第31話

 

 夜中の3時なんて本来であればとっくに眠りについている時間帯にもかかわらず、千穂は一人鏡に向かって準備に勤しんでいた。


 大きめのマスクに、長い前髪。

 顔は晒せないけれど、新年で一番最初にあの子に会えるのだ。


 それ以上我儘を言うつもりはない。

 待ち合わせ時刻の10分前に部屋を出て、外の非常階段を使って屋上へと向かう。


 一歩ずつ階段を登るたびに、緊張している自分がいた。

 好きな人と会うだけで、こんなにも胸が高鳴ってしまう。


 扉を開けば、先に到着していた彼女がゆっくりと振り返る。

 千穂を見た途端嬉しそうに顔を綻ばせている姿が、あまりにも可愛らしかった。


 「千穂ちゃんあけましておめでとう」


 もちろん同じ挨拶を声に出すことは出来ないため、メモ帳に文字を書き連ねる。


 彼女と話すために沢山書いたせいで、もうメモ帳は最後のページまで埋まってしまっていた。


 明日にでも、新しいメモ帳を買わなければいけない。


 まだ時間は少し早いため、二人で壁にもたれかかりながら朝日が登るのを待ち侘びていた。


 「千穂ちゃんは実家に戻るの?」


 頷いて見せれば、美井が「そっかあ」と声を上げた。


 「私も帰ってこいって言われてるんだよね。明日あたり帰ろうかなあ。あ、そういえばいまベランダでお花育ててるの」


 ニコニコと楽しそうに話し掛けてくれる彼女が、酷く愛おしい。

 

 彼女の言葉に、答えたかった。

 返事をして、会話を楽しみたかった。


 前髪越しではなくて、直接目を見て美井と会話をしたいのだ。


 どんどん我儘な想いが溢れてくる。


 好きな人が、同じように自分を好きでいてくれて。


 すぐ目の前にいるのに、答えられない。


 「ああ、好きだな」と彼女を見るだけでそんな思いに駆られてしまうのだ。


 やっぱりこの子と出会えて良かった。


 たとえ離れていても、仕事がどれだけ辛かったとしても。


 美井との日々を思い出せば、いくらでも頑張れるような気がした。


 少しずつ外が明るくなり始めて、二人とも立ち上がってからフェンスに近づく。


 初日の出が完全に上がるのを待っていれば、どこか真剣な声色で美井が言葉を漏らした。


 「友達がね、前髪の長いおばけが…千穂ちゃんが芸能科寮に入っていった所見たって言ってたの」


 ドクンと、心臓が跳ねるのが分かった。

 必死に平常心を保っているフリをして、彼女の方を見やる。


 「千穂ちゃんは、誰なの…?」


 言うならば、今がチャンスだろうか。

 どうしようもなく、正体を打ち明けてしまいたい衝動に駆られる。


 「私も好きだよ」と言ってしまいたかった。

 抱きしめて、同じ想いだよと告げてやりたかった。


 「私、千穂ちゃんの顔がどんな人でも気にしないよ?本当に千穂ちゃんのことが好きで、大好きで……」

   

 もう、全てを投げ出して彼女にしがみついてしまいたい。

 瞳からじわじわと涙が込み上げ始める。


 何度も声をあげてしまおうかと、口を開閉してしまっていた。


 「千穂ちゃんがどんな顔でも嫌いにならないから…本当の千穂ちゃんを見せてよ」


 涙で視界が滲む中。

 千穂は、自身のポケットから小さなメモ帳を取り出した。


 「……ッ」


 声を出してしまわないように自分の感情を必死に抑え込みながら、空いているページにシンプルな文字を書き殴る。


 美井にその言葉を見る暇は与えずに、メモ帳ごと彼女の手に無理やり握り込ませた。


 心の中で、ごめんと謝罪の言葉を述べる。

 その言葉すら、彼女に伝えられない。


 左手で美井の目元を覆ってから、千穂は身に付けていたマスクを外した。


 キラキラと、辺りが眩しい明かりに包まれる。

 朝日に照らされながら、千穂は不器用ながらに彼女の唇に自身のものを押し当てた。


 一瞬だけ触れたそれは、酷く柔らかかった。


 いまだ震えている手で、すぐにマスクを付け直す。


 「え……」


 頬を赤く染め上げながら放心状態の美井を置いて、千穂は慌ててその場を後にした。


 我慢していた涙がひっきりなしに零れ落ちて、マスクがどんどん水浸しになっていく。


 ようやく千穂が声を上げたのは、階段を駆け降りて、自身の部屋に到着した時だった。


 「……好き」


 靴も脱がずに玄関口でしゃがみ込みながら、静かな室内で彼女への想いを溢れさせる。


 言いたくて堪らなかった言葉は、結局彼女の前で声にすることが出来なかった。


 喉がヒリヒリと痛んで、涙が溢れて止まらない。

 

 一体、何が正解だったのだろう。

 

 全てを投げ捨てて、あの子に身を投じれば良かったのだろうか。


 気にせずに打ち明けて、あの子の憧れの人を奪い去ってしまえば良かったのだろうか。


 どこで間違えたのだろう。

 どうすれば、納得のいく未来を送れたのだろう。


 どれだけ考えても、もう遅いと言うのに。

 

 先ほど触れた、唇の感触が消えてくれない。

 ジンと熱くなったそこは、いつまでのあの子の感触を覚えているのだ。

 

 大切で、大好きな美井とは、両片想いのまま終わってしまう。


 杏は千穂が以前の様子に戻ったと言っていたけれど、全然そんなことはない。


 美井に触れてしまったせいで、こんなにも往生際が悪く、自分の感情を制御できない。


 恋を知ったせいで、もうあの頃の千穂には戻れないのだ。

 

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