第6話
体力づくりは勿論、スタイルの体型維持を目的に、千穂は週に一度のペースでスポーツジムに通っていた。
ステージで笑顔を浮かべながら歌って踊るというのは、想像の何倍も体力を使う。
それに、万が一何かあった際に自分のことは自分で守れるだけの力が欲しいのだ。
誰かに守られるだけの存在なんてまっぴらごめんだった。
可愛げのない女と言われてしまいそうだが、千穂は自分のことは自分で守れるだけの力を付けたいと思うし、誰かに依存しないと生きていけないなんて絶対に嫌だと思ってしまう。
購入したミネラルウォーターを補給しながら、少しずつ呼吸を整える。
スタジオでボディコンバットのプログラムを受講したおかげで、すっかりと体は疲れ切ってしまっていた。
「おつかれ、なんか今日荒れてない?」
声を掛けられて、そっと顔を上げる。
グレーのシューズをイエローの靴紐で縛っている足元は、何度も見慣れたものだった。
スポーツジムで度々会うたびに、
友達の少ない千穂にとって、杏は数少ない友人の一人だ。
彼女は千穂と同じ桜川学園に通っている生徒で、普通科に所属しているらしい。
当然学内で会うことはなく、ここでだけ会う関係となっていた。
千穂がアイドルであることを知っていると言うのに、普通の女の子として接してくれる杏との関係は、割と心地よいものだった。
「学校で私のファンの子と、ちょっとだけ接点を持つようになったの」
「へえ、珍しいね」
「まあ正体は隠してるんだけど」
おばけのような格好で校内を彷徨っていたくだりから説明すれば、杏がおかしそうに笑い出す。
側から見れば、きっと皆同じような反応を示すのだろう。
「なにそれ、その美井って子を揶揄ってるの?」
「まあ、そのつもりだったんだけど…」
「千穂の方がペース乱されて、イライラしてたんだ」
確信的部分を遠慮なく指摘され、押し黙ってしまう。
アイドルの五十鈴南相手でも、彼女は容赦なく正論をかましてくるのだ。
本人曰く、芸能人には微塵も興味がないと言う。南のことも、全く知らなかったと言うのだから驚きだ。
「あんまり虐めないであげなよ?」
「いじめてないし…!大体、意味わかんなくない?私のこと好きなのに、いざ目の前にしたらスルーだよ?何考えるんだか…」
「私もアイドル好きになったことないから知らないよ。そんなに気になるなら、その子に聞けばいいじゃん」
ど正論な発言に、言い返す言葉は何もなかった。
杏は良くも悪くもサバサバしているが、だからといってドライなわけでもない。
スポーツジムに通っているのも、大切な人を守るために力を付けたいと以前口にしていたのを覚えている。
こっそりと教えてもらった話だが、その相手に長年片想いしているらしい。
「杏と言い、美井といい…よく一人の人間にそんなに執着できるよね」
「千穂って時々サイコパスなのかなって思う発言するよね」
「そんなことないでしょ……」
「まあ、千穂もいつかくるって。好きすぎて、胸が……心臓が熱くなる時が」
今まで一度たりとも、そんな経験はしたことないため、杏の言葉がちっともピンとこない。
感情的になって、誰かに想いを馳せる自分なんて想像出来なかった。
くだらないと、杏の言葉を聞き流してしまっていた。
スポーツジムの帰りで体は疲弊しているというのに、自然と足があの場所へ向かってしまう。
時刻はもう19時を過ぎたあたりで、流石にいないだろうと思いつつも、気になってしまっているのだ。
どうしてあの時南を無視したのか、その理由を聞きたかったのかもしれない。
屋上に足を踏み入れれば、もはや定位置となった場所に彼女の姿はあった。
名前を呼ぼうと口を開いてから、声を出してはいけないことを思い出す。
側まで近づけば、おばけのような格好の千穂を見て、美井は驚きの声を上げた。
「うわぁっ…!千穂ちゃんか…夜に見るのは流石に心臓に悪いよ」
促されるままに彼女の隣に座ってから、ポケットから小さなメモ用紙を取り出す。
空いているページに『こんな遅くまで何してるの』と書いてから、美井に渡した。
「推し活だよ。南ちゃんの新作MV見てたら遅くなっちゃって…ていうか、一昨日南ちゃんがここに来たの!あの後千穂ちゃんが帰ってすぐに現れて…めちゃくちゃびっくりした……」
やはり、美井は千穂相手だと饒舌だ。
普段の彼女を知らないため、一体どちらが本来の彼女なのだろうと疑問を抱く。
南相手と全く違う反応を示す美井は、表情がコロコロ変わって可愛らしい。
こちらの方が、彼女の魅力を最大限に引き出しているように感じた。
「南ちゃんのプライベートに侵入とか絶対したくないから、慌てて屋上出たの」
『声かければ良かったじゃん』
「無理無理!ていうかマナー違反だし。そりゃあ私だって南ちゃんのプライベート姿見たいよ?同じ学校だし…いないかな〜って探しちゃうけど、いざ目の前にしたら逃げちゃうよ」
筆談での会話だと言うのに、美井は酷く楽しげだった。
千穂の文字をしっかり読んでから、嬉しそうに返事をくれる。
すぐ目の前に、いるというのに。
今目の前にいるのが南だと明かせば、また同じように逃げてしまうのだろうか。
好きすぎるからこそ、美井は南から距離を取ろうとしたのだ。
どうしてあの時逃げたのか、その理由が分かっただけでも満足だった。
辺りが暗いせいで、美井のスマートフォンの画面がやけに眩しく感じる。
相変わらず、そこには南のライブ映像が映し出されていた。
本当に、この子は五十鈴南が好きなのだ。
しかし推し活と言っても、美井がすることと言えば五十鈴南についてスマートフォンで情報収集をするくらいだ。
歩いて5分もない場所に寮があるのだから、そこでくつろぎながら推し活する方がよっぽど快適だろう。
コンクリートの床に長時間座っていれば、腰も悪くなってしまう。
思ったままに文字を連ねれば、美井の表情が一瞬だけ強張った。
「ちょっとね……」
はぐらかすように、美井は笑みを浮かべていた。
一体、何を隠そうとしているのだろうか。
疑うように彼女の顔をジッと眺めているうちに、ふとあることに気づいた。
誰なのかは分からないけれど、以前どこかでこの顔を見たような気がするのだ。
自然と浮かんできた既視感に、無性に違和感を覚える。
しかしどれだけ考えても、その違和感の正体に辿り着くことはなかった。
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