物を開けようとして、空港で妻のスーツケースを取り違えた事に気付く。二人は航空会社に連絡を入れた。

 ルーム・サービスを待つ間に、医師はシャワーを浴び髭を剃る。居室に戻ると朝食が届く。しかし妻の姿が見当たらない。最初は軽く考えているが、午後になっても連絡は無い。ホテルの保安主任の協力を得て建物内を探すが見つからなかった。街で聞き込みを始めるが、言葉が通じず埒が明かない。バーで、ようやく英語の出来る酔っ払いを捕まえる。彼の証言を得て、妻が脅されて車に乗せられた事を知るのだった。


「トイレ借りるよ」

 そう言って席を立つ。ワインを多めに飲んだためだろう、相応に尿意が近い。

「じゃあ、一時停止しとくね」

 彼女の言葉を背に廊下に出る。並ぶ三つの扉のどれかが目的のモノだが、どれも、これといって他と違いが無い。照明のスイッチが外に有るわけでもなさそうだ。

 玄関に近い扉を開けて中に入るが暗く。流石に目が慣れるまで一拍ほど掛かる。普通の部屋だった。間違ったようだ。だが妙な気配がする。カサコソと小さな音が幾重にも重なって、周囲から聞こえてくる。三方の壁面に三段の棚が組んであった。そのすべてに透明な箱が置いてある。恐々と近づいてみた。柔らかそうな4ミリ程度の虫が、その飼育箱の底や壁面に蠢いている。おぞ気がした。

「これ全部そうなのか」

 俺は見渡して、うめくように声を出す。

 天井のシーリングライトが灯る。振り返るとマミカがそこに居た。

「見つかっちゃったわね」

 溜息交じりのその言葉は、まるでどこか遠くから聞こえるようだ。我に返り、実際は傍にいた事に驚く。つい怖いもの見たさで向き直り、ケースの一つをのぞき込んだ。明るい黄緑の昆虫は、バッタともセミとも付かない形状だ。敷き詰められた籾の上や、壁面のアクリル版に張り付いている。

「これは?」

「ツマグロヨコバイの幼虫。ここで飼育しているの」

 マミカの声には諦めが漂う。

「何のために?」

「詳しく話すと込み入っているの。簡単に言うと大学での研究に使うのよ。意外と業者から買うと高くて」

「最近の好調な景気を背景に、以前に比べて予算も付くようになったと聞いてたけど」

「言ってもまだ潤沢でも無いしね」

「それは苦労するね。お疲れ様」

 ようやく警戒が解けてきたのでねぎらいを口に出来た。彼女は安心したように礼を言う。俺は飼育箱に向き直り尋ねる。

「米につくの? このムシ」

「そう。《幼穂形成期》にウィルスを媒介して稲に感染させるわ」

「うっかり、君が生物学の権威だってことを忘れていたよ」

 マミカが笑う。落ち着いた事で、インタビューの件が再び頭に浮かんだ。だがビジネス上の表面張力をマミカに思い出させたくない気持ちは強く、頭から追い払う。そういう付き合いがしたい訳じゃない。

「室温と湿度の管理もしているわ。適温は二十五度で湿度は七十%ぐらい」

「どうやって?」

「そこのシングルボード・コンピューターに、センサー繋いで監視しているの」

「この小さいヤツ?」 

 棚の一つに、センサーらしき物体からコードが三本出て、カードぐらいのサイズの基盤がむき出しで繋がっている。そこからまた、電源タップにケーブルが伸びていた。よく見ると他の機械とも接続されている。なんの装置か眺めた。マミカが説明を続ける。

「それは、コンピューターで制御する赤外線リモコンよ。エアコンと加湿器の設定を切り替えているわ」

 得意げに語る。自慢げな子供みたいに見えた。

「ITの方も権威みたいだね」

「もう、からかわないでよ」

 そうはにかんだ。

「映画の続き見ようか」

 彼女は頷き、俺が部屋を出ると、照明を消して扉を閉めた。この部屋の意外な情景から、大塚のセリフが思い出される。自分の都合の良い基準でマミカを型に嵌めて、彼女の選択肢を狭めているのではないかと自分に問う事になった。

 リビングに戻り、ソファーで再び寄り添う。体温が感じられる。

「そうだ、インタビューを受ける事に興味ない?」

 考えを変えた俺は、そう言って、武藤が記事を担当している科学誌の名前を伝えた。


 それまで、Slackでやり取りしていた。だが新たにゲラ刷りが上がったので、神保町に呼び出される。前回依頼を受けて何度か校正を経た原稿。それを誌面になるレイアウトに流し込む。その状態で赤入れされて来ている。この所は、このタイミングで対面の打合せをしていた。

 今日の岡部は嫌に露骨な世辞でこちらを持ち上げた。中身のある打合せが出来ている気がしない。終わった所で例の件を持ち出してきた。

「ところで、この間のヤツ進めときますね」

 まるで、俺が受ける事が決まっているように自然な言い方をする。その上、そのまま立ち上がろうとした。

「待て待て、ちょっと待って」

「どうかしましたか?」

「この間のヤツって、経済誌の専任になれって件の事だよね。それ、今決めなきゃダメなのかい? 俺の知る限りだと、まだ時間があると思うんだけど」

「いや、流石に、そろそろ決めてくださいよ」

「それは良いけど、今のやり方は困るよ」

「自分が川浪さんの担当なんです。ですから、ちゃんと言うこと聞いてください」

 さもそれが当然で俺が無理を言っているような調子で横柄に言う。なんだ、この飛躍は。「それならそれで、筋を通せよ」と怒鳴りかけて飲み込んだ。ようやく搾り出した声で尋ねる。

「なんで、そんなにソレ承諾して欲しいの?」

「川浪さんの為に言っているんです。わかりませんか?」

 訳が分からない、半ギレだ。なだめる様に応じた。

「分かった分かった。二週間以内に結論を出すからさ」

 岡部は自制を働かせたのか、大きく息を吸い込む。見ていた様子では落ち着いた。

「待てばいいんですね。その時、話が流れていても責任を取れない事は覚えておいてください」

 怒気を抑えた様子でそう言って立ち去る。自席に戻る岡部。その先の執務エリアに目を走らせた。こんなときに限って、嫌味なビジネス・カジュアルの澤口はいない。

 あいつに、こんな相談を持ち掛けなければならなくなるなんて、正直勘に障る。

 始めたばかりのバイトを、気に食わない相手が居るからとフケた昔を思い出す。用事は残っていないので社の外に出る。とりあえず、表通りのイタリアン系のファミレスに入って奥まで覗く。

「お客様、お席をお探しですか?」

 ウェイトレスが声を掛けてくるが無視して店を出た。次に居そうなファスト・フード店にも、澤口は見当たらない。三軒目の喫茶店の奥の隅の席にいた。ノートパソコンの前で滑らかにキーをタイプしている。

 横に座り少し黙っていると、メガネを外した拍子にこちらに気付いた。俺はそこで声を掛ける。

「お疲れ様です」

「おや川浪くん。どうしたの?」

 そう言って目頭を押さえた。

「澤口デスクの方こそ、どうして原稿なんて書いているんですか?」

「最近は業界も、好景気のお陰で多少持ち直してきているじゃないか」

「ええ、そんな雰囲気はありますね。ますます電子媒体にシフトしてきた感じはありますが」

「仕事が多くなって、意外と人手不足だろ。この前入ったバイトがどうにも直し様のない原稿上げて来たんだ。そのまま送り返すのも不安だけど、今から別のライターに修正させようにも空きがなくてね」

「ご自身で直しているんですね。お疲れ様です」

 そんな事だろうと思って、編集時代の澤口が行きそうな所を探してきたのだ。俺としては、意外ではない。

「で、話戻るけどどうしたの」

 あまり、心に渦巻く不信感で事実を誇張しないように、岡部との経緯を話した。

「なるほどね。でもそれは確かに上手くないね」

 思い当たる節があるようで驚かない。澤口は、ソフトケースから煙草を取り出してから、何か思ったのか、元に戻す。

「今言ったように人が足りない。あれでも十分回してくれるしね」

 言外に、担当は変えられない事を匂わせる。それはこちらも分からなくはない。いつもの経済誌は、岡部がデスクの指示を仰ぎながら切り盛りしている。

「あいつなりに、君に頼っているんだよ。多めに見てやってくれないかな」

「そうしたいんですけどね。ほとんど強迫ですから。一言通して頂けると」

「分かった話しておくよ」

 自分の信条とは裏腹に、いつしか影でこんなやり取りが出来るようになった。処世術を身に付けたと言うべきか。ふとそんな自分に嫌な気分にはなる。


 マミカと付き合い始めてから、クラブにはあまり通わなくなった。その代わり、金曜に入る事の多かった「コーザル」が木曜にずれ込んだ。実際には夜なのだがこの中では関係がない。ヤシの木や、マングローブの繁み。環礁の白い砂浜と、目が覚めるようなエメラルドグリーンの海面。それらすべての輪郭がはっきりとしている。

 現実世界から持ち込んだ生ビールを片手に、ボドゥ・ベルのいつものテラスに居た。波が引いては返す音に、ベネディクトがいつも通りハイボールを傾ける。

〈またコーラなの?〉

〈今日は炭酸水だよ〉

 平然とそう答える。なので無駄と知って、少しからかってみる。

〈意識の高い女性みたいなもの飲んでるね〉

〈そう? 同僚にも、多いけどな〉

 いつもは普通に返してくる。しかし今日は、当惑した様子がユーモラスにも思えた。久しぶりに、隙のある所をうかがい知れたので満足する事にする。取り敢えず話題を変えた。

〈そういえば、限定物の革ジャン買えたの?〉

 こう言った売り出しの季節感の無さもグローバル規模のVRならではだ。

〈アージュ・シュイヴァンのメンズの新作のこと? 抽選に外れて手に入らなかったよ〉

 ベネディクトはアバターの衣装を適度に買い、着せ替えて楽しんでいる。以前から服飾の話は良く振られる。仕事もそちらかと疑い、何度か尋ねてみた。だが、実生活の事はあまり話したがらない。

〈おや残念だね〉

〈本店のあるサーバで並んで抽選券を手に入れたんだけどなぁ〉

 そう悔しがるのでなだめると、今度は俺に洋服を薦めてくる。

〈そう言えば、この前のル・パンデュのブーツが、トシさんに似合うと思うんだ。見に行ってみない?〉

 VRの服は、あまり大した額ではないのだが、アバターにあまりお金を掛けたくない。少し言葉を濁して誤魔化し、この間の続きを提案した。


 前回同様、島のポータルからゲーム用のロビーに移動して、タイトルを選択。コンティニューを選ぶ。前回のあらすじが流れ、セーブ直前のプレイが第三者の目線で再生される。

 地下墓所の奥で、写本を入手した直後。ベネディクトは烈な火の手が迫っていると訴える。どうやら水の表面に膜を張っている石油に火をつけられたらしい。セーブ出来たのは、この危機が待ち受けていたからだろう。幸い墓所の壁面に刻まれたレリーフが回転扉になっている事に陳博士が気付く。火の手を逃れ、隣接する雨水用の下水管を通って図書館前の広場に上がる事が出来た。だが、すぐさま体格のよい白人達が出てきて迫ってくる。思い思いの服装をしているが、訓練された動きに見えた。仙丹になんの関係があるのか?

 とっさに、停めてあるモーター・ボートの一台に飛び乗り逃げた。狭く入り組んだ蘇州の水路を高速で疾走させる。操作の気が抜けない。

〈これ、どれぐらい、原作となった映画に忠実なんだ?〉

〈全部は見た事ないんだ。でも莫高窟(ばっこうくつ)でロケしたらしいよ〉

〈あの敦煌にある?〉

 聞き返した瞬間、後ろから銃声が聞こえる。振り返ると、さっきの男たちを乗せて、ボートが二台追ってきている。俺はペダルを踏み込んでスピードを上げた。

〈このモーター・ボートって木製でニス塗っているのか〉

 呑気に関心するベネディクトに銃を渡す。

〈関心してないで応戦頼むよ〉

〈承知しましたよ教授〉

 俺たちはゲームに集中する事にした。三十分ほどのチェイスの末に、一台のボートは爆発する。もう一台が水路に沈む前に、乗っていた男を助けて捕縛した。解放と引き換えに父の居所を話すと訴える。承諾すると、悪名高き民間軍事会社、五顕財有限公司の南京支社に囚われていると言う。自分たちは欧州系の同業者で、拉致には関わっていないと主張した。


 シーンは、董張偉が予約してくれてあったホテルに移る。俺とベネディクトはシャワーを浴びたようで、バスローブにタオル姿だ。その事を説明するテキストが流れたはずだ。この分だと陳博士も自分の部屋の風呂場で体を洗い流しているのだろう。その間に謝凱を交えて写本の解読を行う。陰陽の谷と呼ばれる場所に木簡が保存されている事が判明した。そこが案の定、敦煌周辺だ。だが集中力が切れてきて俺たちは関係ない話を始めた。

〈この前、言い忘れたんだけど、実は最近交際を始めた女性がいるんだよね〉

〈今、それを言うってことは、陳博士に似ているんでしょ?〉

 鋭く言い当ててくる。

〈よくわかるな〉

〈トシさんとの付き合いも長いからね〉

 続いて、俺はつい惚気を語る。しばらくしてから、ハタと気が付いて黙った。

〈幸せそうでよかった。上手く行くといいね。最初あった時は、別れた彼女のことばかりぼやいていたから〉

 そう言われてちょっと恥ずかしくなった。

〈ただ、心配な事があるんだ〉

 照れ隠しに、自分としては大して問題視していない疑念を口にする。

〈どうしたの?〉

〈大量の害虫を研究のためといって飼育しているんだ〉

〈と言うと?〉

 深刻めかして、俺はネットで調べた内容を喋った。ツマグロヨコバイが、幼稲形成期の六月末から七月頭頃に、イネ萎縮病を媒介する事。マミカの最近の研究も、稲の品種改良に関するもので、関連するものが無さそうであるという事実。そして付け足した。

〈そこで思い出したんだ。長野のヤマトヒカリの発芽をね〉

〈確かに不思議だね。でも変に疑って詮索する事もないんじゃない〉

〈どうして?〉

〈自分で研究して世に出した製品をふいにする動機が分からないよ〉

 話題に乗らずに素直に返して来る。俺はリアクションを楽しむ事を諦めて、冗談である事を明かして笑って返した。

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