8匹目 シスターレイン


「ちょ、ちょっと待つっす!」


 ロイの静止も聞かずに息を切らして家の扉を開けた。不気味なぐらい静まりかえった家の中を灯りもつけずに子供達がいる二階へ駆け上がろうとした時、一階のリビングの部屋から僅かな光が漏れているのが見えた。登りかけた階段から足を離し、リビングの部屋を覗き込んだ。


「あら、お帰りなさい」


 とても穏やかな声だった。

 机の上の蝋燭に照らされて椅子に静かに座っていた女は髪こそ乱れているものの、その表情は昔のままだった。遊んで帰ってきた自分を迎えくれていたあの笑顔があった。この半年間何度も夢に見た光景が、そこにあった。


「…ここで、何をしているんですか?」

「ふふ、まるで昔みたいね。教会にいた時は蝋燭を灯して、独りじゃ眠れないってぐずる子供達を私とフェイとエリンで寝かしつけてた」


 シスターレインは揺れる光を見ながらぽつりぽつりと話し始めた。


「お金もなかったし、周りの人達も信仰深い人なんていなくて白い目でよく見られてた。

緑地区にいる人達はみんな必死に生きて手を貸す余裕もないから誰も私達を不幸からは助けてはくれなかった」


 何度もバーンズから嫌がらせを受けていた。

 土地代の値上げやら妙な難癖をつけて追い出そうともされた。唯一の教会なのに助け舟を出してくれる人など誰もいなかった。


「それでもあの教会でみんなで協力して暮らしていくのは楽しかったわ」


 シスターレインは椅子から立ち上がり、フェイに近づいた。思わず後ずさるが、すぐ壁に当たってしまった。


「ねえ、また一緒に暮らしましょう。今度こそ大丈夫。上手くいくわよ」

「上手く、いく?」

「そう、ここできっと上手く暮らしていける。みんなで昔のように暮らしましょう。なんだって乗り越えてきたじゃない、今回だって大丈夫。みんながいれば乗り越えられるわ。それに約束する、私ももう人は殺さないわ」

「もう、人を殺さない」


 オウム返しのフェイをシスターはぎゅっと抱きしめ、頭を撫でる。


 ーーべちゃ


 フェイは思わずシスターを突き飛ばした。


 今の感触は…?


 恐る恐る頭へと手を伸ばす。

 粘着質な何かが手にべたりと付いた。それが何かを確認しようとしたが、無理やりシスターに顔を掴まれ目を合わせられる。


大丈夫だったじゃない?大丈夫よ、これからだってうまくいく。もう私はこの力をネ、コントロールでキるノヨ」


 影でよく見えないが、レインの目がぎらりと光る。瞳孔は開いて、息が少しばかり乱れていた。


「シスター…」


 さっきから掴まれている頬が痛い。指が食い込み、はちきれそうだ。


 ーーどうしても人を殺さないと生きていけないんっすよ


 ロイがさっき言った言葉が蘇る。

 今にも肉を噛みちぎらんばかりにレインが口を開くのを見て、フェイはそっかと呟いた。


 次の瞬間血飛沫が上がった。

 自分の左腕が人形の様に喰いちぎられる。全身を駆け抜ける痛みに床に落ちるように倒れ込んだ。

 影を落としてこちらを覗き込むレインがどんな顔をしてるかもわからない。この表情は何を言いたいのか、思考が働かずわからなかった。

 フェイはなんとか悲鳴を飲み込み、浅い呼吸を繰り返す。大きい声を出せば、子供達が目を覚まし降りてきてしまう。

 今降りて来れば一体何が起こるか。激痛で一杯の頭でも考えるに容易かった。


「偉いわね。悲鳴、我慢してるのね」

「シスター、逃げてください。ここに、蟲狩りが来ます」


 叫び出しそうなのを必死に堪え、絞り出す声は掠れて頼りなかった。

 レインは首を傾げ、聞き返した。


「蟲狩り?」

「シスターの、命を、狙っているんです。貴女が、貴女が蟲だから」

「なぜ、教えルの?」

「僕は、僕は、もう、誰も、死なせたく、ないんです」


 フェイは泣いていた。

 これは死を目の前にした恐怖の涙だろうか。

 それとも彼女に裏切られたからだろうか。

 はたまた、の涙だろうか。


「誰も、死なせタクなイノ?」


 フェイは頷いた。


「僕の事は、ころして、いいから、もう誰のことも、」

「フフフ、フェイ」


 レインがまた頭を撫でる。暗くて今までわからなかったが、間近で見えたその手はフェイじゃない誰かの血で真っ赤に染まっていた。


「貴方っていつまで経っても絵空事みたいな事を言うのね」


 レインは優しい口調で言うと、リビングを出て二階へと続く階段へ足を掛ける音がした。

 待ってと言葉にしようとしたが、声にならない。


 ーー止めなきゃ


 きっとまだ誰も起きてない。

 自分達が絶体絶命であるだなんてつゆ知らず、すやすやと寝ているに違いない。

 痛みで支配された体を引きずってなんとか廊下に出た。


 レインはゆっくりゆっくりと階段を登っている。子供達にサプライズをする時のような意地悪そうな笑顔を浮かべている。

 こうなれば二階の子供たちを起こして一人でも多く逃すしかない。フェイが口を開きかけた時だった。


 突然、黒い影が玄関の扉を蹴り飛ばしレインへと真っ直ぐ向かう。

 レインが振り返り影に向け腕をかざした時にはは既に目の前に迫っていた。


 黒い影ーディースは大鎌を狭い廊下で器用に振りかぶりレインに切りかかった。


「なっー」


 肩から腰骨まで一気に切られ、血飛沫が舞う。レインは狼狽するがそれはほんの少しのことだった。すぐ腕をあげ風を起こし、ディースとの距離をすぐに取った。


「お前がこの街の『死神』か」


 ディースは全身を覆う程の黒いマントを羽織っており、老人を思わせる白い髪が深く被ったフードから覗いていた。玄関から入る月明かりがその縁取りをぼんやりと映し出す。


「ふふふ、その姿のあなたこそ『死神』らしいわね」


 レインは傷を冷静に見下ろした。

 傷をつけられたことは別に初めてではなかった。

 今までターゲットにしてきた奴らは物騒な悪人だったのだ。殺す時に抵抗され血を流すことはよくあることだったが、傷の治りが異常に早いので今まで瀕死になることはなかった。

 今のこの傷もたしかに広範囲で切られていたが、きっとすぐに治るだろう。


「お前、他の蟲に会ったことないんだな。普段ならその傷もすぐ治るだろうが、蟲が使う武器は回復力を弱める」


 鎌を構え直しディースはそう言うと、またレインに切りかかる。

 動くたびに血が垂れていく。彼の言う通り、傷の治りがだいぶ遅いようだ。


「そうなの。マア、こんな擦り傷どうってことナイわ」


 向かってくるディースに向け風で間合いを取りながら、ディースの大鎌を避けていた。その光景を見ながらフェイは瞼が重くなるのを感じた。気がついたら全身を回る痛みや熱は去り、今では寒気が支配しており指一本動かすことも億劫になっていた。


「フェイさん!大丈夫っすか?!」


 近くで話しているのだろうが、とても遠くから話しかけられているようだった。心配そうにこちらを見ている幼い顔に大きな涙が溜まっているのが見えた。


「おね、がい、です、しすたーを、ころ、さ、ないで」


 辛うじて紡ぐ言葉にロイは目を大きくした。


「あの人は、蟲っすよ。貴方の知る人じゃない。それにだいぶ人を喰って成長してる。もう助かる方法はないんっす」


 ーーわかってる。


 フェイは口を動かすこともできなかった。


 わかってる。

 彼女がもう人間でない事も。

 許されない罪をおかしている事も。

 彼女を庇うこと自体が罪になってしまう事も。


 わかっている。

 でも、なら、どうすればよかったのだ。

 どうすればシスターが、みんなが幸せになれる未来があったのだというのだ。

 何もできない子供の自分に一体何が正解かなんてわからなかった。


 だから、


「ぼ、くが、おしえて、いたんです」

「え?」

「ぼすの、しご、と、ぼくが、しすたーに、おしえて、いたんです」


 だから、最期まで秘密にしようと決めた。


 その手が血で汚れていようと見て見ぬふりをしようと決めた。

 話す言葉全てが虚言だとしても盲信することに決めた。


 この悪夢覚めるまでを独りにしないと決めたのだ。

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