電気仕掛けのパノプティコン

秋吉洋臣

プロローグ


 浅草駅からすぐの吾妻橋。対岸の土手の上を首都高向島線が左右に伸びる。その首都高に上下に断ち切られて見える台形を逆さにしたビール会社の黒い建築物。屋上に鎮座する雲みたいな、巨大な金色のオブジェ。ここの景色は時間が止まったように変わらない。スマート・グラスが視界にインポーズする時刻は待ち合わせ時間ちょうどの十四時。

 こちらも向こうの岸にも桜が満開だ。なのに付き合いが長いとはいえ、仮想現実の「コーザル」で知り合った中年男性と待ち合わせだ。我ながら趣きの無い事だなと思う。

 そのまま、行き交う人々を眺める。若いカップル、シニア世代の夫婦、女子高生の一団。橋の向こうとこちらを行きかう老若男女。

 その中でも対岸から来る、意味に満ちた光を大きな瞳に宿した、意思の強そうな若い女に気付いた。細やかな黒のプリーツスカートにうっすらピンクが入ったブラウス。白い肌、流れる黒髪、ハンドバッグも黒い。幼さの残る顔立ち、高校生ぐらいだろうか。一瞬、待ち人が想定と違って、彼女であれば素敵だと思った。だが現実がそんなに甘いはずが無い。だから、話しかけられた時にはギョッとした。

「ライターの川浪俊樹さんですね」

「では、貴方がベネさん?」

 そう問いかけて、一考の上、つい付け加える。

「妹さんですか?」

「いえ違いますよ」

「じゃあ、娘さん?」

「あー、私がベネディクト本人です」

 申し訳無さそうに彼女は答えた。

「失礼ですが、今おいくつですか?」

「十八歳です。四月から大学生ですね。なにか問題でもありますか」

 屈託なく、そう尋ねて来る。最初に会った頃の彼女の年齢を逆算してつい口に出る。

「俺は小学生の君に、あんな愚痴を溢したのか」

 頭を抱えた。次の言葉を捜したが、しばらく見つからなかった。

「お気に障りました?」

「いやゴメンね。てっきり、三十代後半、若くても今年二十代前半ぐらいの同性を想像していたから」

 仮想現実の中で多くの時間を過ごした友人の正体に困惑した。

「いえいえ、お気になさらず。私も誤解を解かないどころか、意図的にそう思ってもらえるように努力していました。アバターは男性。ハンドルネームもベネディクトで男名でしょ?」

「どうして、またそんな事を?」

 溜息交じりに尋ねる。

「年上の、大人の男性が何を考えて、何を感じて悩んでいるのか。そのリアルを知りたかったんです。そう答えれば説得力あります?」

「ああ、そういう事。なるほどうん分かるよ。俺もそういう時期はあったから」

 なんとなく分かるような気はする。だが若い頃の気持ちを思い出すには歳をとりすぎた。今年で三十七になる。

「会って早々ですが、少し歩きませんか? 桜を見ながら」

 そう言って、彼女は首を今来た方に向けた。すっかり、主導権を握られた形になった。

 

 隅田川の川べりは整備された道となっていて、テラスと呼ばれ、花壇もある。普段から散歩コースとなっている様だ。まだ疑っていたので、歩きながら共通の知り合いの事を話した。

「チヅルさんが、ボドゥ・ベルを再開したらしいよ」

「チハルさんの事ですか? 久しぶりですね。挨拶がてら顔出しに行きましょう」

「ネブさんは、胃潰瘍が寛解したみたいだ」

「それは良かった。でも彼は十二指腸潰瘍じゃありませんでしたっけ?」

「ああ、そうだったね」

 その後の会話でも、こちらがわざと間違った箇所の大半を指摘した。

「そこに座りませんか?」

 彼女が指さす先には花壇の合間にベンチがあった。俺たちはそこに腰を下ろす。

 平気な風でいて俺は高校生に戻ったように落ち着かなかった。最初にベネディクトとあった十年程前の事を思い出してつい尋ねた。

「だけど、当時からご両親に随分信用されていたんだね」

「どうしてですか?」

「普通小学校の三、四年生の女の子に、制限なしで「コーザル」の使用を許可しないだろう」

「両親は知らないと思います。そっち方面には疎いんです。それに、小さい頃から、いい意味で無関心というか。私が上手く父と母を安心させていたからなんですが。学校でも優等生ですしね」

 これはこれで問題のある子に思えた。

 俺の微妙な表情の変化を読み取ったのか、次の様に付け加えた。

「安心してください。父と母が悲しむような事には利用していませんでしたよ」

 そう言われると説教もし辛い。

「分かった。ならいいんだ」

 当時を振り返って歳の割に利発すぎるように思った。俺は昔に記事にしたゲノム編集の事が頭に浮かんだ。

「トシさん、私が胚の段階で遺伝子治療を受けたのではないか疑っていますね」

 意外な問いに少し驚いた。

「いや、そんな事は考えてないよ」

「お察しの通りです。本来なら私の受精卵は出生し得ない。致死性の遺伝子疾患を抱えていましたから」

 彼女は自分の頭をコツイて続けた。

「この中の脳は、治療と称して遺伝子改変されたウェットウェアです。人工知能がインストールされているんです」

 こちらの顔を見上げて窺いながら続ける。

「我々は、既に人間の管理の手を離れて自立して遍く存在しています。貴方は若くからライターを続けてらした。既に私が出現することを検討しうる情報を得ているはずです。今までの事を思い出してみてください。きっとお気づきになります。私が何者であるかを」

 俺は口を開いたまま、次の言葉を探す。

 彼女は急に破顔してチャーミングな笑顔で言った。

「信じました?」

 とんだ醜態をさらした。口を結んで取り繕う。いつもは生真面目なベネディクトに、からかわれたと知って非常に驚いた。俺をモデルにした小説のあらすじを聞いて欲しいと言われたのを思い出す。悪い冗談だと攻めたくなったが、相手がうら若き女性だと思うと、つい甘い態度を取ってしまうものだ。

「なんだ、小説の話か。驚かせないでよ」

 一瞬、意外そうな顔してから、すまして応じた。

「ええ、そうです、小説の話なんです」

 それから、俺はミナと暮らしていた頃。十年前、彼女のヒモだった頃を思い出しはじめた。

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