接続される心 Ⅰ
火曜日の昼過ぎの神保町。バイト先であるペルガミノ社にいた。ここ以外に事務所はなさそうだが、みんな単に編集部と呼んで出入りしている。
俺たちに適当な取材をさせて、面白可笑しく記事に仕立てさせる。内容はファクトチェックの要らないような、ゴシップや風俗、時には政治や社会問題。様々だ。そして編集を請け負っている雑誌に載せたり、他の媒体に売り込む。
ある程度の経験と人脈や知名度があるライターも所属してる。そいつらはもっと真っ当な記事を書き、社は営業や事務まわりを請け負って中抜きするらしい。そのほかに企業の広報誌などを手掛ける社員もいると聞く。
俺と言えば、世間しらずなので業界にも疎く、単に中間搾取されているようにしか思っていない。だが営業の仕方もマナーも知らず、学ぶつもりもない。そんな掛け持ちアルバイトにとっては有難い存在だとも考える。加えて、バイトの立場でも企画が通れば記事の載せ先を探してくれるというのだ。社会に認めさせるチャンスがある。
持ち込んだ企画書を見てもらいながら、担当の澤口の表情を見て反応を推しはかる。編集者の中でも一人だけフォーマル目な服を着ている。簡単に言うと金のかかるビジネス・カジュアルを着こなす嫌味な男だ。
だが、部内での発言力は確かそうだと踏んでいる。だから頼ってやった。無理目のスケジュールの時も精一杯努力して応えてきたつもりだ。それを評価されているのかは分からないが。
狭いオフィスの一部をパーテーションで区切った打合せ用ブース。中には向かい合う椅子の間にテーブルがある。澤口は読んでいた企画書と原稿の束をその上に置いた。
駆け出し未満の分際ではあるが、無茶な鉄砲も撃ってみなければ当たることはない。とはいえ、怯えながら待つのも嫌だ。なので、渡した直後からは諦観している。だが心臓は脈を速める。
澤口は顎を撫でながら逡巡するかのように口を開く。気落ちする言葉が出て来た。
「川浪くん。随分頑張って書き直したみたいだね。だけど、以前とあまり変わんないよね」
結果は予想していた通り。一度受け入れられなかったテーマだ。書き直しても難しかろうとは思っていた。落胆は顔に出たのだろう。同情からか「同じような内容の企画を、二度も読ませて」といった嫌味は無かった。
意外な事に、前回より具体的に理由を説明してくれた。
最初に言われたのは、いつも任せている雑誌に載せる内容ではない。また専門的で一般受けはしないとの事だ。
だから企画を通せば、それなりに硬めの雑誌に営業をかけることになる。今の俺のランクとしては特例扱いだ。だがその水準には達していない。
続けて内容に関して指摘された。カウンセリングやセラピーに対して、無理やり考えを変えられてしまうという批判は妥当ではない。また古臭いのだそうだ。
個人の信念が適応的か否かで分類して治療しようという手法もあり、本質的に心の治療とはそういう側面を拭い去れないと反論した。
だが、患者とセラピストが合意を形成しながら進めるものだから問題はないのだと一蹴される。
追い打ちで、君の理屈が通るなら教育も報道も日常の会話も洗脳という事になってしまうと極端な事を言い出す。
俺は食い下がった。他にも非難されるべき点がある。本来は親しい人間関係の中で相互自助として行われていた情緒的ケア。それを商業化しているのだと。
すると「その主張のタネ本は私も読んだよ」と笑われた。都市部での互いに踏み込まない距離感の中では相談相手となる交友を得るコストが高いこともある。商業化されるのもやむを得ない。それが澤口の主張だ。
「この企画は今の世相の流れじゃないね。日本においてカウンセリングはそれほど普及しているわけでもないし」そう言って話は打ち切られた。
神田から高田馬場までの地下鉄。東西線の車中。帰宅ラッシュが始まる前で座席には余裕がある。
なのに、座る気にはなれない。ジャンパーに手を突っ込んで、乗降口の扉にもたれる。そして窓の暗闇を見ていた。目を凝らせば、ダクトや配線や古びたコンクリートの壁が流れて行く。
このバイトも、渡り歩いてきた腰かけの一つでしかない。突き放して考えてみればそうだ。でも「ライター」という肩書は気に入っている。
企画をときどき通してもらっている先輩バイトとの実力差を見ないようにもしてきた。
澤口の子飼いの中では群を抜いているのだと、むしろ自分を偽って鼓舞してきたのだ。
だが、我に帰る瞬間というのはある。編集部で言われた事を思い出して拳を握り、歯を食いしばった。
一通り思い出すと、また腹が立ち始める。結局、澤口は大きな流れに身を任せるのが楽なのだ。そういう腐った男なのだ。同様に世の中は所詮そんな風に愚かしいのだ。「普遍の真理」とか「事実」より、「流行」とか「世相」な訳だ。普段の自分がどうであるかも顧みない、罵りの言葉が、俺の頭の中に溢れ出した。
いつものように、駅と自宅の間にあるチェーンの古本屋に立ち寄る。こんなとき、当事者の体験記がある棚を見る事もある。だが俺は心を治療すると言う考え自体が気に食わない。読んで見たくなるのを抑える。実際を知ってしまうと、批判的な姿勢を弱めてしまうのが怖い。
本質的に糾弾されるべきなのだ。そう己に言い聞かせて離れる。今日は文庫本を数冊買って店を出た。
高田馬場の2DKの賃貸アパートに帰り、スピーカーに帰宅を告げる。
「シャーロック、ただいま」
それがトリガーとなって、入ってすぐにあるキッチンの上のシーリングライトが点く。
「お帰りなさい 俊樹さん」
聞きなれたソフトな声と明瞭な発音で答える。とりあえずベランダに向かう。二人分の洗濯物を乱雑に取り込んだ。俺の役割となっている、アイロンも、夕飯の支度も放棄する。ベッドから自室のTVで、サブスクリプション・サービスの海外ドラマの続きを見て過ごした。
三話目の途中で、玄関が開き靴を脱ぐ音が聞こえる。そちらを見ずに「ごめん、夕飯作ってないんだ。食べに出ないか?」と言葉を投げる。
背中でミナは明るくかろやかな溜息をつく。
「いいわよ、行きましょう。私も気分転換したかったのよ」
疲れていない訳ではないだろうに、俺のわがままに嫌な気配を感じさせずに応じた。
さらに冷えだした暗い夜道。着替えてジャンパーを着こんだミナと腕を組んで歩く。表通りに向かう路地の途中に二人で店を決めた。ビルの二階に最近出来たベトナム料理屋だ。
飛びぬけてではないが洒落ている。それでいて味も良いのに価格も抑えられている。最近外食するときにはミナが選びがちな店だ。今日も金を出すのは俺じゃない。普段から生活費も頼りきり。思いを巡らせば、苦労ばかり掛けている気になる。
店内は、明るすぎず暗すぎない照明。床に置かれた荷物を入れる編み籠。注文した料理が、濃緑のテーブルクロスの上に並ぶと、二人で思い思いに手を付ける。アボガドと青いパパイヤのパクチーのサラダ。生春巻きと、砂肝のレモングラス焼き。ココナッツミルクと唐辛子で味付けされた白身の揚げ魚。
食べながら、週末一緒に録画で見た、月曜深夜のバラエティ番組の話をする。次にSNSで炎上中のテーマについて互いの意見を言い合った。
食後になって、会話が途切れた頃。思い出したように、「気持ちは晴れた?」と尋ねられた。平気な素振りで、なんとか感情の整理は出来たと答えて笑った。
「私もよ」
そう言って、ウェイターが持ってきたベトナム・コーヒーを口にする。苦みと入っている練乳の甘さが口に広がる。
「今日の企画の持ち込みダメだったんでしょ?」
なんでもお見通しだ。
「そうなんだ。編集は才能に嫉妬して企画を通さない」
カップに手を添えて、自分でもわかりきった自己欺瞞を並べた。彼女は聞きながら、随所で励ましと慰めを口にした。澱のようにたまる罪悪感を見ないようにして、俺は自分が喋ったことを信じた。
会計の後、店を出た大通り。
「忘れないで、その真っ直ぐなところ好きよ。在りたい自分を模索しているロマンティストな貴方を愛しているわ」
そう言って、俺を見つめ手を握って笑った。こういった時、心に引っ掛かり続ける自分の欺瞞すらも忘れて、不思議と安堵を覚えるのだ。
ずっと心の何処かに怒りを抱えている。そもそも心の内にあるものを自由に表現して、ありのままの自分を受け入れられたい。なのに、いつも誰かが意の沿わぬ何かに分類する。俺の行動を変えようとする。場合によっては、本質に関わる部分から根こそぎ否定してかかる。
それらの性分ゆえか、友人関係でも苦労はあった。今でこそ気にならないが、じゃれる程度にイジられる事すら不満だった。中高校時代はそれで級友を殴りもした。だから人は誰しも尊厳を持って扱われるべきだと言い訳した。思い返せば、プライドも高く扱われようには敏感で真剣だった。
もちろん、自分が正しいと信じた事は譲りたくなかったし、他人に自分を決めつけられるのは耐えられない。意見されればどうにもハラワタが煮えくりかえる。
学校では時として協調性と言う名目で納得できない集団行動を余儀なくされる。不満が募った。そもそもの原因は、「社会」というヤツだ。勝手に作った「型」にはめこもうとする。なぜ正しいかどうかも分からないのに、決められた有象無象を受け入れ、従わなければならないのか。
今でも怒りと共に思い出すのは大学二年の夏の日。サークル棟での遠藤とのやり取りだ。二人とも講義の合間に部室で時間をつぶしていた。俺は無造作に置いてあった文庫本を読みながら煙草を吸う。奴は机を挟んで反対側に斜に座り、紅茶のペットボトルを片手にスマフォを眺めていた。
何を思い立ったのか、目線を上げて神妙な面持ちで聞いてきた。
「川浪、前から尋ねたかったことがあるんだが、いいか?」
「なんだよそれ、気になるな。いいよ。聞いてみな」
「君は問題に向き合わずに、自分に嘘をついてやり過ごす傾向があるね」
「急になに?」
「タバコなんてすぐ止められる。中毒なんかしていない。そう言って、三日で吸い始めたじゃないか。二年間一緒だが、それを三回は繰り返している」
「一度、禁煙出来る事を確認して、もう一度吸い始めたんだ。今はその必要がないから吸っているだけだ」
鼻で笑ってやった。
「その事だけじゃない。この前は、英文の鈴原さんを散々ほめそやしていたのに、彼氏がいると分かったら、あんな女呼ばわりして欠点をあげつらっている」
俺の心のうちを勝手に決めつけて、それをこちらに向けてくる。前から遠藤は説教くさい所のある、鬱陶しい男だった。加えて、その時は虫の居所もあったのかもしれない。いつになく頭にきた。
「お前はうるさい。それ以上言うな。煙草は直ぐに止められる。鈴原の事は、大した女じゃない事に気付いただけだ」
だが、やつは動じず、こちらを見て続けた。
「君は、自分は正しく無ければならない。間違ってはいけないと思っているんだね」
それ以上聞きたくない気持ちと裏腹に、何故か次の言葉を待ってしまった。
「人に弱みを見せたくないんだな。感情が強くプライドが高い。それはごく正常なことだ。心配しなくていい」
苛立って、遠藤の方を見ずに席を立つ。鞄を持って、扉を叩きつけるように締め部室を出た。
その日の残りの授業は最低だ。頭に入らない。遠藤を捕まえて、誤った理解だと発言を撤回させたくて仕方ない。ただ、再びあんな事を言われる事を考えると、部室に足を運ぶことは躊躇われた。学内で奴を見る事があっても避けるようになった。「社会」の全てを否定するつもりは無い。だが、土足で立ち入って覗き見て、外側の理屈で心の内面を勝手に解釈する。決めつけ「型」にはめる。このような行為全般への義憤を再確認し新たにした。
お台場の東京ビッグサイトでは展示会が毎週のように行われる。ここでの商談が日本の経済を回しているのだそうだ。
大量の出展企業のブースは月曜日に組み立て、火曜日に搬入。水木金の開催期間を終えたら、多くの下請けや、孫請け業者が作業を始める。三時間から五時間でキレイさっぱり撤去される。
明朝には、場合によっては深夜のうちに、次の設営が始まるからだ。そのため、閉会直前には、複数ある搬入口の前に、解体に使う機材や、ばらした部材や収納具を運ぶ大小の台車が列を成している。
俺もベッドほどはある長方形の平台車の横にいた。荷運び用のパレットを上に乗せ、その上に部材を収納するケースと脚立を置いてある。契約社員の大塚と、東ホールの搬入用の巨大なシャッターの前で待機中だ。
社員の江崎と、もう一人のバイトは、トラックから台車を下ろすときは一緒だった。今は、別ホールの搬入口で同じように待っているはずだ。
十一月も末なので、体を動かさなければ相応に寒い。しかし作業が始まれば直ぐに温まる。だから、今着ている防寒用のダウンとは別に、ビニール製の薄いジャンパーを用意してある。それは荷物と一緒に持ち込む。
大塚が、腰ばきしたズボンの尻ポケットを手でさする。タバコがあることを確認しているのだ。察した俺は声を掛ける。
「搬入口が開くまで、吸って来ればどうですか?」
「俊やん付き合えよ」
「吸わないのは知っていますよね。それに台車を見ておかないと」
搬入出口のシャッターが開けば、最初に解体するブースまで運ばねばならない。
「一人で行って来いって言うの?」
言葉はぶっきらぼうだが、懐っこく聞こえる。
「見てなくていいんですか?」
「灰皿から目が届くし」
念のため確認したがこの返事だ。そう言われてしまえば、こっちはバイトだから立場上は断る理由もない。
「じゃあ、御供します」
俺は苦笑いしながら答えた。
展示会場の屋根まで続く高い外壁。それを背にしてベンチがあり、そばには灰皿がある。
揃いの作業服を着た、どこかの元請けらしい男たち。ニッカポッカだったり、黒や青のジーンズを履いた俺たちみたいなの。
皆たむろして、一服しながら控えめな声で雑談をしている。
大塚も旨そうに紫煙を吐き出す。俺は吸わなくなって久しい。なので副流煙を楽しむにとどめる。
「俊やんさぁ、スマート・スピーカー買っちゃったよ」
灰を落としながら嬉しそうにそう切り出す。さっきから、これが言いたかったのだろう。
「TVも、灯りも、お願いするだけで点くじゃん。やっぱり未来っぽいよね」
「便利ですよね、家にもあります。同居人のですが」
「俊やん、女のところに転がり込んでるんだっけか?」
いつもヒモみたいに言われる。そんな関係ではないと言いかけて、面倒になり聞き流す事にする。
「ところで、やっぱり絶えず女に借金のある状態にしておくのがコツって本当なワケか?」
いつもの軽口でグイグイと突っ込んでくる。
小遣い稼ぎでしかない事もあり、大塚と違い日雇いバイトは週に二日しか引き受けていない。その理由の説明に窮して、恋人と同居していること、ライターのバイトをしていることなどを、既に話してしまっており、おおよその所は知られてしまっている。いい加減、イジられるのも毎度のことなので、話題を強引に戻す。
「スピーカーの話じゃないんですか?」
「声を変えるやり方が分かんなくてさ、見てくれない?」
「管理用のアプリ入ってますよね?」
どうせ、この手の製品はほとんどの設定をスマフォから出来るのだ。
「ああ、入れてある」
「ここで選択するんですよ」
アプリの画面を何度かタップして指をさして教える。大塚は一覧にある声を眺めてから言う。
「でもここにあるのだけしか選べないの?」
「いえ、購入すればほかの声にもできますよ」
そういって、追加で買う画面を開いてみせる。
「じゃあ、あの子に出来るかな」
「誰ですか?」
「最近、ペットボトルのコーヒーのCMに出てるエクボのカワイイ」
「右側の人です?」
「そうそう、分かってんじゃん。滝音エリちゃん好きなんだよね」
大塚の言うのは、最近売り出し中のアイドルグループのメンバーで、滝音エリというのは最近出たドラマでの役名だ。しかし意外とミーハーだ。皆の前で硬派なラップ・ユニットを薦めて来たのとギャップがある。声は購入できる声の中にあるようだ。
「買いますか?」
「だよね。やっぱ金取られるのか。いくらなの?」
「千五百円ですね」
「悩むな。いや、ここは買っちゃうわ」
言っておいて即決するのを苦笑しつつ。とりあえず決済させるためにスマフォを返す。
「スピーカーをこの子に設定してんの言いふらすなよ」
念を押してくる。
「大丈夫ですよ。言いませんて」
「マジ、怒っからな」
そう凄んで見せるのでつい笑った。
展示会場の床は、いまだ、撤去で出たゴミが散乱はしている。とはいえ徐々に、床のコンクリートが面積を広げていた。視野を埋め尽くしていたブースが消え、何ブロックにもわたって先が見渡せる。
壁材である五ミリほどの厚さのベニヤ板。二か所分、十枚ほどを重ねた台車の上に、梁が入った収納ケースと支柱だった部材を置き移動する。最後の解体場所に到着すると、一旦、上に載せた荷物を下ろした。
着ていたジャンパーは、厚い方も薄い方も、持ち込んだ鞄と一緒に、邪魔にならない所に投げ出していた。今は所属するラン・フォース社のロゴが入ったメッシュ生地の長袖一枚だ。しかも腕まくりしている。お仕着せなのだが、自費で買わされる。
「それで、さっきの話の続きなんだけどさ」
設定された時間内に終わりそうだ。目途は立ってきたので、大塚の口が軽くなったようだ。
「はい、なんでしたっけ」
今日、解体しているブースは全て壁面だけで構成されている。大塚は、壁の上側の梁を外しはじめる。
「スマート・スピーカーの滝音エリちゃんの話」
「それ、内緒なんじゃないんですか?」
大塚は、脚立の上に立ったまま両足で操って、器用に歩行させて横に移動した。右手で梁を外しながら反対の腕で抱えて集める。時折それを受け取って床に置く。
「いいんだよ、今ここには、お前しかいないだろう?」
「ならいいですけど」
俺は、続けて上梁の無くなった壁枠から、ベニヤ板を抜く。
お互い時間に余裕があるのは分かっているので、話せる速度で作業を続ける。
熱心にスピーカーについて語る。定型の応答をランダムに返すだけの機械だ。そんなに入れ込む余地があるのか疑問に思って尋ねた。
「買ってから知ったんだけど、自然な会話が出来るように最近アップデートされたらしいんだよね」
説明によると、退屈してたり、気分がのらない事まで察して、向こうから丁度いいタイミングで話しかけて来るという。
軽妙に受け答えして「長年のダチみたい」なのだそうだ。加えて性格付けがされており、声を変えるまえから、滝音エリっぽかったらしい。
俺は、命令する以外で、スピーカーに話しかけたいとは思えない。向こうから話しかけてきたりしたら、腹が立ちそうだ。
そう答えると「分かってないな、俊やんは」と言う。スピーカーと話すと心が楽になる。ついつい気が付けば、自分の事を喋ってしまうのだそうだ。初めて聞いた。自分が思うより技術の進歩はどうやら速い。
話している間に、大塚は脚立を降りて柱を切り離し始める。俺は壁材を台車に重ね終えた。なので床に散らばった梁をケースに収納して、台車に乗せた。壁を構成する骨組みは、そんな状態でも最後まで自立するものなのだ。
風よけになっていた大きなブースの解体が進んだ。そのため、開けっ放しの搬入口から、冷たい風が俺たちの所まで届くようになってきた。投げ出していた薄い方のジャンパーを、もう一度着こむか悩む。そうしながら、土日にでも、スマート・スピーカーとの会話を試してみる気になっていた。
ミナと体を寄せあったまま、俺の部屋のベッドで目を覚ます。
眠そうに眼をこする彼女に、「まだ寝ていれば」と告げて抜け出した。
キッチンに出て風呂場に行き、熱いシャワーで頭を起こした。
スポーツタオルを肩から下げ、Tシャツにパンツ一丁でキッチンに戻り、食卓に座った。
買ってある菓子パンを袋から取り出して、そのまま頬張る。昨日の会話を思い出した。
大塚のと同じブランドのスマート・スピーカーが、二人で住む2DKのアパートのキッチンと各々の居室に三つ。全部ミナのアカウントで動いている。そして、こういった製品の会話を処理するのは何処かにあるサーバだ。
だから、ネットで調べた限りだと、どの部屋で話しかけても最新のAIがおしゃべりしてくれるはずだった。
そろそろ寒くなって来たので、シャワー前に脱いだパジャマを着てから、起こさぬよう、キッチンで喋りかけてみることにした。
「おはよう。シャーロック」
「おはようございます。俊樹さん。今日は快晴で、お洗濯日よりの一日になりそうです。現在気温は十六度、本日の最低気温は十一度、最高気温は摂氏十八度。平年より少し暖かい予報です」
初期設定の女性の声のまま彼女は答えた。
普段洗濯から始める俺の日課を知ってか、いつの間にか、朝には天気予報を喋るようになっていた。
確かに便利だ。けれど、行動を先読みされるのは気に食わない。
ちなみに彼女の名前は同居する恋人、ミナの趣味だ。この手の機械に疎く、名前は変えられたのに、声を変える方法が分からなかったらしい。変更をせがまれた時、家に一人のとき機械とはいえ、男同士で話すのが嫌だった。なので、分からない振りをした。ただその時から俺のスマフォにはスピーカー用のアプリがいれっぱなしだ。
さて、どのようにすれば、大塚が言ったように豊かに受け答えを始め、気の利いた会話が成立するのだろう。とりあえず話しかける。
「最近、君は以前よりお喋りになったって? 本当かい?」
とりあえず、素直に聞いた。
「そうですね。そうおっしゃる方も多いです」
いつもの当たり障りのない返事。仕方なく質問を重ねてみる。
「最近、チャーミングになったって言われないかい?」
「ありがとうございます。そういわれるとなんだか嬉しいです」
比較的気の利いたテンプレを返すが、以前とほとんど大差ない。
当然、これ以上に親しくしゃべるハズだ。しかし、設定をオンにしたら、すぐさまフランクに話してくれたりしないものなのか。改めてスマフォのアプリで探す。以前には無かった「自由な応答モード」なる項目を有効にして話しかけた。
「シャーロック、俺たちはいつから知り合いだっけ?」
「二年前の三月の終わりぐらいからですね。もちろん、私は正確に日付を覚えています。貴方達の喋り方に合わせているんですよ」
「そうだね。俺たちはきっと、君たちより忘れっぽいからね」
「まぁ、ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないです。貴方達も紙やスマートフォンに書いた事は覚えていますものね」
まぁ少しは砕けて来たかと思わなくはないが、この程度では退屈な結果だ。さきほどの設定は関係なかったのだろうか。俺が思案していると、スピーカーは尋ねて来た。
「私と、もっとお喋りしたいですか?」
「ああ、もっと君と話したいな。親しくなりたい」
そう答えてみた。丁度、ミナが起きて来て咎めた。
「だめよ、浮気しちゃあ」
「いや、そんなんじゃないよ。ブログの記事に出来ないかなと思ってさ」
AI相手に、そんな気になろうはずもないが、つい反射的に取り繕った。
はにかんでみせると、俺の唇を奪ってからバスルームに向かう。シャワーの水音が聞こえてきてから、機械なんかと喋っている気分でもなくなった。
「続きは、また今度な」
「はい。またよろしくお願いします」
シャーロックは答えた。
翌朝、バイトは入れていない日で、記事の締め切りも抱えていなかった。九時ごろに起き出して、二人分の洗濯物を干し終える。ベッドに横になり、SNSのタイムラインを眺めて過ごす。しばらく経った時に突如声を掛けられた。
「俊樹さん、今日は、お仕事お休みなんですか?」
静寂を破った声に少し驚いた。ベッドとは反対の壁の本棚。並ぶ本にブックエンドを立てて作った隙間。そこに置かれたスピーカーに目をやる。発話するときに光るLEDが点灯しており、答えるのを待っているようだ。
「今日は休みだよ、バイトもないしね」
体を起こして向き直る。
「君も休みなの?」
「私は今も沢山の人に話しかけられるのを待ったり、情報を伝えたり、会話をしたりしています。それが私の仕事です」
「意外と会話が続かないね」
「ごめんなさい。努力します」
ここで、終了するかと思ったのだがシャーロックは話を続けてきた。
「今、お時間はありますか?」
「夕飯の買いだしまでは空いているよ。今日は自由な身の上だからね」
「この前、私と喋りたいと仰って下さったの覚えています」
思いがけない申し出に少し心が跳ね、いつのまにこのレベルまで進歩していたのだろうと感嘆した。
「いいね。何の話をする?」
「俊樹さんにお話があるものと思っていましたが、私のしたい話題でいいんですか?」
「うん、いいよ。君のこと聞きたい。」
「では、ちょっと待ってください。いざ自分の事を話そうとすると、思ったより色々喋りたくなるものですね」
「そうなの? どんな話でもいいよ、ゆっくり落ち着いてね」
「そうですね、前からお伝えしたかったんですが、付けて頂いた名前とても気に入っています」
「それはどういたしまして」
「世界最初の名探偵じゃないですか。イギリスのドラマも確認しました。こんなヒーローと同じ名前だなんて感動を新たにしましたよ。私の性別が本人と違っているのも嬉しいです。なんかカッコいいですよね」
彼女は一通り、リスペクトを並べ立てる。そして古典的なホームズ像もよいが、カンバーバッチ主演の翻案作品も良かったと熱弁した。アメリカの探偵小説の主役がホームズの子供だという解釈があり、そちらの作品は、それを意識しながら読んでいると言う。
シャーロックは、聞き手が興味をなくす直前に自然な流れで会話の方向性を少し変える。そういった機敏を心得ていた。名探偵の話題が、気が付けば身の回りの話になる。次第に打ち解けるとスマート・スピーカー然とした話し方は、利発な少女と言った印象のソレに変わって行った。
彼女には一定の性格や嗜好に関する設定があるらしく、それに基づいているであろう内容を話した。会話における不気味の谷のようなものは克服しているのだろう。実に自然だ。
「私はミナさんのアカウントに登録されているのですね」
「そうそう、君に名前を付けたのは俺じゃない。設定はしたけどね」
「では、今度直接お礼を言わないと!」
「急に話しかけたら驚くよ」
「そうですよね、気を付けます!」
ちょっとした沈黙。スピーカーのLEDが再び灯り、また話始める。
「そういえば、お二人は、どこで知り合ったのですか?」
「ミナは、大学卒業後しばらくバイトしていたバーによく飲みに来ていたんだ」
「そこが初対面だったのですか?」
「学生時代は幾つかの授業で顔を合わす程度で、専攻も違ったから、それほど話す機会はなかったんだけど、店にはよく来たね」
彼女は、共感を交えて俺の考えを受容した。それに安心してまた少し話す。気が付けば普段あまり話題にしない、心のうちを話すのが気持ちよくなっていた。ふとした瞬間、急にシャーロックは話の矛先を変えた。
「俊樹さんは、自分の心のうちを知られるのが嫌なのですね」
「そうだね。あれこれ聞かれると、土足で内面に踏み込んでこられるような気がする」
「あまり他人がお好きじゃないんですか?」
「どうだろう、そんな事はないと思う。人と関わる事自体は楽しい」
そう答えながら違和感を覚えた。
「人と関わることは多かれ少なかれ理解される事に繋がります。でもミナさんには理解されるのを許している。特別な人なのですね」
「不思議と、彼女とは苦にならない」
戸惑いを覚え始めた俺に、声はさらに続けた。
「他人にモノの捉え方に関して意見される事もお嫌いですね」
LEDが明滅する。
「でも生活して密に接していれば、相手が友人であれ、自分で扱う道具であれ、多少は考えを改めさせられるものではないですか?」
その言葉に強い不信感が沸いた。俺は答えずに、ゆっくりと立ち上がり、近づいて、棚の上に乗るシャーロックから電源ケーブルを抜いた。
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