第44話
月に一度美容室に行くことを、千穂は些細な楽しみにしていた。
高校生の頃からお世話になっている
カット技術に秀でた彼はとても人気があり、芸能人御用達と謳われていることもあって中々予約が取れない。
そんな彼の腕に惚れ込んでいる客は多く、千穂もその1人だった。
入り込んだ道を抜けて、ようやく目的地である美容室へ到着する。
腕が確かな桃矢という美容師は、つい先日他の美容室へと移動したのだ。
恐らく腕を見込まれて、そこのオーナーにでも引き抜かれたのだろう。
そのため、千穂は彼を追いかけてわざわざ彼の新しい勤務先へやって来たのだ。
クローズと看板が出ているのをお構いなしに、扉を開く。
お店の閉まる閉店後に、時間を縫って予約を取り付けてもらったのだ。
「南さん、いらっしゃい」
ホワイトブリーチカラーの派手な見た目とは裏腹に、彼の手つきは優しくカットはもちろんカラーも上手い。
初めて彼に切って貰った時の感動を忘れられない程、本当に腕の立つ美容師だ。
「店迷いませんでした?」
「最寄駅は変わってないし、平気」
「まじありがとうございます」
彼ほどの美容師となれば、客が彼のスキルを求めて追いかけてくるのだ。
店内は閉店後ということもあり、千穂を除けばサロンモデルの女性が1人いるだけだった。
他のスタッフが後片付けをしている中で、カットをしてもらう。
カラーは毎月同じ色で染めているため、すぐに相談を済ませてからカラー剤を塗布されていた。
「南さんまでうちに乗り換えちゃったから、オレ前の店長から恨まれそう〜」
「なんで移動したんですか?」
「ここのオーナーにはお世話になってたんすよ。だから来てくれないかって言われた時、それに答えたくなっちゃって。やっぱり結局は人との繋がりっすね」
人とは感情的な生き物だからこそ、桃矢のいう通り人間関係の積み重ねが重要になるのだ。
一般社会はもちろん、芸能界においてもそれは変わらない。
誠意を見せなければ、相手も心を開いてくれない。
対人関係と言うのはいわば鏡で、相手を大切に思えて初めて、あちらからも同じように返して貰えるのだ。
暫く間を置いてから、桃矢が再び戻ってくる。そして、千穂の髪の根元をチェックしてから満足そうに声を上げた。
「うん、綺麗に染まってそうなんでシャンプー台行きましょう」
気づけば店内には殆どスタッフが残っておらず、閑散とした雰囲気が漂っていた。
シャンプー台に横たわってから、すぐに目元には目隠しのための布が掛けられる。
「じゃあ、流しますね」
適温のシャワーが頭部に触れて、じんわりと心地良さに包まれる。
気を抜けば眠ってしまいそうな時だった。
1人の女性の声に、千穂はパッと意識を覚醒させる。
「すみません、桃矢さん宛に電話で…」
「あー……まじか。すみません、シャンプーだけちょっとお願いして良いっすか?」
「平気ですよ」
「帰るところなのにまじすみません」
一言声を掛けられた後、桃矢がシャンプー台から離れていくのが何となく分かった。
そして、代わりに女性スタッフが優しい声を掛けてくれる。
「シャンプーだけ変わりますね」
その声を、千穂は知っていた。
髪に触れる、優しい手つきも。
細い指が、頭皮に触れる感触も。
「痒いところはないですか?」
彼女の可愛らしい声色を間違えるはずがない。
自然と、涙がこぼれ落ちる。
布で覆われているおかげで泣き顔は見られなかったが、そのせいで彼女の顔を直視できない。
キュッと、シャワーを止める音が耳を掠めた。
目隠しを取られてからぼやけた視界で見えたのは、やはり千穂が求めてやまない彼女だった。
「え……」
驚いたように、美井が持っていたタオルを落とす。
泣き顔を見られるのが恥ずかしくて慌てて目元を覆っていれば、タイミングが悪いことに桃矢が戻ってきてしまった。
「美井さんまじすみません!ありがとうございました」
「いえ……」
「もう帰りですよね?また明日よろしくっす」
目は合っているのに、2人とも何も言わなかった。
正しくは、何も言えなかったのだ。
あまりに久しぶりすぎて、何と声を掛ければいいのか分らない。
衝撃の再会に、ふさわしい言葉が出て来ないのだ。
「美井さん、帰んないんすか…?」
「いや、帰ります。お疲れ様でした」
桃矢の声を聞いて、弾かれたように美井が場を後にする。
離れていく背中に手を伸ばそうとして、躊躇っている自分がいた。
彼女の反応を見て、やはり未だに恋をしているのは自分だけなのではないかと不安に駆られてしまったのだ。
ドライヤーを済ませてから、仕上げに整えて貰っている最中。
臆病な千穂はまた、遠回しにあの子のことを知ろうとしてしまっていた。
「さっきの人って、ここの美容師ですよね?」
「美井さんっすか?年下とは思えないほど技術あるんすよ!指名も多いし、うちの時期エース候補っすね。ま、オレがいるうちは簡単に譲りませんけど」
あの桃矢にそこまで言わせるほどの実力を、今のあの子は持っている。
本当に、成長したのだ。千穂の知らない間にみるみると腕を上げて、ここまで大きくなっている。
「……明日も、来ようかな」
先程の会話から、きっと美井はもう帰ってしまっただろう。
ストーカーじみた千穂の言葉を、桃矢は冗談だと思ったのか笑い飛ばしていた。
「また染めるんすか?南さん髪傷んじゃいますよ〜」
彼の言葉に返事をする気になれなかった。
それよりも、脳内には先ほどの美井の姿がこびりついて離れない。
服装は奇抜さの中に遊び心があって、見るからにお洒落な格好をしていた。
高校生の頃とは比べ物にならないくらい大人っぽくなった美井はまだ、想ってくれているのだろうか。
あの本を描くのと同時に、想いは断ち切ってしまっただろうか。
そもそも、どこまでが本当なのだろう。
あれは、あくもで物語で。
美井の実体験だなんてどこにも書いていなかった。
実際に起きた出来事をベースにした、フィクションの可能性だって十分にある。
巻末には『この物語はフィクションです』とお決まりの言葉が書かれていたのだ。
もう、諦めた方が良いのだろうか。
絶望に近い感情を抱えながら、帰るために店の扉を開く。
途端に耳に届いて来た声に、千穂は驚いて顔を上げた。
「千穂ちゃん…!」
寒そうに、壁にもたれ掛かっているあの子の姿がそこにはあった。
高校生の頃の懐かしい感情が込み上げてくる。
姿を隠しながら、コソコソと千穂は美井に会いに行っていた。
アイドルとして活動する中で、辛いことがあっても彼女の顔を見るだけで頑張ろうと思えた。
大好きだと嬉しそうに微笑む美井のことを、心の底から愛していたのだ。
屋上へ向かう扉を開けば、いつもあの子が壁にもたれ掛かりながら、座って千穂を待ってくれていた。
もう彼女にしか目がいかない。
まるであの頃に引き戻されたかのように、胸がカッと熱くなってしまっているのだ。
「美井……」
名前を呼べば、彼女の瞳には次第に涙の膜が貼り始めていた。
気を抜けば釣られてしまいそうで、千穂もグッと堪える。
「何してるの…」
「待ってた」
「寒いでしょ」
「寒いけど……千穂ちゃんに、言いたいことあったから」
手を伸ばせば、ギュッと握られる。
思い切って体を引き寄せれば、躊躇うように美井が抱きついて来た。
彼女の冷たい体を、温めるように。
腕を回して、強い力で抱きしめる。
千穂だけじゃなかった。
彼女もあれからずっと想い続けてくれていたのだと、美井の目を見れば聞かずとも分かってしまっていた。
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