12匹目 犬


 長い夢を見た。

 いや、夢なのな現実なのか。それすらも曖昧な長い夢。


 明るい笑い声と、寂しそうな泣く声。

 元気に走り回る賑やかな昼間と、深い眠りで静かな寝息をたてる真夜中。

 おかえりと抱きついてくる暖かさと、みな捨て子であるという埋められない孤独感。


 全てが全て、長い夢。

 今も、これもきっとその夢の一部。


 実際に体の感覚はないし、頭もぼっとして視界もぼやけている。

 どこに向かってるのかなんて自分でもわからない。

 ただ心向く方へ、懐かしい方へと足が向かっていた。


 迷子が家に帰る様に気がつけば教会の中に立っていた。


「おかえり、フェイ」


 語りかけられてゆっくりと顔を上げる。

 初めて見たステンドグラスは荒れた教会で宝石のように輝いていた。


 そこに彼女はいた。

 仮にも神に仕えているはずなのに彼女はうっすらと笑顔を浮かべながらステンドグラスに描かれている神に背を向け、祭壇の机に腰掛けている。


「シスター…?」

「ええ、そう。貴方が来るのを待ってたわ」


 体は右半身が大きく削られている彼女は神秘的な光の中で静かに微笑みかける。

 多くの疑問は浮かんできたが、消えていった、どうせ夢なのだ。なんでかなんてどうでもいい。


「みんな、私が食べちゃった」


 祭壇から降りて、彼女はゆっくりとこちらへと歩いてくる。バランスが悪く歩きにくそうだった。


「みんなのとこ、守りたかったのにごめんね、誰も守れなかった」


 血塗れの彼女は左手を伸ばし、頬に触れようとする。思わずそれを避けてしまった。


「貴方達さえいればよかったのに、ごめんなさい」


 シスターは震えて泣いていた。

 こんな夢、見たくないな。もっと明るくて楽しい夢を見ていたいのに。

 泣いているシスターが気の毒で、慰めようと手を伸ばしたが気がついてしまった。


 祭壇が血塗れであることに。


 シスターが乗っていた机があってよく見えないが、水溜りの様な血がそこにあるのが見えた。

 そして、そこには。


「シスター、アンはどうしたの?」

「アン?」


 祭壇に転がり落ちていたのは桃色の眼球だった。

 アンの瞳の色だ。忘れるわけがない、蝋燭の光を受け儚げに揺れるあの瞳。それが血溜まりに落ちていた。


 泣き終わらないシスターは顔を上げて言う。


「誰の事?」


 血が一瞬で煮えたぎるのを感じた。

 今までに感じたことのない程の怒りで頭が真っ白になる。


 脳裏にアンとの記憶が蘇る。アンとの約束が蘇る。「フェイも私を独りにしないでね」と言って手を握り合った彼女はもういない。

 喰われたのだ。庇ってきた者に。

 喰われてしまった、


「ああああああああああああ!!」


 喉を張り盛んばかりの叫び声をあげると、同時にシスターの体は押し倒された。


 大きな、大きな黒い犬がそこにいた。

 黒い毛並みは太陽の元の影よりも濃く、大きな牙は光を反射することなく毛と同じような黒で塗りつぶされている。


 犬は床にシスターの体を押し付け彼女の首に牙を立てている。

 牙と牙の隙間から唸り声が漏れ、落ちてしまいそうな底無しの黒い目でこちらへを見ている。まるで合図を待っているかのように。


 一瞬で燃えたぎった怒りは一瞬で冷め切ってしまった。初めて見たはずのこの黒い犬を知っている。こいつを何度も僕は見たことがある。


 ふとあの時のシスターの言葉を思い出した。


『私は、私は違うのよ。私の中に化け物かいてそいつの仕業なのよ。私じゃないの。私のせいじゃないの。

きっと、きっと、


 メアリの首を抱くシスター。

 その傷口は獣に食われたかのようにギザギザだった。


「あ」


 震える手を見据える。


「ああ」


 何故先程食い千切られたはずの左腕があるんだ。


「あああああ」


 答えは一つしかないじゃないか。


「僕も化け物だったのか」


 じゃあ、僕も今まで人を殺してきたのか。

 お腹が空いたと人の命を食い物にしてたのか。

 いつだ。いつから僕は人でなくなった。

 いったい、僕はどれだけの罪を重ねきたんだ。


 わからない。わからない。わからない。


 いや、わかろうとしなかったのか。


「や、やめろ…」


 シスターの首から血がドクドクと流れ始めている。シスターは苦しそうにこちらを見て、何か言いたそうに口をパクパクと開く。

 フェイは怯えながらも大きな犬にそう言った。


「わかった、わかったから、シスターを殺さないで。もう、これ以上、誰もー」


 ーーブチッ


 犬は容赦なくシスターの首を噛みちぎった。

 胴体と別れた首からタラタラと止めどなく血が流れ、床を濡らした。

 犬はさも興味がなさそうにもぎ取った首を口から離す。ドサっと首が落ち、教会は静寂に包まれた。あるのはフェイの荒れた呼吸音、それだけ。


 呼吸の音もしない大きな犬はゆっくりと音も立てずにフェイに近づく。


 広がる血溜まりを見ながらへたり込んだフェイの目の前に漆黒の牙が剥き出しにされる。

 犬はフェイの目を見据え唸り声をあげた。


 血生臭い臭いが鼻についた。

 シスターの血の臭い。


「…食えよ、僕のことも」


 フェイはその目を見つめながら言った。

 白目もない、黒一色の不気味な眼差しはただフェイを写すだけで何も語ろうとはしなかった。


 どれぐらいそうしていただろう。

 しばらくすると犬はそっぽを向き、フェイの影へと沈むように消えていった。


「驚いた、あんた蟲だったのね」


 振り返るとマリがこちらを見ていた。その後ろにはディースとロイもいる。

 彼らは蟲を狩る蟲だと言った、ならばその対象にフェイは含まれるだろう。


「僕の事も殺すんですか」

「あー私はそれでもいいんだけどね、こいつらが多分許さないんだろうな」


 マリは顎に手を当てながらちらりと後ろの2人を見た。


「フェイさん、あなたはまだ蟲としてそこまで『成長』してないっす。なのでこれから二つの選択肢があるっす。

 一つは蟲を狩る『蟲狩り』として俺らと一緒に来てもらうか。

 もう一つは俺達と一緒に蟲狩りの本部に来てもらうっす。そこでフェイさんの寄生蟲を分離して普通の人間に戻ってもらうっす」

「戻れるんですか?普通の人間に?」


「はい。『成長』して食欲を制御しにくくなった蟲ー今回ならシスターっすねーはまず本部に連れていく事自体が難しいので取られない手段っすけど、フェイさんはまだ食欲を制御できるので人間に戻ることは可能っす」

「ここで喰われるって選択肢も忘れないでね」


 マリはボロボロになったロイの肩に腕を置く。痛みとマリの言葉にロイは顔をしかめる。


「救える命は救うっす、マリさんも蟲狩りなんっすからそこはわかってくださいっすよ」

「はいはい」

「…喰ってください」


 フェイの言葉に3人は揃って怪訝そうな顔をした。


「今更、人間に戻ってどうするんですか。僕は、僕は自分の家族を殺してるんですよ。今更普通の人間に戻って普通に生活なんてできるわけないじゃないですか。僕はもうここで終わりにしたい。だから、喰ってください」


 縋るような目で3人を見上げた。

 マリはそんなフェイを見て、無言でナイフを取り出した。


「おい」


 ディースはマリを押し退け前へと進み出ると、素早く踏み込みフェイを蹴り飛ばした。

 体が宙に浮いた途端、大鎌が顔を掠める。ハラハラと長い前髪が落ち、それが床に付くと同時に腹を強くディースに踏み付けられる。

 見えやすくなった視界でディースを見上げると、顔の真横に大鎌の刃が落とされ、条件反射でひっと息を飲んでしまった。


「これは夢じゃない現実なんだ。死んで自分がやったことから逃げようだなんて夢見てんじゃねぇぞ。

 お前が蟲になったことも、ここで喰われないことも不運かもしれない。だが、罪は罪だ。それを背負って生きるしかない、蟲が簡単に死ねると思うなよ」


 視界が滲んでその浮世離れした顔がどんな表情しているかも見えなかった。


「いい加減、夢から醒めろ」


 腹からディースの足が退き、フェイは体を折り曲げ子供のように泣きじゃくった。


 ステンドグラスからの光が強さを増し、教会の惨事を照らしだす。

 夜は息を潜め、代わりに太陽が昇る。


 醒めない夢が明けた。

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