第14話


 後悔後先に立たずとは、まさに今の千穂の心情を指しているだろう。


 美井を守るために必死になっていたあまり、千穂はあることを失念していたのだ。


 あの子が屋上に来ていたのは、同室者とトラブルが起きていたから。

 

 つまりそれが解決してしまった今、もうやってくる理由がない。


 会う理由が、完全に無くなってしまったのだ。


 そんな至極当然な理論に気づいたのは、バラエティ番組の撮影中。


 ゲストとして出演させてもらったというのに、掻き乱された心情では気の利いたコメントを返すことが出来なかった。


 「……私、アホなのかな」


 以前杏に指摘されたが、薄々自分でも認めざるを得ない。


 あの行為が間違っているとは思っていない。

 美井が苦しんでいたのだから、手を差し伸べて当然だった。


 それなのに会う理由が無くなって焦っている自分に、軽蔑してしまいそうだ。


 撮影が終わってから、控え室で私服に着替える。

 崩れた前髪を直していれば、扉の向こう側からノックする音が聞こえた。


 「南ちゃんいる?」

 「今開けます」


 聞き慣れた女性の声に、すぐさま立ち上がって扉を開く。

 50代とは思えないほど綺麗な容姿の彼女は、今年で芸歴40年を迎える大女優。


にもかかわらずちっとも気取っていない性格から、バラエティ番組からも度々出演オファーが来るほどお茶の間で愛されている。


 千穂の憧れの女性である綾瀬あやせ椿つばきが、わざわざ足を運んできてくれたのだ。


 彼女は元アイドルということもあり、自身と経歴が似ている千穂を酷く可愛がってくれていた。


 「南ちゃん、今日元気なかったけど何かあったの?」

 「いえ、ちょっと……友達のことで」

 「あら、そう。仕事のことだったら相談に乗ろうと思ったんだけど…」

 「心配掛けてしまってすみません」

 「いいのよ。また今度ご飯行きましょう」


 ニコリと微笑んだ彼女は、母親ほど歳が離れているというのに気を抜けば見惚れてしまいそうなくらい綺麗だった。

 

 綾瀬椿は本当に美しく、国民であれば皆が知っている女優だ。


 千穂もいずれは彼女のような大女優になりたいと思っている。


 いまはマルチに活躍しているが、あわよくば女優という肩書きでやっていきたい願望があるのだ。


 そのためにも、やはり仕事に集中しないといけない。


 完璧に仕事をこなして、周囲の期待に応えるのだ。

 それが南にとっての幸せで、そのために努力をすることだけを目標に生きてきたのに。

 

 こんな風に、特定の誰かに心を掻き乱されて感情的になってしまっている。

 理性的な判断が出来なくなってしまっているのだ。






 長く続いている人気シリーズドラマのオーディションでさえ、ここまで緊張はしなかった。

 バクバクと煩いほど大きく鳴る心臓に、そっと手を当てる。


 扉の前で、千穂は立ちすくんでしまっているのだ。


 もし、扉を開いた先に美井がいなかったら。

 大いにあり得る可能性に、すっかり怖気付いてしまっている。


 撮影を終わらせてから、わざわざストレートアイロンで前髪の巻きを取った後に、制服に着替えてここまで足を運んできた。


 もしいなければ、潔く諦めよう。

 そう決意するが、そもそも何に対して諦めようとしているのかもよく分からない。


 こんなにザワザワと心を掻き乱されているのは、人生で初めてなのだ。


 大きくため息を吐こうとすれば、突然肩を叩かれる。


 驚きで口元を押さえながら振り返れば、そこには目当ての彼女の姿があった。


 「入らないの?」


 緊張していた千穂とは対照的に、美井はいつも通りケロッとしている。


 何か違う点をあげるとすれば、彼女の唇に可愛らしいグロスが塗られていることだろうか。


 授業終わりに来ているからか、屋上で会う美井はほとんどすっぴんに近いのだ。


 戸惑いつつ、ポケットからメモ用紙を取り出してから『なんでいるの?』と書いて渡せば、美井が焦ったような声を上げた。


 「来ちゃダメだった…?」

 『だって、もう同室者の子とトラブルも解決して…ここにくる理由ないでしょ』


 少し雑に書いた文字を眺めながら、美井はキョトンとした表情を浮かべている。


 そして、こちらの気持ちなんて知らずに素直な想いをぶつけてくるのだ。


 「だって、千穂ちゃんに会いたいから」


 喉の奥から変な声が漏れそうになって、必死に堪える。

 ここまではっきりと、そんなふうに言われるとは思わなかったのだ。


 「ここに来たら、千穂ちゃんに会えるでしょ?」


 純粋で、他意のない彼女の言葉。

 彼女にとっては何も特別な感情などない、社交辞令のような言葉かもしれない。


 それでも、千穂は頬が赤らんでしまいそうだった。先程とは違う意味で、心臓が高鳴っている。


 キュンと、そんな擬音がなりそうなくらい胸がときめいている。


 これはおかしい。

 こんな感情、今まで知らなかった。


 はじめて抱いた感情に、戸惑いしかない。

 美井と会うと、いつもこうして心が乱されてばかりいる。


 それでも、会いたいと思ってしまうのだ。

 感情の制御が効かなくなる恐怖より、彼女に会いたいという願いの方が遥かに上回ってしまっていた。

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