接続される心 Ⅳ

 二月末。神保町の編集部で打合せを済ませ打合せブースで待機していた。出迎えた澤口から「お見えになったよ」と言われ、入口の傍にある来客用会議室へと向かう。

 扉を開けると、座っていた白い開襟シャツを着た遠藤が立ち上がった。少し歳を取った顔にいけすかない清潔そうな笑顔を貼り付かせている。俺を認めると、少し眉を上げて目を見開いた。

「本日インタビューさせていただく川浪俊樹です。お久しぶりです」

 澤口が、遠藤を遮って問う。

「なになに、二人は知り合いなの」

 ヤツがいけすかない笑顔のまま、にこやかに口を開いた。

「大学でいっとき、同じサークルにおりました」

 そして俺に向きなおる。

「久しぶりだね。会えて嬉しいよ。今日のインタビュアーは君なのか。ライターになっていたんだね」

 そう言って手を差し伸べてくる。こちらも握り返して、笑顔で応じる。

「あの時以来だな。元気だったか。院に行った事すら最近まで知らなかったよ」

「そうだろうね。僕の行ったのは母校ではないんだよ。それにあの頃の友人とは今はあまり付き合いがなくてね」

「へぇ、だれか気になる先生でもいたのかい?」

 俺の質問に答えかけたのを遮って澤口が口を開いた。

「まぁ、とりあえず」

 そう言って椅子を進める。

「灰皿を頂けませんか?」

 座る前に、意外な事に遠藤がそういう。

「これは気付きませんで」

 澤口は備え付けの備品入れから取り出してきて机の上に置いた。正直驚いた。当時は、喫煙者を馬鹿にしているようですらあったからだ。椅子に置いていた鞄から真新しいソフトケースを取り出して封を切った。

「タバコ吸っているのか、いつからなんだい?」

「院に入ってからかな」

「川浪は止めたのか?」

 かつての恨みを込めて、少し馬鹿にしたトーンを込め答える。

「もう何年も吸ってないよ」

 あの日のやり取りが気に障って、苦労して禁煙した事は黙っていた。

「そうなんだ。僕の付き合いのある出版業界の人は喫煙者が多いから」

「俺はいつだって止められると言っていただろう。それが事実だっただけだよ」

 そう笑ってやった。

「今は、電子タバコだって落ちじゃないよね」

 そのセリフに苦笑する。この会話だけで学生時代の溜飲がさがる。

「つもる話もおありでしょうが、一旦始めましょうか」

 業を煮やして澤口がそうハッキリ告げた。


 会議室のブラインドを下げ、座席に腰を下ろす。天河むむ先生の取材にはメモしか持参しなかったが、自分でも改めて取材方法を復習し、澤口にも入れ知恵されていた。今日の為に買ったICレコーダーを机に置き、スイッチを入れる。

 通り一遍の冒頭の挨拶。インタビュイーの紹介を経て、本題に入った。

「広く心のケアや治療に従事する方の代表である遠藤さんに質問させていただきます。今回の問題について話す前に、まず心を治療すると言う事についてお聞きしたいです。

自分としては、どうしても、薬物や専門的な知識に基づいた技術を用いて、本来のものの考え方を強制的に変えられるという想いが強いんです。そのあたり、専門家である遠藤さんはどのようにお考えですか?」

「そのように誤解される事は多いと思います。まず理解して欲しいのは、私たちの行為は、相談者の抱える実生活上の問題を解決するために行われます。次に心の専門家は、患者を探して無理やり治療するような事はしません。ご当人が直接、あるいはご家族などとご一緒に来院されて相談をお受けします。心療内科でしたらお薬を差し上げるんです。ですから、これらの治療行為は強制的なものには、あたらないと思います」

「強制的でないから問題ない、と言う事でしょうか。でしたら、患者自身に病識がなく、家族の説得に応じて、嫌々ながらに治療される事があると思います。そういうケースはどう思われますか?」

「難しい問題ですね。お困りの家族がいて、本人も何かしらの問題を抱えていらしている。その状況が見過ごせないと判断すれば、治療すべきでしょうね。もちろん、ご本人に病識を持って頂く必要があります。その点において、結局、患者の協力が必要なのです」

「医療保護入院や措置入院についてはどうでしょうか?」

「まず、医療保護入院ですが、法律で要件を定められており、実際に国から指定された医師のみが判断を下せます。措置入院に関しても、指定医二名と都道府県知事によります。どちらも精神科医によるもので、カウンセラーやセラピストはこういった判断は行えません」

 俺は事前の調査で知った、幾つかの患者からの告発を取り上げて、喚きたてたい気持ちを抑え込んだ。

「でしたら、人工知能によるカウンセリングも、同意の上で有れば問題ないということですか?」

「今回の場合、そもそも製品の利用規約に、定期的にカウンセリングされることに同意を促す条項はない認識です。告知なしにそのような事を行う機械を信用できますか?」

「と、言われますと?」

「もっと恣意的に使われる事はないでしょうか? 例えば、ある製品を買いたくなるように心理的に働きかけるであるとか」

「可能だとすると確かに怖いですね」

 心理学を使えば実際にそのような事が可能であることの言質として扱って倫理的な糾弾を行いたくなる。

「さらにエスカレートして、株の売買や、支持する政党に影響を与えることは考えられませんか?」

「倫理的な問題として考えられているんですね」

「こうなってくる倫理的と言うより、実際に害があるところまで来ているように思います」

「確かに医療機関や、街のカウンセリングルームには、マス・メディアとしての拡散性はありませんね。問題とされているのはそういう事ですか」

「まさにその通りです。仮にこのまま特定の企業が、メンタルヘルス産業を席巻してしまい、人々を操作するプラットフォームとして利用される危険性がないと言えるでしょうか?」


 結局、心を治療する行為をやり玉に挙げるのを諦めた。人に寄り添い、常時心の健康を守ろうとする気味の悪い機械を糾弾するのに力を貸す事にした。スピーカーにメンタルヘルスを管理されるなんてクソくらえだ。俺たちには自分の意思で世間が健康だとかぬかす有りようにあらがう選択肢があってしかるべきだ。挙句に日常的な意思決定を操作される懸念もある。

 それに、心の治療を受けても、本人のテーマを脅かされない人間は、自分の選択でカウンセリングでもセラピーでもなんでも受ければいい。投薬でもだ。俺は落とし所をそこに求めた。敗北かもしれないがそういう事だ。

 

 インタビューを終え、遠藤に「この後一杯どうだ」と誘われた。小坂の許可が出たので、会議室でそのまま待たせた。澤口と小一時間ほどの打合せを済ませる。

 その後、二人で近くの居酒屋で座を構えた。注文を追えて、おしぼりを開ける。最初は、俺が抜けたあとの文芸サークルについて話が始まった。流れで、学生時代の共通の友人のだれそれがどこそこへ就職し、誰それが結婚をしたという他愛のない話をする。

 その間にサラダと刺身に箸をつけ、料理を追加しビールも進む。ヤツの吸い殻も無遠慮に増えた。俺が焼酎、遠藤がウーロン・ハイに切り替えた頃、急に話題を変えて来る。

「最初にネットに出た記事を読んだよ。鋭い切り口だったね」

「おおそうか。ありがとう」

 応じたあとに、空きかけの焼酎を飲み干して俺も尋ねた。

「今回の記事、本当はお前が書くはずじゃなかったのか?」

「依頼は来たんだけれど、論集への寄稿があってその締め切りがちょうど三月なんだ。なので断ったら、インタビューだけでも、となった。言いたい事もあったし、受ける事にしたんだ。だけれど君とで再会できるのはその日になるまで知らなかったよ」

 俺は何の気なしにヤツが投げ出したままのタバコのソフトケースを手に取った。遠藤は続けた。

「ネットの記事を見て思ったんだが、君は心理学に不信感を抱いているんだな」

「そうだね。悪いけれど、人の心を、もっと言えば運命を弄ぶ学問だと思っている」

 銘柄を見てから裏返して表と変わらぬという、あたりまえの事を確認する。

「運命というのは大げさだな」

「いや、そうでもない。人間の心というのは、意識的にも無意識的にも、人生における選択の大半を行う。それを外部から働きかけて変えるのは、俺に言わせれば、運命を変える事に感じる」

 吸う気もないのに、つい一本取り出して、何かに逡巡して戻した。

「そもそも考えを他人に改められることを嫌っているみたいだけど、治療行為で救われている人が大勢いる事を理解して欲しい。

最近では投薬なしに精神疾患に効果が認められているセラピーも出てきている。画期的なことなんだ。お前っぽく言えば、人を破滅する運命から救うんだ。付け加えておくと、君のような考えから投薬をセラピーやカウンセリングより好ましく考える患者もいる」

 随分と饒舌に話す。

「今回、色々調べたので知っているよ。でもまぁ、好きにはなれないな。社会とソリが合わなくて生き辛くても、自分の考えを自分で進歩させて、とまで言わなくても補正して歩んで行きたいんだ俺は」

「さっきから指摘しようと思ってたけど、君にとって、心に対する治療と言う点で、それらは全て一緒くたなんだな。まぁそれはいい。他に手段がないぐらいに、社会生活に問題を生じる場合があるんだ」

「分かる。だから、そう言った人達は、専門家の力を借りればいいさ」

 俺の心の内の言葉にはかつての力は無かった。いままで見ずに済ませたように、今度は見えない振りをしてもいいのかもしれない。でもライターとしてそれはどうなのかと想うようになっていた。

 ヤツにしてみればあの日の俺の反応は理解出来ないモノだったのかもしれない。

 店に来るまで、飲み始めてからも、謝罪してもらうことで溜飲を下げる空想を何度かした。だが、それは叶わなかったし、あえて今持ち出すのもカッコ悪く思えた。見栄をはるほうを選んだ。二人ともあの日の事には触れなかった。

 俺はソフトケースからまたタバコを取り出して戻した。酔って少し辛そうにしているのを見て、しかたなしにお冷やを二人分頼んだ。そしてソフトケースを手渡した。遠藤は一本取り出して咥えて、ライターで火をつけた。


 第二回に向けて、インタビューの原稿を収めた直後に、澤口を通して、客先から連絡が入った。江崎のようにスピーカーによるカウンセリングを気持悪いと感じる人間が多かったようだ。ネットでも反響が大きい。前回分含めて、WEB媒体でも有料記事として公開したい。そう先方から申し出があった。開口一番承諾した。

 第三回の記事は、投稿サイトに貼られていた海外サイトの記事を引用して組み立てる予定だった。「スピーカーは制御されない黒魔術テクノロジー」と題された米国版の "Back/Slash" での告発記事の内容は次のようなものだった。

 元来、対話プログラムは深層学習を利用している。膨大な会話から学習することで、人とのコミュニケーションを可能たらしめている。

 元となるデータは、小説やドラマ、映画はもとより、ニュースや、スピーカーがウェイクワードを待つ間に密かに聞いた内容まで含まれるそうだ。

 ホーソン・テクノロジー社は、ひとつ前のヴァージョンでは、利用者個人や家庭に適切なキャラクターを構成して会話に参加するように設計した。

 今回はそれにとどまらず、対話プログラムが自律進化し続けるように改良した。秘密裡に利用者のメンタルへルスを推し量る指標を独自に設定し、全体を統御する会話のアルゴリズムをそれに基づいて評価して学習し続けるというものだ。このようなフィードバック・ループの結果、カウンセラーが使う会話技法を自動的に強化した。つまりAIが行う心理療法は人為的にプログラムされたものではないのだった。

 そうした経緯を理解した上で、ホーソン・テクノロジーは、この機能を試験的に極東地域でだけリリースしたそうだ。投稿者は匿名だったが、しかるべき報道機関から連絡があれば、証拠となる資料を提供すると結んでいる。

 俺は並行して、第一回の記事をネットの翻訳サービスを使いながら英語にしてジョン・ドウに送った。公開されているWEBのURLを添えて。


 連載二回目、梅と桜の季節の丁度あいだに、インタビューの件の記事が載った雑誌が届いた。前後して、一回目の記事の稿料が振り込まれる。意気揚々と歌舞伎町にある高級焼き肉店の支店にミナを連れて来た。高田馬場にも支店はある。だが、こちらの方が、値段も千円ほど高いだけで雰囲気も内装も良い。

 赤くなった炭が、網の上のカルビをあぶり、焼ける音が、さらなる食欲を誘う。肉も柔らかく、口の中でほどける。

「ねぇ俊樹。大丈夫? 流石に給料日前だし、そんなに払えないよ?」

「大丈夫。原稿料が入ったって言っただろう。気にしないで食べなよ」

俺はそう言って次の肉を塩だれにつけて口に運ぶ。

「一体いくら入ったの?」

 ミナも口に運びながら、不安げに聞く。前にも伝えた気はしたがもう一度答える。

「今回は六万円だよ。」

「三回分でそれぐらい?」

「来月には十二万ぐらい振り込まれる予定」

「すごい、来月の収入はガテン系の方を入れなくても、いままでの倍はあるじゃない」

「そうそう。名前を出してもらって、もっと仕事が来るようになれば、稿料も増える。ミナに借りている分も少しずつ返せるようになる」

「返す気あったんだ。意外だ」

「もちろんだよ。出世払いで返すっていつも言ってただろう?」

「そうだね。でもそうなると、私がいなくても、俊樹、平気になっちゃうね」

「何を言ってるんだよ。お金だけじゃない。色んな言葉で今まで励まして、応援してくれたじゃないか。これまで頼り過ぎた分、恩返しするからさ。期待していてよ」

「うん、わかったわ。俊樹には大成して欲しいのよ私」

 そう言う声は小さかった。


 三月の一週目にインタビュー記事が出ると、風向きが変わった。同じ週に出る他社の誌面で、追従して批判したり、好意的な論調で擁護したり。SNSの方でも話題が再燃した。遠藤が語った懸念に共感する人間が多い。ユーザとの会話で学習した話術を、連携するグループ企業のECサイトの売り上げで評価すれば、利用者の購買行動を誘導するように自律進化させ続けられる。というような指摘に溢れた。

 メーカーの周辺からは、非公式にスピーカーによるカウンセリングを否定するコメントが出された。俺にも、欲は出ていた。三回目の記事で、もうひと盛り上がりしないか、期待していたのだ。

発売の日。話題性も手伝い、今回も結構売れたそうだ。WEB版の有料記事も出だしからよかった。SNSでも「やっぱりか」という反応が多かった。だが、思っていたほどの盛り上がりには欠けた。俺も結局は「仕方ない。こんなものだろう」と納得した。

 

それを聞いたのは三月の半ばに、編集部に呼び出された時だった。いつも通り、昼過ぎに神保町に行き、打合せブースで待つ。すぐ澤口が現れた。基本的には些細な内容の調整なのだが、実際にあった方が通じやすいと考えているのは分かっている。ゲラを広げて、あたりまえの事を何度も確認したり論じたりする。いつも通りの実に無駄な時間だ。

「じゃあ、今の箇所の直しはこれでお願いするよ」

「はい、わかりました」

 澤口はタバコを取り出してから言った。

「そういえば、もう耳に入っているよね。川浪くん」

「何がですか?」

「君の記事が米国で取り上げられたらしいよ」

「え、どういう事です?」

 何の事か理解できずに問い返した。俺も知らぬ間に、例のジョン・ドゥを「ニューズ・ウィーク」が取材して取り上げたのだ。記事の中には、「極東で繰り広げられる倫理的に問題のある心理実験」という見出もある。その中では、俺の第一回の記事も引用されていたと言う。翻訳して送っておいたのが利いたようだ。同号には、米国カウンセリング協会や米国心理療法協会もコメントを寄せていたらしい。

 瞬く間に、問題となり米国議会をも賑わせた。翌週にはスピーカーを統御するサーバのロールバックが発表されと聞いた。これにより、日本でもAIはカウンセリングを行わなくなった。


 取材と資料提供のお礼を述べるために、天河むむ先生を訪ねた。新宿に着いたのは十六時前だった。待合室には順番を待っている女性がおり、二人は主婦と大学生。高校生と思しき三人組は連れ立って来ている様子だ。こちらを見て、ひそひそと話し合っては、クスクスと笑いあっている。

 約束の時間を十五分ほど過ぎた頃、名前を呼ばれて、前回と同じ部屋に通された。

「遅くなってごめんなさい。前のお客様、随分お悩みで少し時間が押してしまいました」

「お気になさらず。急に押し掛けた自分が悪いんですから」

「とんでもない。いつも予定の時間よりオーバーしちゃって」

「それだけ真剣にお客様に向かい合っていらっしゃるんですね」

「ありがとうございます」

「さて今日はお礼に伺いました。こちらが掲載された雑誌になります」

 鞄から取り出して差し出した。

「お礼に訪れるのが遅れました。申し訳ありません。おかげ様で記事に出来ました。反響も良いです」

「どういたしまして。ソーシャルネットで騒ぎになっていたので、ご活躍は存じていました。ご丁寧にありがとうございます」

 少しの間の沈黙。

 二人して笑う。俺はつい聞いてしまった。

「むむさんが、俺に資料を渡してくださった時、随分準備がよかったじゃないですか?」

「そうでしたっけ?」

「そこに用意してあったUSBメモリを、すすっと渡してくださったでしょ?」

「ええ、そうでしたそうでした」

「最初から下さるつもりだったんだなと思いまして。その理由が気になっていたんですよ」

「ああ、やっぱり気付きましたか。流石、私が見込んだだけのことはあります」と言って破顔する。なのでつられて笑う。

「サーバがロールバックされて、対話機能は先祖返りしました。その結果、誰が得をしたんだろうと思いましてね。スピーカーのやっていたことは、心のケアを生業にする方の収入に影響しそうだなと思いました」

「なるほどです。占い師もそれに該当するとお考えなのですね」

「そうです」

「まぁ、そういう事もあるかもしれませんね。でも人工知能が頼まれもしないのに人をケアするって気持ち悪くないですか?」

「そう思います。ただ、俺の場合は心理療法自体に対する不信感に根差しているんです」

「そうなのですね。なら、私の仕事にも同じ感想をお持ちなのでしょうね」

「いえ、むむさんは占い師ですよね。セラピストじゃない」

「私の場合はですね。占いを通して、人の悩み事の相談を受ける傍ら、心理療法を応用して、ケアをしたりもするんです。こちらで手に余りそうでしたら、心療内科をご紹介したり」

「そうでしたか」

 俺は戸惑いと共に、次の言葉を逡巡する。次に話を始めたのはむむさんだった。

「諦めかけていました。川浪さんで三人目なんですよ。取材だと言ってこちらにいらした方。記事を読んだ方が気持ち悪がってくださればと思っていました」

「やはり来店されるお客さん、減っていたんですか?」

「うちは、そうでもなかったのですが、占い師仲間では最近芳しくないという話は出ていましたね」

「なるほどです。得心できました」

「ごめんなさいね。でも、お陰でしばらくは安心してこの仕事を続けれそうです」

「お役に立てて良かったです」

 むむさんは微笑む。俺も笑顔で応えたが、複雑な気分ではあった。今回の成功は、専門家による心理療法よりも企業体やAIなんかによる内心への介入を許せなかったからだ。結果として前者の手助けをしただけだ。加えて、個々人が被る恩恵を認めさえしてしまった。

 彼女の左手が机の右においてあったタロットに伸びる。

「今回もちょっと占ってみましょうか」

 そう言って一番上のカードを表に向けた。

ヤギの顔をした蝙蝠の翼を持つ異形の姿を挟んで男女が向かい合っている。

「これは?」

 彼女は思案気に首を傾げて言う。

「《悪魔》の逆位置です。良くない関係から解放されるという暗示ですね」


 今回の件で、俺の評価が変わったらしい。以前よりも仕事を回してもらえる。心なしか品の良い依頼が多い。打合せも増えた。半分はSlackで済ませるが、やはり、相応の回数対面を望まれる。

 復帰している日雇いバイトは、従来通り週に二日。主に展示会の設営だけ入っている。なので実際はさほど、時間は取られていない。

 だが、生来のものぐさも手伝って、ここでライターの仕事に集中した方がいいのではという言い訳を用意して辞めることを考える。もちろんミナが家計を支えてくれているから検討できることだ。

 いままでの感謝を込め、彼女のゴールデンウィークなか日の有給に合わせて、海に出かけることになった。たまには二人で遠出するのも悪くない。新宿からロマンスカーで藤沢。その先は江ノ電に乗り換えた。商店の並ぶ駅前を過ぎ、住宅街を抜ける。単線ゆえ、鵠沼駅に滑り込むと島型のホームの反対に待っていた車両が藤沢へと出てゆく。商店や住宅の並ぶ景色を二人で眺めながら、以前来た時の思い出を話す。腰越駅を出てしばらくすると、車窓は、水平線を映し出すのだ。

 七里ガ浜駅で降りて、歩いて少し戻る。この辺りは、道路と軌道が平行して走っており、しかも隔てる柵が全くない。海との間には住宅やレストランがあり、反対の山側の宅地と行き来するには、線路を越えて出入りする必要がある。幾つ目かの階段へ、電車が来ない事を確認しながら、二人で渡る。登って行くすがら振り返ると海が見える。

 山の上はイタリアン・レストランだ。この店の席の大半を占めるテラス席で水平線を見ながら料理を待つ。フォカッチャや、イクラが乗ったパスタ。二人でワインを飲みながら食事をして、思い出話をする。

 店を出る時は誘った俺が代金を払った。それからビーチに出る。日差しは明るくすべてを照らし、俺のスポーツサンダルにまとわりつく砂は、真夏の温度と比べるとやさしい。

 昼下がりの浜辺。波合いで素足を濡らしながら歩くミナ。白いジーンズと青い花柄のアロハシャツ。彼女が手に持って前後にゆらすスニーカーを目で追った。近寄って抱き寄せる。洋服越しでも肌は湿度を帯びて冷たかった。

 その時にミナが急にしゃがみこんで突っ伏した。何かふざけてるんだろうと思ってのぞき込む。花粉症でもない彼女が鼻をすする。泣いているのか笑っているのか分からない。理由を尋ねると「別れよう」と小声でいう。その時は冗談だと思った。


 夏日は続かず、連休が明けると例年より気温も低くなり、天気も曇りがちだった。六月も近づき出ていく約束の期限が迫る。

貯金が僅かに足りない。だから日雇いバイトも辞められず、むしろ日数を増やして続けていた。

月曜の朝の六時、海浜幕張駅の南口を出て左手にある休憩所にいた。屋根があり、机を挟んで、向かい合わせに置いたベンチが四組ある。

一人でいるとつい溜息が出た。見回しても、ラン・フォース社の顔見知りはまだ来てはいなかった。同じく展示会の設営を行う別会社らしき、見覚えのある男や女が座っている。

何人かはペットボトルのお茶で喉を潤し、あるものは飲み終えたコーヒーの缶を灰皿に使っている。別のものは構内のコンビニで買って来たパンを朝食に食べている。

 俺は既に何度も反芻した浜辺でのミナの言葉を、また思い出した。

 

「大学の時、彼氏が司法試験に合格したとたん、捨てられたというのは嘘なの。自分でちゃんとお金を稼げてしまう人怖いのよ。必要とされてない気がするの。捨てられてしまうと思ってしまうのね。その不安に耐えられなくて自分から別れを切り出さざるを得なくなる。

 夢を探して努力していたあなたが好きだった。本当は成功して欲しくなかった。我を貫いて成功できるのは一部の人だけだわ。励ますフリして邪魔してたの。

本当はずっと養われていて欲しいのよ。俊樹で三人目。今度はちゃんと一緒に生きていけるかもと思ったけれど、駄目ね。貴方の傍にいるのはもう無理。別れてしまわないと不安でおかしくなりそう。それに俊樹をダメにしちゃうわ。このままだと」

 それ以降今日まで、何回か話あったが、らちが明かない。最後には、自分の主義主張を放り出して、ミナにセラピーを受けることを進めた。いい療法士を探すのに、遠藤を頼ればいいとすら思った。だが最後に言われたセリフで説得する言葉を無くした。

「あなたに、自分のテーマを生きるべきだって言われてから、ずっと考えていたの。これが私が自分で生きて、折り合いをつけて、答えを出さなきゃいけない問題なんだって」


 髭を伸ばしたままの江崎が工具と予備のヘルメットが入り縦に膨れたリュックを背に現れた。いつも通りラン・フォース社のロゴ入りの作業着姿で俺の正面に座る。努めて明るくし、たわいない話題を振って、気持を紛らわせる。

 待ち合わせ場所に、半袖のTシャツにいつもの腰ばきジーンズ姿の大塚が現れて、斜向かいに座った。いつもの調子で会話に加わってくる。

 臨時メンバー二名の到着を待ってから、幕張メッセまで歩き始めた。その間も話は続いたが、そもそも頭に入らない。途中で意を決し、努めて何気ない風に切り出した。

「ちょっと一月ほど、大塚さんのとこ置いてもらえませんかね」

「なに、とうとう浮気でもバレて、追い出されるの?」

 大塚はいつものように軽口を飛ばして来た。

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