9匹目 死神の子供


 フェイが教会に来たのは10年前、6歳の頃だった。それまでは母親に連れられ、何かから逃げるように街を転々としていたのをうっすら覚えている。


 母親の顔は今では霞がかかってはっきりと思い出せないでいるが、いつもごめんねと謝りながらフェイの手を引いていた。

 この街からも出て行く準備をしてくると言って母はそのまま帰ってこなかった。幾日も待ち衰弱しきったフェイを見つけたのがシスターレインだった。

 シスターはフェイに何があったのか何も訊ねずに、教会に預かり育ててくれた。決して贅沢とは言えなかったが、大勢の兄弟達と心優しいシスターとの暮らしはフェイにとって幸せであったのは確かだった。


「建て壊し…ですか?」


 真夜中に細い光の筋が目に留まった。

 光の筋はレインの部屋から漏れており、中を覗くとレインが困惑の表情で受話器を耳に当てていた。


「で、でも、この教会は地区で唯一の物ですし、何人もの子供達が…」


 怒鳴り声が受話器から聞こえた。この声は知っている。教会の、正しくは教会の土地の主ーーバーンズだ。

 たまにやって来ては子供達を汚いものでも見る様な目をするあの陰気な男だ。会話の内容までは聞こえないが、だいたい言っていることはわかった。もともと慈悲の心なんて興味のない男だ。儲けもでない教会など疎ましかったのだろう。


「フェイ、何をしているのですか?」


 気がつけば、レインは電話を終え部屋から出ようとしていた。フェイは何と言えばいいかわからず、言葉をしばらく探していた。それを察したレインはいつもの笑顔で言った。


「あなたは心配しなくていいのですよ」

「で、でも」

「あなたもすっかり大きくなりましたね。でも、まだまだ子供です。心配なんてしなくていいのですよ」


 変わらない声音と、変わらない笑顔。まるでさっきまでの電話は嘘だったかのような様子のレインに対して初めての感情が芽生えた。


「私が何とかしますから」


 そういう言うと背を向けて歩き出した。

 レインはいつだって1人で教会を切り盛りしていた。大きくなるにつれ、それがいかに大変なことかを理解しだした。しかしそれでも文句一つ言わず、笑顔を絶やさないレインはまさに聖母のようでもあった。


 その聖母様に違和感を感じた。


 絶えない笑顔に、何故か心が穏やかになるどころか掻き乱された。

 引き止めるべきだろうか、聖母様の本心を知るべきだろうか。しかし聖母の様な心の裏の底知れないものを知ってしまうのが怖かった。だからフェイは止められなかった。背中を見送るしかなかった。

 だからだろうか、翌日にバーンズが死んだと聞いてやけに納得してしまった。


「シスターのスープはいつだって美味しいね!」


 バーンズが死んだことなど、そんなことは教会の子供達には関係なかった。夕飯に目を輝かせながら、スープのおかわりをし腹を満たして夜を眠る。この日々にいったい何の文句があるのだろう。何も知らなければ、幸せでいられる。このまま何も言わなければーーーー





「ーーなーーい」


 ふと、視線を落とせばレインがしくしくと泣いていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 繰り返し呟く言葉の意味を、考えなくては。

 目の前の惨劇をしっかりと、理解しなくては。


 シスターの質素な部屋に咽せ返る様な血と糞便の臭い。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 レインがフェイの足元で何かを抱きかかえている。彼女の顔や手や服にはまだ乾いてない血が滴っていた。

 泣きながら、こちらを見ずに謝る姿はフェイの母親にとてもよく似ていた。


「ごめんなさい、こんなことになるなら、あの時ー」


 彼女が抱えている物がチラリと見えた。教会につい最近来た、9歳のメアリの顔が覗いた。


「全部私が悪かったの、ごめんなさいごめんなさい」


 これは知らないふりをし続けたことへの、罰だろうか。

 いつの間にか自分の服も真っ赤に染まっていた。


「ねえ、フェイ」


 後ろからの声にフェイはびくりと肩を震わせた。

 振り返るとアンが薄暗い廊下で蝋燭を持ち、こちらを冷めた目で見ていた。


「どうするの?」


 喉が渇いて声が出ない。

 足元で泣いているシスターは支離滅裂なことを言っている。

 どうすればいい?

 泣きそうなのはこっちのセリフだった。


「このままじゃ、シスターは警察に行かなきゃね」


 アンは部屋に入ってドアを静かに閉める。


「違うの。違うのよフェイ」


 シスターがメアリの頭を放り、急に脚にしがみついた。


「私は、私は違うのよ。私の中に化け物がいてそいつの仕業なのよ。私じゃないの。私のせいじゃないの。きっと、きっとーーーーーーーーー」

「…可哀想なシスター」


 アンはしゃがみ込みシスターの肩に手をそっと乗せた。


「こんなのシスターじゃないわかるでしょ?本当のシスターは優しくて頼りになって、私達のことを絶対に傷つけたりしない。

 きっと、シスターだって辛いのよ。こんなことになってしまって、すごい反省してるじゃない。

 悪いのはシスターの言っているだけよ。シスターは悪くない。シスターに罪はないのよ」


 アンの桃色の瞳が悲しそうにシスターを見つめる。

 シスターはそんな事に気付いていないようでフェイに向かって仕切りに何かを口走っている。


「それに私達はどうなるの?」


 部屋を閉め切ったことにより臭いが増す。

 頭が痛い。目眩がする。


「人殺しに育てられた子供たちとして、後ろ指刺されながら生きてくことになるわ」


 フェイは思わずシスターを振り払い、その場に吐いた。

 涙で視界がにじむ。

 アンの言葉で、思考がかすむ。


「親がいないだけでこんなにも生きづらいのに、人殺しの子の烙印も押される。その先に私達の幸せってあるのかしら」


 アンの手が背中を優しくさするのを感じた。


「ねえ、フェイ。私達はどうすればいい?」


 聞こえてくる言葉を、受け止められるほど僕は、僕はー


「朝になります、シスター」


 喉が多少の胃酸でやられたらしく、言葉を発するとひりついた。


 泣き喚いていたレインがこちらを見る。目には大粒の涙と困惑が浮かんでいた。


「みんなが起きて来ます。早く体を洗って、服を着替えてください。僕達がその間にここを掃除します」


 自分でも驚いていた。いつの間にか静かになっていたレインも驚いた顔でこちらを見ていた。今起こっていることさえ受け止められない自分がこれからのことを考えられるわけがない。


 これはきっと、悪い夢だ。


 なら、目が覚めるまで何も知らないふりをしよう。


 シスターは最初呆然としていたがやがていつもの笑顔に戻り口を開く。


「…アリガトウ、フェイ」


 必死に床の血を落とし、メアリの体を布に包んで町外れまで捨てに行った。

 いつ化け物が出てくるかもわからないレインを普通に生活させるわけにもいかず、何十年も前に防空壕として利用されていた教会の地下室に隠した。


 朝になり子供達が異変に気がつくのに時間は掛からなかった。子供達を慰めながら何も考えないようにした。

 今はただ、悪夢から目覚めるのを待とう。

 きっとすぐに目が覚める。きっとすぐにー



 夢は覚めなかった。



 レインがいなくなり、誰も管理されることがなくなった教会を例のマフィアに追い出された。

 どうやらバーンズが死んだ後の後継人は彼らだったらしい。なんとか彼らと交渉しボロボロになった新しい新居へと子供達と越し、仕事も与えてもらえることになった。


 教会に置き去りになったレインは怒りやすく「オ腹ガ空イタ」とフェイにすら攻撃的になった。いくら食料を与えても空腹を満たせず、どうしようかと悩んでいたそんなある日。

 教会で寝起きしていたホームレスがたまたま地下に気付いてしまったらしい。彼は興味本位で中を覗い、そのままレインに地下で細切れにされた。

 するとどうだ。それまでのことが嘘のようにレインは穏やかな顔に返り血を濡らしたまま地下で待っていた。


 その時に理解してしまった。

 彼女は人を殺さねば生きていけない事に。


 それからはレインがいる地下室に鍵をかけ、大人しいうちに手枷をつけ拘束することにした。罪なき人を殺さぬように。


 問題は一体誰に犠牲者となってもらうか。

 アンはこともなげに言ってのけた。


「犯罪者ならいいんじゃない?」


 頷くしかなかった。

 ボスから強盗達や強欲な権力者達の情報を得てはそれをレインに教えた。

 時には侵入の手伝いを、時には犯罪者犠牲者達に嘘を吐きながら、定期的にレインにを与えた。

 レインは怒ることは無くなった。

 レインは泣いて謝ることも無くなった。

 レインは、楽しそうに教会の地下で犠牲者エサ達の最期を語るようになった。


「これでよかったのよ」


 アンがぽつりと呟いた。


「罪人達が裁かれる上に、シスターも起きてしまった罪に泣かなくてすむ。それに私達も人殺しの子と呼ばれる事もない。これが一番良かったのよ」


 アンは地下室の鍵をしめながら言い聞かせる様に言った。

 そして急にこちらを振り向くとぎゅっと手を握ってきた。両手で包むように、祈るように。


「この秘密は絶対に守らなきゃね」


 麻薬のような中毒性と高揚感のある声が体の芯を痺れさせる。


「大丈夫。フェイのことは私が守るわ」


 壁にかけてある蝋燭が揺れ、アンの桃色の瞳がそれを反射してゆらゆらと妖しく光る。


「だから、フェイも私を独りにしないでね」


 気がついたらアンの瞳の中の自分がはっきり見えるほど、顔が近づいていた。

 不安と期待とが入り混じった綺麗な瞳に吸い込まれそうだ。

 大人になりかけている少女の頬はうっすらと赤みがかっているのがわかった。


 もしかしたら、悪夢は覚めないかもしれない。

 永遠に続く生き地獄なのかもしれない。


 でもそれまではこの手を離してはいけないのだとぎゅっと手を握り返した。

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