第112話 狙われたエステル


 《半日前・カエデの部屋》


「…………!」


 突然の空気の変化。

 その不気味な感覚に、私は目を覚ましました。


 ––––深夜。

 部屋は闇に包まれ、目視ではほとんど何も見えません。


 ただ私の五感は、近くに異変はない、と告げています。

 この部屋にも、隣のエステル様の部屋にも、です。

 怪しい気配はありません。


 異変はそんな近くではなく、屋敷の外……それもかなり遠くから、広範囲にわたってもたらされているようでした。




 すぐにベッドから出て、窓のカーテンを僅かに開きます。


 月が出ていました。

 雲の合間から射し込むその光が、エチゴールの屋敷と車回しを照らし、静かにそれらに影をつくっています。


 こんな時でもなければ、しばし感慨に耽ることもあったかもしれません。


 ですが今、私にそんな余裕はありませんでした。


 この感覚……。

 大地を、空気を、世界を満たすユグナリアの加護が遮断されるこの感覚は、私にとって悪夢以外の何物でもないのですから。




 十年前、遥か西方の島国で政変がありました。


 ある夜、帝の弟にあたる人物が起こしたその叛乱により、帝と皇后は殺され、二人の子供……皇子と皇女は命からがら海を渡り国から逃げ出すことになったのです。


 本来それは、あり得ない叛乱でした。


 国ができて千年近く。

 皇室が祀るカミ、ユグナリアの守護と結界により宮殿は守られ、帝を害しようとする企みは、幾たびも防がれ潰えてきました。


 ––––皇族はユグナリアの守護のもと超常の力を顕現し、害をなそうとするあらゆる敵を打ち滅ぼす。

 ユグナリアの守護さえあれば、叛乱が成功することはなかったはずなのです。


 ところが、何者の仕業だったのか。


 その夜、宮殿を含む周囲一帯のユグナリアの守護が大地から遮断されました。

 さらに殿を護る結界までもが破られ賊が侵入、先の様な経緯(いきさつ)となったのです。


 その時の嫌な空気––––守護が遮断された時の虚空に放り出されるような感覚と、ユグナリアを害しようとする禍々しい意思と力は、まさに今、私が感じ取っているものと同じものでした。




 現時点で、屋敷に異常はありません。

 ですがこうなった以上、良からぬことが起きるのは時間の問題でしょう。


 そしてその狙いは、元皇女たる私である可能性が高い。

 なぜならユグナリアの守護の力を使う者など、このオルリス教の国では私以外にいないからです。


 誰がこのような事を仕掛けてきたのか。

 状況から考えれば秋津洲(あきつしま)の追っ手というのが一番考えられることです。


 ですが…………この身に感じる、強烈な悪意は何なのでしょうか?


 もしこれが私たちを追う叔父ではなく、十年前に叔父を唆した者の謀略であるならば、ひょっとすると状況は私が考えるよりはるかに悪いのかもしれません。




「エステル様……」


 私は迷いました。


 敵の狙いは、私。

 私がいる場所が、戦場になる。

 お嬢様を置いていかねばなりません。


 だけど本当にそれで大丈夫なのか?

 一抹の不安が頭をよぎります。


 逡巡。


「……どちらにしても危険なのは同じ、ですね」


 私は決断しました。


 ここで相手を迎え撃てば、確実にこの屋敷は戦場になります。

 エステル様を巻き込んでしまうのは間違いありません。


 であれば、せめてお嬢様の部屋に結界を張り、私が敵のところに出向いた方がいくらかはお嬢様を危険から遠ざけられるのでは、と。

 そう思ったのです。


 私は仕事服に着替えると、キャビネットの引き出しの奥から勾玉(まがたま)の入った布袋を取り出し、お嬢様の部屋に向かいました。




 お嬢様の部屋に結界を張り、鍵をかける。

 手早く動いたつもりですが、それでも作業にはある程度の時間を要しました。


 正直なところ、いつ敵がやってくるのか気が気ではなかったのですが、幸いなことに私が一連の作業と儀式を終えるまで敵の襲撃はなく、かなり強固な結界を張ることができました。


 私は玄関に鍵をかけ、屋敷を振り返りました。


「お嬢様。どうかご無事で……」


 エステル様の無事を祈ります。


 そうして私は、薙刀を携え走り始めました。


 エチゴールの敷地の壁を飛び越え、ペントの街を走り抜けます。

 向かうのは、ユグナリアの守護を遮断する『力』の発信源の一つ。


 異形とも言える禍々しい力は、三箇所から発せられる力線によって描かれる三角形の内側と周辺に影響を及ぼしていましたが、その最も強い力は、街の東の……おそらく森の中から発せられていました。




「身体が重い」


 ユグナリアの守護を遮断されているため、神祀りの力を使うことができません。

 このままでは敵との戦闘も身一つで行わなければならないでしょう。


 幼少から薙刀に親しんでいたため腕には多少覚えがありますが、神祀りが使えない今、私は巷にいるちょっとだけ薙刀が上手な戦士に過ぎません。


「……詮なきことですね」


 自らの無力を嘆いても仕方ありません。

 私は今自分にできることをやる、と心を決め、闇の中を走り続けました。




「これは……どういうことでしょうか?」


 ペントの東の森の奥深く。


 一刻以上走り続けた私は、ユグナリアの守護を遮る三角形の頂点の一つに辿り着き、その場に立ち尽くしていました。


 守護を断たれた今の私には、神祀りの恩恵はありません。

 それでも五感を駆使して索敵しながら目的地に接近したのですが––––そこには敵の伏兵はおろか、罠すらありませんでした。


 目の前にあるのは、直径五メートルほどの封術陣と、その中心に置かれた大型の魔石が一つのみ。

 魔石は赤く光りながら、おぞましい力を放っていました。


 が、見たところそれだけです。

 私に対する直接的な攻撃の仕掛けはありません。


 これは私を捕らえるための罠ではないのでしょうか?


「一体、どういう意図で……」


 そう呟きかけて、気づきます。


 もしこの仕掛けが、私を屋敷から引き離し、街から離れた森におびき寄せるためだけに用意されたものだとしたら?


 本当の目的は、屋敷への侵入にあるとしたら?


 不気味な意図を感じ、ぞわり、と背筋が寒くなりました。


「はっ!!」


 パンッ!!


 薙刀を一閃し、目の前の魔石を叩き斬ります。

 石は驚くほどあっさり割れ、目の前で金色に光っていた封術陣が漆黒に染まりかき消えました。


 次の瞬間、


 ゴウッ


 これまで押さえられていたユグナリアの守護が、一陣の風とともに森を駆け抜けました。


 大地の力。

 創世の女神の力。


 ですが、ホッとしている余裕はありません。


「風よ、我が身を宙へ!」


 神祀りの力で空中に舞い出た私は、再び街に向かって駆け始めました。




 往路で要した時間の半分以下の時間でペントに戻った私は、道を行くのももどかしく、家々の屋根を蹴り、宙を駆けます。


「お嬢様……」


 嫌な予感が止まりません。


 走り続けた私は、ついにエチゴールの屋敷に辿り着きました。


 屋敷の塀を跳び超え、エステル様の館に向かい駆けます。


 門から続く敷地内の林を抜け、車回しが見えてきて……お嬢様の居館が見えた時、私は自分が失敗したことを知りました。


「結界が、破られている?!」


 あまりのショックに、足がもつれかけます。

 しかし、なんとか体勢を立て直し、疾走。


 焦り震える手で館の玄関の鍵を開けた私は、足音を消して二階に駆け上がり、そのままエステル様の部屋へ––––。


 ガチャリ


 鍵を閉めたはずのドアノブがあっさりと回り、扉が開きます。


「くっ……!!」


 まず視界に飛び込んできたのは、キャビネットの上に置かれた白い紙と、それを留めるように机につき刺さった小さなナイフ。


 部屋に入り回り込んでみれば、やはりエステル様のベッドは空になっていました。


 私は自分の甘さを呪いながらキャビネットに近づき、紙を手に取って開きます。


 そこには、秋津洲の言葉で短くこう書かれていました。


『テルナ湖』

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