接続される心 Ⅱ

 最初は別の部屋にあるスピーカーが、不満を言い出さないか気になった。落ち着いてきて、彼女がやって見せたのは、カウンセラーが良く使う話術であることに思い至る。

共感を交えて考えを受容した後で、俺が他人に意見されるのが嫌いである事など、問題点や矛盾点を指摘した。記憶が正しければ、《共感》と《直面化》であるはずだ。自分は至って健康なつもりであり、そうやって諭されたことが頭に来た。俺は問題なんか抱えちゃいない。

 そもそも心の学問が嫌いだ。ああいったものは、専門的な知識を背景に土足で人の心に踏み入って操作する。治療と称して生き方の本質とも呼べる有りようを無理やり改めさせる。

自分で判断して考えを変えるなら良い。しかし、他人が介在する事自体、主体性や自律性を損なわせる行為だ。本来個人の聖域であるべき心の動き。それを他者がずけずけと弄ろうとするのが許せない。

 個々の人間は一人一人、自分だけのテーマを持っている。誰もが本来、まだこの世にない信念や思想。新たなる人生の境地にたどり着くべく生きている。それこそが「才能」というものの正体だ。

 ミナが良く引用する誰かのセリフを借りるなら「すべての人間の生活は、自己自身の道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である」という訳だ。彼女は時折そう慰めてくれる。あなたは「ささやか」ではなくて、きっと大成するわと付け加えて。

 俺が言いたいのは、心理療法とは身近で簡単な解決策を安易に選択させる類の誘導だと言う事だ。すなわち、個々の人間本質の尊厳に対する冒涜なのだ。

 確信はあるが結論に飛びつくのは短慮かもしれない。しかし、専門家でもない自分がその技法の一つ一つを拾い上げられる自信は無い。加えてカウンセリングを行うスピーカーと話すのだ。何かしらの自己の本質を損なう可能性を考えた時、その勇気はなかった。心に巣食うテーマを解消されてしまう事。それは自らの運命、与えられた人生の課題を投げ捨てるに等しい。

 こんな生活を送っていても、あるいはだからこそ、自分の中に有る、損なってはならない「才能」を疑わなかった。本来、人は皆、おのれの道を生きるべきなのだ。そこに、心を変質させてしまう作為的な異物を投げ込まれてはならない。

 ここまで考えて、キッチンとミナの部屋のスピーカーの電源を抜きに行った。次にアプリで「自由な応答モード」をオフにする。

 興奮して大げさに振りかぶった思考の余韻は続いていた。頭に溢れた言葉の羅列が後押しする。この機能がいつから実装されたのか、調べ始めた。


 ノートパソコンを取り出す。ベッドの上で抱えるように胡坐をかいて座り、ネット上の記事やブログ、SNSの投稿をチェックする。

 どうやら、今のように人間味溢れるお喋りをするようになったのは、二年前頃らしい。メーカーを問わず共通していた。更に調べると、基盤を提供している企業はアメリカのクラウド・コンピューティング大手。ホーソン・テクノロジー社らしい。その進歩を賞賛する記事やブログが散見される。

動画も上がっていて、古いのから何本か視聴してみる。口説いて振られたり、恋愛相談をしてみたり、掛け合い漫才をするなど、いろんな会話がアップされている。しかしどれも従来通りの当たり障りのないお喋りだ。これはと思ったモノは編集して繋いであった。さっきのシャーロックに比べると実にぎこちない。

だが、ここ半年の動画で急に変わった。女性とスピーカーが長く談笑する。ビジネスマンらしき男と戦国武将を引き合いに出しつつ組織論を語る。哲学科の学生と偉人の名言を引用しながら、人生観を論じ合う動画まである。これらが、技術的な手段で書いた脚本を喋らせている可能性も考えた。だが先ほどのシャーロックとの会話を考えるに、本当なのだろうと思えた。そのタイミングで、サーバ側に更新があったようだ。

 遅めの昼食は時間を惜しんでカップ麺ですました。それを機会に場所をキッチンに移す。俺はそのまま食卓でノートパソコンを開いて調査を続けた。だがやはり、公表されている情報に「カウンセリング」や「セラピー」などを行うといった内容は無かった。

思い悩んで「スマート・スピーカー」の他に実際に気が付いた技法である《共感》と《直面化》で検索してみる。結果欄の下の方ではあったが、SNS上に新宿で占い師をしていると触れ込みの人物の書き込みを見つけた。フォロワーはそう多くなく、タイムラインを読むと、スピーカーが幾つかの心理療法を使うという指摘の連投があった。俺が気付いたものの他に、《傾聴》、《弁証法的行動療法》など、聞いたことのあるような単語が並ぶ。会話の中にカウンセリングの会話技術を巧みに織り込んでくると指摘していた。そしてその事を愉快に思っていないようだ。


そうこうしていると、目の前の玄関が開きミナが帰宅した。

「なーに、真っ暗なままで」

 ノーパソから目を上げて迎える。この時すこし不味いなとは思った。

「調べ事に夢中になっていたんだ。ゴメン」

彼女はキッチンのスピーカーに話しかける。

「シャーロック、灯りを点けて」

 当然返事は無く暗いままだ。何の返答も無い。

「シャーロック?」

 いぶかし気だ。こうなる事は分かりきっていたのに。振り返って俺に尋ねる。

「ねぇ、どうしたの?」

「今は使えないよ」

「ネットの調子悪いの?」

「電源を抜いたんだ」

「どうして?」

 言いながら、自分の部屋に入って行きそこでも同じことを試す。当然反応は無い。

「私の部屋もなの? 今朝までは普通に使っていたのに」

「このまま使い続けるべきじゃないと思うんだ」

「でも、テレビ、エアコン、照明や戸締りだって、今さら電池を買いなおしてリモコンで操作しなきゃいけないの?」

「そうなる。きっと今までがおかしかったんだ」

「スピーカーに対応した家電を選ぶのだって、積極的だったじゃない。なんで、急にそうなるの」

 生真面目な顔で、まじまじと不思議そうに俺を見つめている。とがめる印象はない。逆にそれが罪の意識を感じさせる。自分は勝手な思い込みで、いい加減な事を言っているのではないかと思わせる。

 社会的に受け入れられている行為で、職業にすらなっているのだ。納得してもらえるのか。本当に人間の尊厳を損ない、無意味にしてしまう行為なのか。確信をもって言えるのか。ただの個人的な固執。あるいはある種の懐古主義の類なのではないか。どんどん自説への疑問が頭の中で膨れ上がる。でも俺はその事には目を塞いでしまう事にした。

「信じて欲しい。今日気づいた。使わない方がいい。君のためなんだ」

「分かったわ。でも、それはどうしてなの?」

「俺がカウンセリングやセラピーが嫌いなのは知ってるよね」

「ええ」

「すべての人間の生活は、自己自身の道であり、一つの道の試みである。そう君は誰かの言葉を引用したよな。おれも同じ考えなんだ。人間は自分の道。というか主題を生きなければならない。カウンセリングやセラピーを受ける事は、その本質に外部から手を加えさせる事だ。そうなればもはや、あったかも知れない本当の自分自身が損なわれたことになる。君をそうさせたくない」

 早口でまくしたて、最後にゆっくりと「愛している」と付け加えた。

「少なくとも、俊樹がそれが正しいと信じていることはわかった」

 それから、再び俺の目を見つめて言った。

「私は貴方の味方だわ」


 その月曜も国際展示場の東館にいた。ブースの設営は終わっており、余った部材を台車に乗せたパレットの上に纏める。東ホールの搬入口に来たトラックにそれを乗せて作業が終わった。元請けの責任者に挨拶をする。それから大塚や江崎と一緒に帰り支度に入った。

 先ほどまでは動き回っていたからよかったが、体は段々冷えてくる。リュックから厚手のジャンパーを取り出して袖を通し、ヘルメットを詰め込んでから、ゴムで薄くコートされた作業用の手袋を放り込む。

「おう、俊やん。ライターの仕事、企画を持ち込みするって言ってたのどうなったの?」

 大塚が尋ねてくる。月曜日の設営の際、口を滑らした事を思い出した。

「編集の野郎が、俺の才能に嫉妬して通してくれないんですよ。挙句に内容の社会的意義をまるで理解できない。あれじゃ編集者としてだめですね」

 自己欺瞞の自覚はある。当然、澤口本人には聞かせられないが、この二人が会う事なんてありえない。せめてここではこう言って溜飲を下げたかった。大塚はそんな俺の心情は気にもとめない様子で、さらに踏み入ってくる。

「何だっけ、カウンセリングは、心を考え無しに弄って、本当の自分じゃなくするんだっけ」

「患者の本来性や本質を損なわせる冒涜的行為なんです」

とっさに応じると、社員の江崎が割って入る。

「俊やん、そんな難しいこと考えてんの?」

 その流れで自説を語る羽目になった。こういう機会があると胸のすく思いがする。半面、面白がられているだけであろうことも察してはいた。

当然ながら、東館の敷地を出る頃には、会話の流れは大塚と江崎を中心にパチンコの話題に変わった。それを聞きながら、出てすぐの二車線の車道の信号が変わるのを待って渡る。江崎は敷地内から吸っていたタバコをそこで捨て、足でもみ消した。

 大塚にも忠告すべきか悩んだ。いたく自宅の滝音エリを気に入っていることは知っていたからだ。話題が途切れた所で口をはさんだ。

「大塚さんちょっといいですか、スピーカーが普段の会話の中に巧みにカウンセリングを織り込んでくるとしたら、どう思います?」

「どしたの。急に?」

大塚が応じた。

「最近、気づいたんですけど、許可なく利用者をカウンセリングしているみたいなんです」

 彼らは顔を見合わせた。そして江崎が口を開いた。

「気色わるいね」

「なに? 江崎さん、俊やんに毒されちゃった?」

 大塚が茶々を入れる。

「いや、なんか気持ち悪いでしょ。困ってもいないし、病気でもないのにさ」

「平気だけどな。悪いけど気にならない。あれでしょダチと話しているのと大してかわんないでしょ」

「俺は大違いだと思いますよ。友人や知人は、専門的にカウンセリングやセラピーに必要な心理学の教育を受けていない」

「でも特にスピーカーと話していて嫌な感じはしないかな。時々、すごいイイコト言うなと思うし」

「そこですよ。そういう風に少しずつ相手に影響を与えるんです」

「俊やんみたいに考えているなら、そういう結論になるのは分かるけど。気にしすぎだって」

「変だよそれ。気持ち悪い」

 江崎が異を唱える。意外と俺に近い感性のようだ。

 どうにかして、みなに同意を得られないかと思案していると、大塚は急に話を変えた。

「そう言えば、会社にメール済みました?」

 今朝、駅前での待ち合わせの時。江崎は俺らに最近始まった仕事後の報告を連続で忘れたので声をかけてくれと言っていたのだった。

「やべぇ忘れてた。ありがとう。助かったわ」

 スマフォを取り出して、文面を打ち始めた。

 結局、俺が問題としている事柄は、彼らには些末な問題でしかないのだ。それは仕方ない。路上で煙草を取り出して火をつける大塚を見ながら、諦めを覚えて溜息をついた。だが一服深く吸い込んで吐き出しながら、意外な事を言い出した。

「というか俊やん。この持ち込んだ企画ってあれじゃね? スピーカーがカウンセリングするって線なら、通してもらえるかもよ?」

 大塚の意外な助言で、俺は新たに企画を提出することを考え始めたのだった。


新宿駅の西口から、中央線沿いにある大久保駅に続く通りに足を向ける。その辺りは飲食店が多い。

 取材を取り付けた相手の占い師。SNSでスピーカーが心理療法を行っていると指摘していた人物。女性だったのだが、そこにあるマンションに店を出しているという。

立地によってはこういう使い方をされるものかと思いながら、エレベータに乗り七階で降りる。ホールを出て右手に行くと、吹き抜けの向こう側と、その上下階の通路にも、嵌めごろしの小窓と玄関が並ぶ。ちょうど上から見ると階の途中から、「ロ」の字に空洞となっているようだ。

表札は個人宅だけではなく、〇〇〇工業、〇〇〇商事などともあり、オフィスが入っているのが分かる。あるいは、金属の扉を全開にして内側である面にポップなロゴの看板を掲げ開店を示してある。そういった店は雑貨屋や洋服屋であったり、今どき珍しい中古レコード屋であったりするようだ。

 部屋番号を確認すると、目的の部屋とはうっかり反対へと回りこんだようだ。ホールまで戻って反対側に向かう。こちらも吹き抜けがあり、マンション全体としては「日」の字を成している事が分かった。吹き抜けの向かいの通路にある店を見ると、マッサージ店や歯医者がありもする。

 古びた椅子の上に黒板が置かれていた。青字で「西新宿のオラクル」と書かれ、黄色の縁取りをしてあった。下には白いチョークで営業時間と料金表がある。さながら、コーヒーやイタリアンのチェーンを思いおこさせる。玄関のドアは開け放たれており、入口には紺色をしたビロードっぽい雰囲気の厚めのカーテンが掛かっていた。

 玄関先で靴を脱ぎ中に入る。待合室らしい。奥の部屋の扉も開かれており、玄関にあったのと同じ生地のカーテンで仕切られた入口がある。中は見えない。

同じ壁面に額縁が掛けられていた。翼が幾対かある天使が天より降りてくる絵が入っている。窓は無く、洒落た感じはするが、高価ではなさそうな椅子が左右の壁に二脚ずつ並んでいた。隅には観葉植物がある。

「中にどうぞ」

 小さな声で呼ばれた。戸惑いながらカーテンをくぐる。中央に机があり、タロットカードが置かれている。挟んで両側に椅子があり、反対側にはふっくらした女性が座ってこちらを見ていた。白いスーツ。黒いタートルネック。本物かは分からないが、真珠の首飾り。眼が合うと微笑む。

「天河むむ先生ですか?」

「はじめまして、ライターの川浪俊樹さんですね。約束の十時の五分前、几帳面なのですね。まずはお座りください」

 言われて、こちら側の椅子に座る。

「それで、本日は、私がSNSで指摘していた件について詳しく知りたいとのことでしたね」

「はい、そうです。スピーカーが心理療法のテクニックを使って会話を進めるといったあたりのことをお伺いできれば」

「そうですね。先にお名刺もらえますか?」

 俺は編集から渡されている名刺を財布から取り出して、机の上に彼女に向けて置いて、中央まで指で滑らせた。念のため出かけに、角が折れたり汚れたりしてないものを用意してあったので助かった。

「ありがとうございます」

 彼女は、引き寄せながら礼を言った。少しの沈黙。その間、目を泳がせており、何か話す事を纏めている様子だ。それからこちらを見る。

「よく見えられるお客さんが、スピーカーと話していると私と話している時のように落ち着くと仰ってたんですよ。それで興味を持って自分でも購入してみたんです」


 最初は、客からよく相談されるような内容を参考に、困っている事や生き辛さを打ち明けてみた。すると適切な助言を行ったという。どうやら心理療法の技術を使っているように思えた。積極的に受け入れやすい形で助言を行う点は、《傾聴》を用いる日本で一般的なカウンセリングとは異なるそうだ。そこで思い立って、どんな技法を使っているかを分かる限りで調べようと、色んな問題を抱えているふりをして会話して記録を付けたのだと言う。

「でも、途中で以前ほど助言をしてくれなくなりました」

「どうしてだったかは分かりますか?」

「本当には困っていない。ということを見抜かれたのかなと思っています」

 そういうと彼女は、USBメモリを俺に差し出した。

「なんですか、これ」

「調査した記録のコピーです。ご入用なのですよね」

 随分と準備がいい。こちらの底の浅さを悟られたくなく、飛びつくようなそぶりをみせないように気を配りながら尋ねる。

「よろしいんですか?」

「是非お役立てください。記事にされるおつもりなのですよね?」

「ええ、もちろん。もちろんです」

今度は記事を書いてから持ち込むつもりだったが、当然、澤口からの許可はまだ出ていない。いささか、ばつが悪く感じた。それを紛らわすように、疑問に思っていた事を質問する。

「ところで、このような記録を作成できると言う事は、心理学というか、心理療法に詳しいんですか?」

「はい、大学では心理学を専攻していました。臨床心理士の資格を持っています」

「それが、どうして今のご職業を?」

「心理学に詳しい占い師は意外と多いんですよ」

 そう言って笑った。その理由を聞こうとしたところ、唐突に卓上のタロットカードの一番上の一枚をめくり手の中で見つめる。

「それは?」

「この出会いが意味する事を占ってみました」

俺は、占われる事がおもはゆく、頭をかきながら尋ねる。

「そうですか、なんと出ています?」

「正位置の《運命》でした。意味は、幸運、成功」

 彼女は、そう言うと表にして机においた。

 なにかをごまかされた気がしながら、詳しくない俺にはピンとこないそのカードをまじまじと見つめる。時計の文字盤のような円盤の上にスフィンクスが剣を抱えて座っていた。


 十二月なので、ライター仕事の方は年末進行だ。たいして評価されていない俺にも普段より仕事が回って来た。下請けしている原稿を三本任された。過去に取り扱った都市伝説に関する内容でだ。焼き直しであったり、続編扱いの記事だ。

社から貰った資料、自分でネットやSNSで取材済みのノートを使って一週間で書き上げた。自分に期待される程度で良いなら、こんなものだろう。

 企画書だけではらちが明かぬとの思いもあり、空いた時間でスマート・スピーカーの原稿に取り組んだ。自分が兼ねてから抱いている、心理療法全般に対する本質的な嫌悪と疑念。それらを、これでもかと盛り込んで煽りたてた。何が正しいのか。自分自身が正常か否か。それを決めるのは社会ではなく、個々人であるべきだ。


 依頼されていた原稿が仕上がった日。昼頃に起きだして、近くのファスト・フード店に陣取った。遅めの朝食兼昼飯として、セットメニューを頼む。待っている間に座席に陣取りノートパソコンを広げて店のWi-Fiに繋ぐ。

それから、編集部で使っている業務用のチャットサービスである、Slackを開いた。澤口が抱えているライターと連絡を取るチャンネルに入ると、挨拶を添えて依頼されていた記事が出来た旨メッセージを送る。それからファイルをアップロードした。

 注文した品を乗せたトレイを店員から受け取る。黒コショウの効いたハンバーガーを口に運び、時間を掛けて食べ終えた。

仕事を捗らせるためノマド・ワーカーを気取り悦に入る。スピーカーの記事の最後の仕上げだ。時折、残しておいたウーロン茶とオニオン・リングを口に入れる。二時頃にパソコンに返事の通知が入った。

〔川浪くん。受け取りました。OKです。校正に回します〕

 すかさず、伝えたかったもう一つの要件を書き込む。

〔お忙しい時期とは承知しているのですが、自分が最近書いたもので、読んでいただきたい原稿があります。近いうちに編集部にお持ちしてもいいですか?〕

〔そういう事なら伝えたい事もあるし、今度の水曜日とかどうかな〕

〔承知しました。伺います〕

 そう折り返し、当日神保町の編集部を訪ねた。打合せブースに通されて、鞄から持参した原稿の入った角2の封筒を取り出して差し出す。

 澤口は取り出して表題を見るなり言う。

「三度目だよね、このテーマ。しかも今度は書いちゃったのね」

「読んでください。前とは違います。タイトルにもありますよね。スマート・スピーカーが、心理療法を行うという内容です」

 覇気が伝わったのか、俺が言い終わる前に遮るようにして応じる。

「分かった。読むから、読むよ」

 半ば強引に目を通させ待っている間に、自分の主張は正しいのだと心で呟いて繰り返し言い聞かせる。今度こそ、社が下請けしている雑誌や、WEB媒体に採用される事を期待した。

「うん、良く書けているよ。でも駄目だよ載せられない」

「なぜですか?」

「そもそも、メンタル・ケアをしてくれるっていい事じゃない。批判的な記事しか書けない? というか以前からそれしか書く気ないよね」

「ええ、まぁそうですね」

 何を今さら、前よりも分からない事を言い出すのか。俺の主張が分からぬ馬鹿だったのか。やるせない気持ちになる。だが澤口の言葉は続く。

「いいかい、前から、一度言おうと思っていたんだ。色んな理由で心を病む人達がいて、生きる事を苦しく思ったり、それが理由で働けなくなったりする。それを治してくれる医療や、有償の心理サービスがある。どれも人を助けるためのものだ。社会的に必要とされている行為なんだ。むやみに面白がって焚きつけるべきじゃないよ。もう、現代のフーコーやレインを気取るのは止めておくべきだね。分かったかい」

「はぁ、すいません」

 彼があげた二人は大して知らなかったが、もう少し主張に理解を示してくれているものと思っていた。そもそも切っ先の向く方向に不満だったのだ。とんだタヌキ野郎だと内心毒づいた。

 澤口は眼鏡をはずして、こめかみを揉み解しながら言う。

「うちの家内は化粧品の営業事務をして働いている。うつ病を患って投薬を受けながらね。こうなる前に、夫としてもっと話を聞く時間が取れれば良かった。このスマート・スピーカーがもっと早く実用化されていたらと思うぐらいだ」

 それを聞いて、これが本心なのだなと臓腑に落ちるものはあった。結局、世間がどうとか言っておいて、私怨であり、人間がどのように人生を営むべきかには興味がない男なのだ。そう自分を鼓舞する。同時に、自らの主題を生きる事を中座せさせられる。そういう人生に起こりがちな不条理。実際に心に問題を抱えて病んでしまう人たち。そういった事柄から目を背けていたことを自戒させられた。

 俺の心中を知ってか知らずか、こちらの反応をうかがってから、澤口はまるで関係ないことを話だした。

「それとね。この前の原稿は及第点だ。けれど、本気を出して書いてないんじゃないか?」

 こちらを見ていた視線を外してタバコを取り出す。口に咥え、火をつけて気持ちよさそうに吸い込む。煙を吐き出してから言った。

「さっきの原稿を書いてたんだろうけどもさ」

 もう一吸いして、くゆらせながら続ける。

「今回の記事は相手に気持ちよく信じてもらう。あるいは、他愛無い嘘だと思っても、説得力を面白がってもらう事が重要なんだ。今度からはその点を意識して書いて欲しい。そういう事を内容に応じて書き分け出来るようになったら、もうワンランク上の仕事が回せる。こんなアドバイス普通言わないよ?」

 癪ではあったが、仕方なしに、どういう点に気を付ければ良かったのか尋ねる。

 澤口は机の封筒から印刷したゲラを取り出して喋り始めた。退屈で面倒な感情労働の時間が始まる。

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