第11話
せっかく仕事が早く終わったというのに、今日はあいにく土曜なため授業がない。
学園まで帰る途中の車内で、楽しそうに笑っている家族連れやカップルの姿が窓から見えた。
休日だから、皆大切な人とどこかへ出掛けているのだ。
思い返してみれば、休日だからと遊びに行った記憶は殆どない。
家族との仲は良好だが、仕事が忙しくろくに実家にも帰れていないのだ。
もちろん友達は殆どおらず、恋人だっていたことがない。
普通の休日というものを、千穂は知らないのかもしれない。
土曜日なのだから、きっとあの子はいないと分かっているというのに、寮の自室に戻った千穂は制服に着替え直していた。
もしかしたらいるかもと、そんな僅かな可能性に縋ってしまっている。
クルンと綺麗に巻かれていた前髪を、ストレートアイロンでわざわざ真っ直ぐにしてから、ワンサイズ大きいマスクをつける。
「…こわ」
改めて鏡で見ると、こんな怖い風貌の女性によく美井はあそこまで楽しげに話せるものだ。
人の見た目をそこまで気にしない性格なのか、ただ単に美井が優しいからかもしれない。
その優しさが、千穂は一緒にいて心地良いのだ。
だからこそ、そんな美井を放っておくことができなかった。
屋上の扉を開いて、千穂は思わず言葉を失っていた。
自分の中でここまで凶暴的な感情があったことに驚きながら、慌てて美井の元まで駆け寄る。
私服姿で、美井はもはや定位置となった場所にしゃがみ込んでいたのだ。
同じ目線になるように屈みながら、力強く彼女の両肩を掴む。
「……ッ」
口を開こうとして、喋ってはいけないことを思い出す。この子は五十鈴南のプライベートには絶対に踏み入れようとしない。
千穂の正体が南だと分かってしまえば、間違いなく千穂を避けるようになるだろう。
今までの彼女の反応から、そうなることは明白だった。
もどかしさを必死に堪えながら、千穂はスカートのポケットからメモ帳を取り出して、そこにボールペンで書き殴った。
『何で泣いてるの』
いつもニコニコと楽しそうに笑っている彼女が、大粒の涙を溢れさせて、涙を零れ落としている。
悲しそうに、次から次に涙の雫を溢してしまっているのだ。
ハンカチで拭ってやっても、一向に涙が止まる気配はなかった。
「同室者の子と喧嘩して…」
やっぱり、この子は同室者と上手くいっていないのだ。
小さく体を丸めさせている彼女の体を、咄嗟に抱き寄せていた。
落ち着かせるために、背中をトントンと叩いてやる。
何か暖かい言葉を掛けてやりたいのに。
安心させるような言葉で、笑顔にさせてやりたいのに。
ギュッと下唇を噛み締めながら、ひたすらに背中を叩いてやることしか出来ないのだ。
「……前から、あんまり仲良くなくてさ…その子すごく頭良くて…でも第一志望の頭良い高校は落ちちゃって、うちの高校に来たんだって」
震える声で紡ぎ出される言葉を、聞き逃さないように耳を傾ける。
千穂のために、美井は勇気を出して打ち明けてくれているのだ。
「だから、あんまり勉強しない私を良く思ってないみたいで…南ちゃんの推し活してたら小言言ってくるの。結構言い返してたんだけど、それでも絡んできて…うざいから、いつもここに逃げてた」
仲良くない同室者から逃れようと、この場所に身を潜めていた。
部屋に帰りたくないからと、わざわざこんな所で時間を潰していたのだ。
「けど、今日は……美容師の夢とか、私の友達のこととか…めちゃくちゃ悪く言い出して、許せなくて…それに、南ちゃんのこと……」
悔しそうに、彼女が声を詰まらせる。
急かさずにゆっくりと、美井の心が落ち着くのを待っていた。
また一つ、大きな粒が美井の瞳からこぼれ落ちた。
「女のアイドル推してるとか気持ち悪いって……レズなんじゃないかって、襲ったりしないでよって言ってきて……めちゃくちゃ腹立って……」
純粋なこの子をこんな風に傷つけられて、平気なはずがなかった。
抱きしめている力を、そっと解く。
メモ帳に書いた文字は、怒りからいつもより濃くなってしまっていた。
あんなにも純粋な憧れを蔑ろにされて、傷ついているこの子を放っておけないのだ。
『私が話しつけるよ』
書き連ねられた文字を見て、美井が驚いたように目を見開く。
「でも…」
『その子って、おばけ苦手?』
脈絡のない言葉に、美井が不思議そうに首を傾げている。
記憶を張り巡らせているのか、目を瞑りながらぽつりぽつりと答えてくれた。
「たぶん…私が前ホラー映画をリビングで見てたら、すごく怒ってた…そういえば、うちの学校でお化けが出るって噂…まあ、千穂ちゃんのことも、すごく怖がってたよ」
だったら、好都合だ。
こちらだって立場があるのだから、真正面からぶつかったりはしない。
あちらが卑怯な手を使ってくるのなら、こっちだってそれ相応のやり方で対応させてもらうだけだ。
もう高校生なのだから、第三者が二人のいざこざに口を挟むべきではないと分かっている。
しかし一方的にやられているこの子を放っておけないのだ。
優しい彼女を守りたいと、助けてあげたいと思ってしまったのだから仕方ない。そうやって自分自身を納得させていた。
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