第20話
電車内の人は次第に減ってゆき、とうとう座席に座っているのは千穂と美井の2人だけになっていた。
並んで腰をかけているというのに、その距離は遠い。約1人分ほど空いたスペースは、今の2人の距離を表しているような気がした。
郊外の方面に走っていることもあって、電車の窓から見える景色は都会から自然なものへ移り変わっていた。
静かな車内で、当然のように2人の間に会話はない。
隣にいるのに、美井が酷く遠いところにいるような気がしてしまう。
素顔を隠していないと、彼女とは会話すらろくに出来ないのだ。
「……美井ちゃんのお母さん、料理めちゃくちゃ上手だね。すごい美味しかった…あんなに綺麗なお母さん羨ましいよ」
「うん…伝えとくね」
こちらが声を掛けても返ってくる返事は、一言二言程度。
緊張しているのか、気を遣っているのか。
いつも屋上では美井のほうが饒舌だというのに、これでは立場が逆転している。
千穂の方が、美井に楽しんでもらいたくて一生懸命になってしまっているのだ。
せっかく筆談をせずとも会話が出来るチャンスなのに。
しつこくするあまり嫌われたくなくて、それ以上何も言えなくなってしまう。
自然な笑顔を、前髪越しじゃない視界で見たいのに。
こんなにも、千穂は意気地なしだっただろうか。
結局あの後、美井の笑った顔は一度も見られなかった。緊張したように彼女の顔は強ばり、ろくに目も合わない。
五十鈴南の姿では、あの子と友達にはなれないのだ。
憧れの人だからと、それを言われてしまえば何も言うことができない。
溜息を吐きながら、千穂は屋上へ行くために普通科校舎へ向かっていた。
前髪越しの見えづらい景色にも、最近では慣れてきてしまっている。
正体を隠して、お化けのような姿でなければ笑顔を向けてもらえないなんて、本当におかしな話だ。
沈んだ気分をあげようと空を仰げば、生い茂った木の枝に猫が座っていることに気づいた。
「ニャーン」
高いところで日向ぼっこをしているのかと思ったが、それにしては鳴き声がどこか切ない。
通り過ぎようとするが、段々とヒートアップしていく鳴き声に、足を止めてしまっていた。
「降りれないの…?」
自分で登ったはいいものの、あまりの高さに怖気付いて降りられなくなってしまったのだろう。
辺りを見渡すが誰もいない。
千穂が助けてあげなければ、この子はずっとあの場所にいることになるかもしれないのだ。
木登りなんて生まれてこの方したことがない。
運動神経は悪い方ではないが、足場の悪い所でバランスを取るのは中々に難しかった。
「うわっ…」
ズルッと足を滑らせて、そのまま地面に叩きつけられる。
まだあまり高いところではなかったため怪我はしていないが、疎い傷みに顔を顰めていた。
左足をさすっていれば、あれほど鳴き声をあげていた猫が颯爽と木から飛び降りている。
そして蹲っている千穂を尻目に、軽快にどこかへ走り去ってしまった。
「は…?」
何のために痛い思いをしたのかと、やるせない想いに駆られてしまう。
自分で降りられるなら最初からそうして欲しい所だ。
いまだ蹲っていた千穂に、誰かが手を差し伸べてくる。
顔をあげれば、そこには心配そうにこちらを見つめる美井の姿があった。
「大丈夫?」
彼女の手を取ってから、ゆっくりと立ち上がる。
親指と人差し指で輪っかを作り、大丈夫だと意思を伝えれば、ホッとしたように彼女が胸を撫で下ろす。
「良かった…落ちる所が見えて、怪我したらどうしようって…」
昨日とは打って変わって、こちらに声を掛けてくれる姿。
千穂をしっかりと見据えて、自然体な姿で笑みを向けてくれる。
昨日、この顔が見たくて仕方なかった。
彼女の声が聞きたくて仕方なかった。
千穂ちゃんと、呼ぶ姿をずっと求めていたのだ。
だからこそ、あんなにももどかしくて堪らなかった。
ぶわりと、胸の奥底から何かが込み上げてくる。心臓がギュッと鷲掴みにされてしまったかのように苦しくて、熱ってしまう。
「千穂ちゃんのそういう優しい所、本当好きだよ」
自分でも、頬が赤らんでいくのがわかった。
必死に誤魔化そうとしても、抑えられない。
以前の、スポーツジムで交わした杏の言葉を思い出す。
『まあ、千穂もいつかくるって。好きすぎて、心臓が熱くなる時が』
あの時笑い飛ばしていたけれど、つまりこう言うことなのだろうか。
彼女を前にすると、心臓が早く鳴り出してしまう。
笑顔を見せて欲しいと…楽しそうにしている姿を求めてしまう。
もっと話したい、もっと知りたい。
この子を、独り占めしたいと…そんなことを考えてしまうのだ。
今まで抱いていた独占欲も、執着も。
全て美井への恋心に繋がっていたことに、千穂はようやく気づいたのだ。
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