後編
私は、早朝にもかかわらず葉室邸を訪れていた。
応接間で、出された紅茶に手も付けずに座っていると、昨晩のことが思い起こされる。
蕾と咲は、私を幸せにしたいと言った。結婚はせず、私にも結婚させず、三人だけの世界で生きようとしていた。
「私は、そんな風に愛されたかったわけではないのに……」
「薔子さん、お待たせしました」
執事が開けた扉から、葉室が入ってきた。
急な来訪を聞いて、慌ただしく支度をしたのだろう。シャツの袖はくしゃりと皺が寄っているし、クラヴァットは結び目が曲がっている。
常識のない時間に訪問してきた私を怒ってもいいのに、「お顔色が悪いですね。どうされました」と心配してくれた。
心優しいこの人なら、この胸にわだかまる苦しみを分かってくれる。
私はすがるように、葉室の胸に寄りかかった。
「葉室様、どうか、私と結婚してくださいませ。あの子たちが道を踏み外してしまう前に」
涙ながらに言うと、葉室は青ざめて私の肩をつかんだ。
「蕾くんと咲くんに、何かされたのですか?」
「いいえ! あの子たちは何も悪くありません。悪いのは私です。亡くなった夫は、私を垣之内に閉じ込めました。私は、決してあの人のようにはならないと、心に決めて生きてきた。それなのに、あの子達は自ら垣之内に閉じこもろうとしています。私がいるせいで……」
「あなたも、何も悪くありませんよ」
葉室は、意を決した表情で私を立たせると、愛おしげに頬を撫でた。
「子どもは親を愛します。とくに母には執心するものです。最愛の人が、見知らぬ男と再婚しようとしていたら、嫉妬もしますよ」
「そういうものなのでしょうか……?」
「ええ。きっと、再婚したあなたが幸せそうにしていたなら、二人とも安心してそれぞれの人生を歩んでいくでしょう。結婚しましょうか、薔子さん」
「はい」
私と葉室は、式や披露宴に向けて、具体的な準備をはじめることになった。
◆◆◆◆◆
垣之内家の未亡人が再婚する。
私の結婚は、上流階級の人々の注目を浴びた。
新聞に小さな記事がのると、お祝いの花と披露宴の問い合わせをたずさえたボーイが、ひっきりなしに垣之内邸を訪れた。
私は、披露宴の準備にかこつけて、たびたび葉室の屋敷に泊まった。
不機嫌な蕾と咲に顔を合わせづらかったので、こころよく受け入れてくれた葉室には感謝しかない。食事をともにとったり、何気ない会話を重ねるのは心地よかった。
入り婿として垣之内家の一員になる彼は、披露宴で、双子に向かって決意を述べたいと申し出た。
生涯の伴侶として、薔子さんを幸せにするから、安心してほしい。
新たな父として、至らない部分はあるかもしれないが、努力する。
優しくも広い心を思わせる内容に、私はとても感動した。
――そして、迎えた披露宴当日。
垣之内邸の大広間に設えられた高砂に、私は葉室と座っていた。
私にとっては再婚だが、葉室は初婚のため、馴染みの呉服商に勧められた打ち掛けをまとった。
薔薇の刺繍が施されており、紋付き羽織袴の葉室と並ぶと、黒い土から伸びた花が咲いているように見える、晴れやかな舞台に似合いのよい着物だ。
蕾と咲が素直に出席するか心配だったが、親族があつまるテーブルで大人しく進行を見守ってくれた。
来賓である政治家や実業家のご令嬢が、二人に熱い視線を送っていたが、そちらには目もくれない。ただひたすら、私の方を見ている。
怒っているのか。それとも、悲しんでいるのか。
披露宴が終わったら、私から話をしよう。
葉室と幸せになるから、安心して自分の将来について考えてほしい、と――。
「――子さん、薔子さん」
「っ、なんでしょう?」
我に返ると、となりの葉室が介添人の方を気にしていた。
「中座の時間だそうですよ」
お色直しのため、私は葉室の腕に手をからめて、大広間を後にした。
それぞれの控え室に入り着替える。私の衣装は深紅のドレスだった。
葉室が選んでくれたもので、いわく肌の白さが際立って美しいのだとか。
洋装に合わせて、まとめ髪からアレンジされたアップスタイルに結い直し、生花で作られたコサージュを差してもらう。
大輪の赤い薔薇を中心に、かすみ草や葉物で上品にまとめられたものだ。
鏡ごしに私を見ていた介添人は「まるで薔薇の女王のようですわねぇ」と誉めた。
「会場の皆さまにお見せする前に、お坊ちゃま方に見せて差し上げてはいかがでしょう。親族の席は、どうしても高砂から遠くありますでしょう。薔子様のドレス姿を見ましたら、きっとお喜びになりますよ。ちょうど、中座に合わせて休憩に出られたとのことでした」
「自室に戻っているのかもしれませんわね。少しの間、行ってもよろしいかしら?」
「大丈夫ですよ。新郎はこちらでお引き留めしておきます。男の人というのは、待たせてやきもきさせた方が、新婦のドレス姿に感動しますからね」
私は、一人で控え室を出た。
ドレスを引きずらないようにスカートをつまんで歩き、双子の部屋の扉をノックするが返事がない。そっとノブを回して、なかをうかがう。
「蕾、咲?」
白い陽光に照らされた部屋に、二人の姿はなかった。
別の場所で休憩をとっているのかもしれない。
扉を閉めようとした私は、部屋が異様なほど荒れている事に気がついた。
ベッドのうえや床には本や書類が無造作に置かれ、机の周りには割れた薔薇の種子が散乱している。
部屋の隅に蜘蛛の巣が張っているから、しばらく掃除人を入れていないようだ。
気になって部屋に入った私は、ベッドの書類に目を落として、息をのんだ。
今まで私に求婚してきた男性の顔写真や経歴などの情報が、みっしりと書かれている。恐ろしいのは、そのどれも赤いインクで『死亡』と書かれている事だ。
手に取ると、裏の文字が透けている。
ひっくり返せば、そこには、実験の手順書のように、殺害方法が記されていた。
遠乗りの予定に合わせて、金で買収した使用人の手で馬車に細工させる。眠っているうちに手足を縛り、顔に濡らしたタオルをのせて窒息させる。階段から突き落として首の骨を折る……。怖気立つような方法が書かれていた。
求婚者が突然死した事は、複数回あった。
どれも交通事故や、眠っている間の急逝、自宅の階段を踏み外しての転落死だったので、不幸が重なったぐらいに思っていたが。
「あの子たちが殺したというの……?」
戦慄しながら赤い文字のない書類を手に取ると、それは葉室のものだった。
裏に書かれていたのは、毒殺方法。
――薔薇の種子から採取した内容物を粉末にし、飲み物に混ぜて体内に入れる。
粉末は、胃酸と反応して青酸を生み出し、対象を死に至らしめる――。
私は、机を見た。置かれたナイフと、何かを乾かしたあとがある試験管。
周りにあるのは、割られた薔薇の種子。
「葉室様」
私は、スカートをつかんで大広間へ走った。
息を切らして廊下に出ると、介添人に付き添われた葉室が待っていた。
「ほんとうに美しいですね」
「ありがとうございます。お話があるのですが、葉室様――」
「高砂で聞きます。会場の皆さまが、美しい新婦を待ちかねておいでですから」
大扉が開かれて、私と葉室に会場の視線が集中する。致し方なく、私は葉室にエスコートされて披露宴に戻った。
親族席を見れば、蕾と咲は、落ち着いた様子で席に着いていた。
幾分ほっとする。
披露宴には多数の人の目がある。垣之内の令息として注目されているなか、葉室の飲み物に毒を入れるような行動は取れないだろう。
高砂に座った私は、話とは何か気にする葉室に「何でもありません」と答えて、あとは俯いていた。
今は実行しないだろうから、うかつに話して不安がらせることもない。披露宴が終わって、二人の時間が来たら、ゆっくりと説明しよう。
でも、先ほど見たことを話したら。
蕾と咲は、どうなってしまうのだろう。
逮捕されてしまうだろうか。裁かされて服役するのだろうか。
そうしたら、彼らの人生は、もう取り返しがつかないものになってしまうかもしれない。そんな境遇に、私は二人を追い込めない……。
「薔子さん、葉室さん、ご結婚おめでとうございます」
咲の声がして顔を上げると、蕾と並んで高砂のそばに経っていた。
それぞれ、洋酒の瓶を手にしている。
「お祝いにお酌をさせてください」
「ありがとう。君たちに認めてもらえて、本当に嬉しいよ」
葉室は、感動した様子でグラスを手に取った。
咲が注ぐ白ワインは、ほんのわずかに濁りがある。
私のグラスには蕾が、別の瓶から同じ酒を注いでくれたが、同じラベルなのにこちらは澄んでいた。
私の背に、悪寒が走った。
そっと蕾を見上げる。無表情をよそおった彼の目は、鋭い怒気を宿して葉室を睨みつけていた。
咲はというと、恍惚の表情で彼を見つめている。こちらも目は笑っていない。
葉室は、二人の敵意に気づかずに、ぐっとグラスの酒を飲み込もうとした。
とっさに、私は叫ぶ。
「飲んではいけませんっ」
自分のグラスを投げ捨てて、葉室の酒を奪い取った。
ちゃぽんと揺れる酒からは、芳醇な酒精の香りの他に、青々とした植物の匂いが立ち上ってきた。
確かめるまでもない。
蕾と咲は、薔薇の種子を用いた青酸中毒によって、葉室を殺そうとしたのだ。
驚いている二人に、私は毅然と告げた。
「蕾、咲、ごめんなさい」
こんな事をしでかす子に育ててしまって。
何も話さずに、全て背負う決断をしてしまって。
深い懺悔を胸に、私は手元の酒を一息に飲み込んだ。
かなり強い酒だったようで、喉から胸、胃の腑までが焼けつくように熱い。
下戸の私は、気分が悪くなってそのまま倒れた。
来賓たちから悲鳴が上がる。
「「薔子さま!」」
双子が叫んだ。抱き止めてくれたのは蕾だった。「医者を呼べ!」と命じた咲も、心配そうに私を見下ろしてくる。
「蕾、胃の中のものを全部、吐かせて。すぐに」
「分かってる。水を大量に用意させろ」
「いいえ。このままでいいわ、蕾」
「いいわけあるか。どうして、代わりに飲んだ!」
「あなたたちを、愛しているからよ」
ほろりと涙をこぼすと、声を荒げていた蕾は怯んだ。
咲も、苦しそうにきゅっと口を閉じる。
私は、二人の頭を撫でてから、葉室に腕を伸ばす。
葉室は、椅子から転げ落ちるようにして、私の手をとった。
「薔子さん。今、医者が来ますから、お気を確かに」
「救命は必要ありません。このお酒には毒を入れていましたの。結婚したいと言っておきながら、結婚が嫌になってしまって、葉室様を殺そうと画策したのです。二人は、私に命じられて仕方なく、葉室様のグラスに毒入りのお酒を注いだのですわ……」
だから、蕾と咲は何も悪くないのです。
重ねて言った私は、双子に視線を移した。
「二人とも、私がどうなっても、良い子でね。私の心は、ずっとここにいて、あなたたちの幸せを願っているから……」
「そんなこと言わないで。僕らをおいて死なないでよ、薔子さま!」
子どものように泣き出した咲の顔が、不自然に歪んだ。
ああ、もう意識を保てないようだ。
髪に挿していた薔薇が、はらりと落ちる。
赤い花を目で追うと、釣られて目蓋も落ちてくる。
「蕾、咲、愛しているわ」
そのまま気を飛ばした私には、その先の記憶がない。
最期に、まだ垣之内に来たばかりの双子と、ベッドに川の字になって歌った子守声を、遠くに聞いた気がした。
◆◆◆◆◆
令和初頭、関東某所。
かつて豪商として名を馳せた垣之内氏の住まい、旧垣之内邸の広大な庭には、二千種を超える薔薇が咲き誇って、観光客の目を喜ばせていた。
種類が充実しているのは、西洋から取り寄せた種子を育てたためである。
薔薇は、挿し木で増やさなければ、元の木とは違う花を付ける。そのため、ここでは色や花びらの重なりが異なる薔薇が、次々と生まれたのだ。
中でも、最も美しいと言われているのが、庭の中央に咲いている赤い大輪。
これには、垣之内家の最後の当主であった双子の逸話がある。
二人は、庭でもっとも美しく咲いたこの薔薇に、若くして亡くなった母にちなんで『薔子』と名づけ、生涯にわたって大切に育てた。
『薔子』は、不思議なことに、株を別けても、挿し木をしても、この垣之内邸でしか蕾をつけなかった。
ここでしか生きられない薔薇を、双子は、心から愛していたという。
わたしが最愛の薔薇になるまで 来栖千依 @cheek
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