接続される心 Ⅲ

 経緯をミナにこぼすと、俺の頭を抱きかかえて「残念だったね。大丈夫またチャンスはあるから」と言ってくれた。翌日は失意を理由に昼から酒を呑む事を自らに許し、酔って潰した。

客観的には提案した記事が一つボツになっただけだとはわかっている。そして、むしろ期待はされているのだ。だが主張が認められなかった事に強く憤りを感じた。

 クリスマスの翌日に、日雇いバイトの江崎から電話があった。大晦日の日、仕事に出られないかと言う。俺に回ってくるということは、やはりこの年末に誰も仕事がしたくないのだろう。トータルだと結局年末は稼ぎが少なかった。それに毎日雑に家事をしているだけなので、気分も変えたく仕事を受けた。

 ミナに告げると、珍しく露骨に不満そうな顔をして、年末で自分が休みなのに何故一緒にいてくれないのかと責められた。そう言われて気分転換とも言いづらいし、家計は彼女が支えているので説得する材料に乏しい。だが大掃除は前日までに済ませる事を約束した上で、平謝りして許可を得た。

 大晦日の朝は「いつも一緒にいてくれると思っていたのに」と恨み言を聞かされ、いつに無い事なので驚いた。まぁ、年が明けたら機嫌も直るに違いない。そう思い朝五時半前に家を出る。


 六時に集合で場所は日比谷公園。カウントダウン・イベントに向けた運営用テントの設営だった。集まった六人のメンバーで荷下ろしをして、チームに分かれ、まず屋根になる骨組みを三棟分組み立てる。中には大塚もおり一緒に組むことになった。

「大晦日に仕事なんかやってらんねぇよ。なぁ、俊やん」

 作業しながらそう同意を求めてくる。

「いいんですか、元請けさんに聞こえますよ?」

「そうね。まずいな」

 大塚は頭をかく。

「でも、そう思うだろう?」

「じゃあ、なんで受けたんです? 契約社員でも、仕事、断れますよね。日払いだから」

「あれだよ。江崎さんが困ってるみたいだったし、世話になってるしな」

「じゃあ、なんで毒づくんですか?」

 俺は苦笑しながら聞いた。

「それとこれとは別ってやつ? やっぱ大晦日は働きたくないよな。俊やんはなんでこんな日に仕事受けたの?」

「気分転換にと思いましてね」

「どういうこと?」

 そう問われ、記事が採用されなかった経緯を話した。

「そういう事なら、気持ちを変えたくもなるわな」

 大塚はそう応じた。続けて言う。

「それで書いたやつって、どっかに発表しないワケ?」

「そうっすね」

「もったいないなぁ。俺ならブログとかに載せちゃうけどなぁ」

 そうは言われても、持っているサイトのアクセス数は少ない。箸にも棒にも引っ掛からずネットに埋もれるだけなのは分かっている。苦笑いするしかない。

 骨組みだけの屋根に、天蓋となる布を被せ終わると、今度は四人で持ち上げ、柱である足をつぎ足す。余った二人は、風で飛ばないように置く十キロの重りを各テントの傍まで運ぶ。最後に全員で手分けして柱に嵌めていく。そして昼前に終わりとなった。

 大塚と食事をして帰る事になり、帝国ホテルと宝塚劇場の間を抜けて銀座に出たのだった。


 その夜は、ミナの部屋で二人こたつに入り、例年になく何故か紅白を見ていた。どうやら機嫌は直してくれたようで、帰宅してから、恨み言は聞かされていない。

 届いたおせち料理は冷蔵庫に収めてあり、ビールも日本酒もベランダで冷えている。正月の準備は万端だ。

 そんなわけで、マグカップでクリスマスの残りの赤ワインをちびちびやっていた。アルコールでのぼせ、頭が冴えわたってきたように感じる。どうせこのままお蔵入りさせるなら、記事を公開してもいいような気になってくる。そこで一考してブログではなく、今まで利用したことのない「タレコミ」をうたい文句にしている投稿型の海外系ニュースサイト、 "Back/Slash.JP" に寄稿する事にした。

 技術的な記事が多くマニアックだし、コメントも活発だ。ここの層なら自分の意見が受け入れられそうな気もする。編集者による掲載基準も厳しくなさそうだ。

 ダメなら、有料記事を載せられるネットのサービスで発表しようと思考を巡らせる。まぁ、過去にそこに書いた時まったく売れなかったが。そしてマグカップを空にした。

 いく年くる年で除夜の鐘を聴きながら、ミナに「明けまして、おめでとう」と年始の挨拶を済ませてから眠った。元日、二人でおせちを食べる前に、アカウントを作成して記事を投稿した。

 

 六日の土曜日になって、ようやく俺たちは浅草寺へ初詣に出かけた。地下鉄の構内から混雑は始まっており、地上に出ると道は人で埋め尽くされ、スマフォの電波も届かない。ゆっくりと境内に向かって行く流れに身を任せる。参拝を終えると、何の気なしに隅田川まで歩いた。土手の上にワザワザ店舗を構えてテラス付きのカフェがある。だが混雑しており座れそうにない。結局、ミナが自販機までお茶を買いに行く。

 待っている間にスマフォを開いてみた。アンテナが三本立っており、利用可能だ。思い出したように" Back/Slash.JP "を確認する。早くても八日の月曜だろうと予想していた。だが許諾され公開されている。五日の金曜日から出社した働き者がいるらしい。コメントがついて随分と盛り上がっている。意見の多くは記事に賛同的だ。スピーカーによるカウンセリングに対する不信感と非難が多い。

 こんな反響をネットで得たのは初めてだった。小躍りしそうになる。

膝上まであるダウンの灰色ジャンパー姿のミナが戻ってきて、ペットボトルを差し出して聞いた。

「なんだか嬉しそうね」

「ああ、この間書いた原稿をネットに公開したら、思ったより反響があったんだ」

「よかったじゃない。俊樹の事分かってくれる人は絶対にいると思ってた」

「ありがとう。お金にはならなそうだけれどね」

「いいのよ。私はあなたが傍にいてくれるだけで幸せなんだから」

 そう言って俺をハグした。彼女の言葉にはいつも救われる。早く期待に報えればと思うのだ。

 

 正月休みは終わり、ミナは普段の勤務が始まっていた。ラン・フォース社の日雇いバイトは、展示会業界は年始の立ち上がりが遅い事もあり、例年通り仕事はなかなかまわって来ない。だがそれを忘れるほど浮かれていた。あのまま反響は続き、幾つかのSNSに波及した。話題性の規模としては小さいが経験がない。怖くなるぐらいだ。

 投稿したのと同じく本名で書いているSNSのアカウントもフォロワーが千人ほど一気に増えた。反応は二分され、人によっては直接文句を送り付けてくる。中には「そんな事今さら気付いて記事にしていて笑える」といったやっかみなどもある。そのため通知は切ってある。これらは自尊心と承認欲求を満たすには十分だった。

 俺の記事がバズり気味な事を知ってミナは不安がった。名前が売れるのは良い事だと言い聞かせたが、理解を得られたかは分からない。

 それから、数日してSlackで編集部に来るようにと丁寧な連絡がある。俺はそれをスマフォ用アプリで確認した。

 神保町の千代田通りから、少し入った雑居ビルの三階にペルガミノ社がある。今年初めての訪問となった。

 執務室を覗くと、連絡してきた澤口が電話を受けており、すまなそうに、打合せブースに行くようゼスチャーする。

 席に着いて、古本屋で買った文庫本を読んで待つ。そこに意外なほどにこやかに現れた。

「あけましておめでとうございます」

「おめでとう。川浪くん。今年もよろしくお願いするよ」

 ちょっとした間があって、俺が口を開く。

「それで、今日はどんなご用向きですか?」

「うんうん。そうそう。この前の記事、反響が良いみたいじゃない」

 少しの沈黙。こちらの反応を伺っているようだ。

「ええ、お陰様で。ご迷惑でもおかけしました?」

「確かに一言欲しかったかな。編集長がネットに出た君の記事を問題視している」

 澤口はタバコを一本取り出して、指でもてあそび、それを見ていた。火をつけるのを迷っているようだった。それからこちらに目線を向けて言った。

「でも、注目された事で川浪俊樹がうちのライターだと憶えていたお客さんからオファーが来たんだ。君にとってはチャンスだと思うので記事をお願いしてもいい。受けるかい?」

 ようは気に食わないが、うちの金になるから受けろと言う事か。腹立ちを顔には出さないようにしながら逡巡する。そこに編集長の小坂が現れた。ブースを仕切るパーテーションに手をかけて寄りかかり、満面の笑顔で言う。

「川浪くん久しぶり。君に名指しで依頼が来ているんだ。もう聞いたかい?」

「ええ、説明しているところです。あとでご報告しますから」

 そう遮る澤口の事は気もとめない様子で話しつづけた。

「先方たっての希望なんだよ。自分から伝えるって言ったから任せたんだけど、どう? お願い出来る?」

 最初に聞いた時のニュアンスと違い機嫌が良い。問題視もなにも、乗り気のようだ。

 小坂の視線が俺から移ると、澤口のバツの悪そうな顔が一瞬にして笑顔に変わる。

「はい、今承諾しようとしてくれているところです。だよね」

 芝居掛かっており、内心呆れる。この分だと、一度持ち込んだ記事である事は伏せてすらあるようだ。

 彼の体面を取り繕うためだけに、話す内容を作為的に操作した態度には反吐が出る。信条的にはキレて断るのに十分な条件だ。とはいえ確かにチャンスではある。ハラワタは煮えくり変えるが、俺は精一杯の作り笑いを浮かべて言った。

「ええ、お受けする方向で検討します」


 依頼元は無記名で記事を書いたことのある経済系の雑誌だった。二月末週から週刊誌三号に渡る短期連載だ。第一弾は発表した内容を元に増量した記事をという事だった。その際、心理療法に対する矛先を緩めよという。

 愉快ではなかったが、粛々とリライト作業を進めた。それを知ったミナは「内なる声に忠実に妥協せずに書きたいことを書くべきだ」と、かなり不満気だった。でも結果が出れば分かって貰えるだろう。

 記事を仕上げ、編集部に提出をした数日後。第二弾の打合せに呼ばれた。顧客の編集が立ち合うとのこと。狭いフロアに、無理にスペースを割いて作られている応接室兼会議室で顔を合わせる。名目通りの用途で使われるのに立ち会うのは初めてだ。彼は村上と名乗り、客先の責任者だと言う。

就職した事もなく、ビジネス・マナーも知らない。俺は直前に教わったとおりの作法で名刺交換を済ませた。澤口はいつも通り無難なオフィスカジュアルで村上も対して変わらぬ服装だ。俺も諦めて襟付のシャツを着て黒の綿パンと比較的フォーマルに寄せたつもりだ。

「川浪さん、よろしくお願いします」

「こちらこそ、この度はオファー頂けて感謝しております」

 柄にもなく、緊張しながら応じた。

「この間の記事は良かったです。随分直して頂いたのに、川浪さんらしい切り口も薄まってない。編集部での評価も上々でした。この調子でお願いします」

「お褒め頂いて光栄です。そういえば第二弾には条件があるとか?」

 こういう席に慣れていない俺に代わり澤口が質問する。しかし立ち会うだけだと聞いていたのに条件があるわけだ。結局は思うようには書かせてもらえないのだ。だが、ここで諦めてはミナに報いることが出来ない。

「どんな条件ですか?」

 自然とそう尋ねていた。

「ある心理学者にインタビュー頂いて、それを中心に記事をまとめて欲しいんです」

 澤口は最初から知っていたようで、ただ頷いている。それで色々合点がいった。なにかの事情で本人に書かせることは難しいが、その学者を売りにして、スピーカーに対する批判を主軸に置きたいのだ。いいように使われる事に反発を覚えて、きっと難しい顔をしていたはずだ。そのためだろう沈黙が流れた。意を決して笑顔を作る。そして尋ねた。

「それで、その方どういった人なんですか?」

 村上は自然と笑顔を作り、ビジネス鞄から単行本を一冊取り出す。

「去年この本を書いた方なんだけどね」

 そう言いながら、机に置いて中央に滑らせた。

 タイトルを見ると『ライト文芸における承認の構造』となっていた。装丁は流行りの絵柄で書かれた少女をセンス良く使っている。開いて目次に目を通す。流行りのサブカル作品の傾向に問題を提起し、一旦は批判しつつも、結局は世相と絡めて好意的に解釈して見せる。そういうスタイルなのかと推測した。

「この本うちで出したんだけど結構売れてね。今年は、T大学の博士課程を満期修了して、都内の精神科クリニックに勤務する予定なんだ。こちらの方でも活動するそうだよ」

 そう聞きながら手に取って著者の名前を確認する。遠藤ヒロミとある。母校と違う大学の所属らしい。まさかと思って、カバーのそでに近影を探すと、あの日以来見ていなかった奴の顔があった。

「それは凄いですね。君の名前も売れるよ、川浪くん」

「確かに、あやかりたいですね」

 とっさに、体面を取り繕ってそんな事を言ったが、その後の会話は、うわのそらで、何も耳に入って来なかった。


 午前中に干した洗濯物を取り込んだ後で、家で正月の残りのビールを飲みながら夕食を作る。遠藤が博士課程まで進んでいたのは驚いた。だが親の仕送りがあったのだろうと、やっかみが先に立つ。もやもやとした感情が心中を占める。彼がその学問を選んだ根底となる動機から非難して否定したくて堪らなくなって来た。

 人の心の秘密をのぞき見したい男。しかも、その低俗な欲求の対象は社会や風俗を切り取る事にも及んでいるのだ。

 そのように罵倒して自らを焚きつける。インタビューで遠藤をやり込める空想をし、何度も批判するセリフを変えて繰り返す。そのうちに少々溜飲が下がってきたが、料理に塩を振りすぎて、その晩はミナに料理が塩辛い事を理由に、どうかしたのかと心配された。だが遠藤をインタビューしなければならない事は話せず仕舞いだ。

 三日ほどフテて手が付かなかった。その間に一度、展示会の設営に行った。大塚に仕事が舞い込んだ事を話すと喜んでくれた。

 冷静になった俺は、インタビューの印象を誘導出来ないか考え始めた。スピーカーを批判するだけでなく、心理療法自体の問題を印象付けれないかという訳だ。そもそも、自分にそんなマネが出来る能力はないかもしれない。ただ、何もしないのは癪に触る。

 そして、遠藤相手にそれが出来れば気分もいいはずだ。だから、もっと「敵」を知らねばならない。これ以上詳しくなりたくもなかった。だが、毒を食らわばなんとやらとも言う。


 仕事から帰ってきたばかりで、靴を脱ぎ掛けのミナに泣きついた。

「ガテン系のバイトを休まなければならなそうだ。俺の分の生活費が入れられない」

 取材と執筆に時間を取るためだ。心苦しかった。彼女は瞬間、眉をよせてから笑顔を作った。

「分かったわ。折角のチャンスだものね。なんとかする」

重ねて無理を懇願する。手を合わせて頭を下げた。

「あと、当面の取材費の建て替えとして、三万円ほど貸してもらえないか。必ず返すから」

 パンツスーツから着替える間。なんと答えるのか悩んでるようで返事がない。

部屋着になってから、「ちょっとまってね」と言うと洗面所に行き化粧を落とし始める。それから何か考えが纏まったのか、安心したかのように言う。

「気にしないで、もともと生活費はほとんど私が出しているんだし。それに、それぐらいの臨時出費大丈夫よ」

「ありがとう。本当にありがとう。恩に着るよ」

 洗面所まで付いていき、また頭を下げた。ミナはその上に優しく手を置いた。

「私は俊樹の味方だからね。何にも心配いらないよ」

 それからハグしてくれた。俺の頬にもメイク落としのクリームが付いて、彼女は笑った。


 準備に時間を貰ったが、インタビューまで一週間となり、あまり余裕はない。俺は取材の為、母校の図書館に連日通った。心理学や精神分析、精神療法といった関係の情報はネットを検索するだけでは足りないからだ。

 まず手始めに心理学史、精神医療史などの本を飛ばし読みして復習し補強した。心理療法はセラピーの事で、カウンセリングと実際は違うなんて基礎的な事をこの時知った。しかし別の本では、カウンセリングの技法の章立ての中に明らかにセラピーと思われる技法の説明があったりもする。

 最初は棚で見つけた、エリクソンの『催眠療法』などを紐解いた。「普通の会話と催眠誘導の境界を曖昧にした」と評価されており有望そうだ。しかし、「一般的に使われている」というイメージが大切だと思い、療法のプロセスを調べる。すると《ラポール》という概念が見つかる。これは患者と治療者の間の信頼関係を表すものだ。だが早く築くためのテクニックが存在しており、営業が顧客と打ち解けるための技術としてもネットの至る所で紹介されている。双方が自然に深めるべき感情を、作為的に一方だけがいだかされる理不尽を知って嫌悪した。さらに個々の療法にざっと目を通して見る。どれもこれも、治療と称して患者の認識や考えを改めさせるもののように思えた。療法によっては、個人の信念を問題にすらする。当然、精神医療における向精神薬の投薬に至っては論外である。それらの事実で自分を焚きつける。心に浮かぶ、信じる主張に都合の悪い一切は考えないようにした。


 土曜の夕方、俺の部屋には持ち帰ったコピーが散乱していた。ベッドの上でその一つに目を通す。土日になっても家事に手が回らず、任せきりだった。

 休憩がてら、スマフォでSNSを眺める。タイムラインに流れる様々な呟きを追う。ふと思い出し、最初に投稿したタレコミサイトを開いてみた。コメント欄での意見交換も無くなっていたが、ジョン・ドウというアカウントのメールアドレスと共に米国版のサイトへリンクが貼られていた。表題は翻訳するならば、「スピーカーは制御されない黒魔術テクノロジー」と言ったものだ。過程の不可知性に纏わる形容である。深層学習の全てが当てはまってしまう見出しだ。だが気にはなった。

 リンクを開こうとしたちょうどその時、洗濯物を取り込み終わったミナが、こちらの部屋に来て言う。

「今晩、角に出来たインド料理に行ってみない?」

「いいね。食べたい」

 根を詰めていたので、気分転換がしたく即答した。

 夕飯時分になり、マンションを出る。ミナが、いつもより寄り添ってくるので腕を組んだ。

 表通りの一本裏を歩く。角のビルの一階。塗りたての外壁。ありがちな「ナマステ」という店名。真新しい看板。転居もしているが、既に十年はこの界隈に住んでいる。変わらないと思っても、少しずつ変わって行く。

 落ち着いた暗い赤の机。白い壁にはインドの神々、シヴァやヴィシュヌ、ガネーシャの絵が飾られている。どれも踊っているようなポーズだ。

 半分の量のマサラ・カレーとほうれん草カレーを頼む。ナン一枚は二人で分け、マトンのシークカバブと、サモサも頼んでシェアすることにした。

「最近、ずいぶん熱心ね。私の事なんかほったらかしなんだから」

「ごめんよ。これで認められれば、今後も名前を出してもらえるだろう。そしたら家計にもう少し入れられるようになると思う」

 いままでだって、立て替えてもらってばっかりだ。今回の主張を上手く世間に認めて貰えば執筆依頼も来るだろう。そうすれば期待に応えられると思っていた。

「遠くに行ってしまうみたいで寂しいかな。私ちょっと」

 意外な言葉だった。

「大丈夫だよ。俺はミナとずっと一緒にいるってば」

 そう言って手を握る。

「うん。そうよね。俊樹」

 心許なげに頷く。何かを言いたげだ。何を不安がっているのか、俺にはよくわからない。

「いっそ仕事なんて辞めてもいいのよ。生活費ならどうとでもなるわ。男性って養いたがるのに、養わせてはくれないものね」

 笑いながら冗談めかして言う。俺はそれを聞き流して伝えた。

「今回、合わせて十八万は貰えるはずだ」

「うん」

「高めの焼肉でも食べに行こう。ごちそうするよ」

 しばらくの沈黙。

「楽しみにしている」

 ミナはそう微笑んだ。

 ちょうど料理が運ばれてきて、俺らは手を放して場所を空けた。


 自分に重ねた嘘が破綻し始める。それは大抵、些細なきっかけだ。気の迷いか、欺瞞に対する無意識的な帳尻合わせなのか。二人で食事した帰りに、いつも立ち寄るチェーンの古本屋に入った。

 新たに心理療法を批判する論拠を仕入れたから問題ないだろう、という甘い目算。加えて簡単な読み物だという言い訳から、精神疾患当事者のエッセイを二冊買ったのだ。

 コミカルに書かれていたが、当人のそして周りの人達の苦労を垣間見る。誤りと薄々知って心を焚きつけていたセリフが、精彩をわずかずつ弱めていく。読みながら、知らなければ自分を騙し続けられたはずなのにと後悔をした。

 最初の著者は読書が生きがいだったのに、文章すら頭に入って来なくなり、文学部の院に進む道を絶たれた。今は薬で改善し、非正規だが就職して働けているという。次の本の著者は、新卒で入った会社で、同僚達に私生活の仔細を噂されるという経験をした。社内の誰もが事あるごとに、それを知っているとほのめかしてくる。恋人に相談したところ、説得されて精神科にかかることになった。幸い薬を飲んで、その妄想は収まっている。しかし仕事は失った。

 こういう話を読むと、精神医療における投薬をやみくもに非難することは間違いにしか思えなくなった。朧げに分かってはいても、知らずにいるから、主張できる思想。知ってしまえば、そのままの考えではいられなくなる。テーマを生きる上で乗り越えるべきステップと見做すことは出来なくなった。

 俺が嫌っても精神疾患は存在し、世の中で広く認められている。そして治療を必要とする人間もいるのだった。対象となる「精神疾患」は自分の考えから除外してしまわざるをえない。

 そこで防衛線をセラピーに下げることを考えた。しかし、さらに調べ、新たに幾つかの資料に目を通すと、投薬をせずに精神疾患を治療する試みがなされていると知れた。まとめて切って捨てる訳にもいかない。セラピーのもう一つの主な対象であるパーソナリティ障害も事情は同じだった。家族に連れられて治療を受ける場合も、よくよく周囲も本人も困っての事、と言うケースが多いようだ。自分から治療を受ける場合と同様に、往々にして本人も生き辛さを感じているのだった。

 これらの当事者の説明を無条件に受け入れてよいかは戸惑う。しかし、「生きる事に悩む」と言うだけでは済まない、当事者自身ではどうにもできない苦悩が綴られている。俺は「どんな状態に陥っても、テーマを生き抜かなければならない」という大義名分を鼓舞し続ける事に躊躇を覚え始めた。気が付けば、むしろ「生き辛さ」を克服して、その道に早く復帰するためにこそ治療があるという考えすら浮かぶのだった。

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