カーテンコールはやまない
桜枝 巧
カーテンコールはやまない
そして、君はじゃがいもになった。
目が覚めた時、そこにあったのは、確かに君で間違いなかった。
枕の上で眠るそれは、柔らかな頬も、ふっくらとした唇も持ち合わせていなかったが、確かに君で間違いなかった。
手のひらに収まるくらいの、小さなじゃがいもだ。
土など一切付いていないところが、実に君らしい。楕円の、やや凹凸のある表面は、宇宙の遥か彼方に浮かぶ小惑星のようだった。カーテンから漏れる朝の陽を浴びて、金色に輝いていた。君の髪の色だ、と気がついて、無性に嬉しくなる。
君は確かに今、じゃがいもなのだ。
僕はソファから起き上がると、思い切り腕を伸ばした。首の辺りから小気味の良い音が聞こえてくる。
昨日の稽古の疲れがやや残っているが、特に問題はなかった。
テーブルにあった水を一口飲んでから、軽い発声練習をする。頭の中に台本があることを確認し、昨日のリハーサルで言われたことをひとつひとつ思い出してみる。
手は約三十度の角度で、指先は伸ばすこと。次の場面に移る前は、なるだけ動作を急ぐこと……。
そして、と、君の声が脳裏によみがえる。
「そして、観客を意識しないこと。舞台が始まった瞬間、そこには観客も、役者もいない。当然、あなたもいない。あるのはただ、虚構の現実だけよ。メアリーとジョセフ、それからいくらかの人々。それだけ」
それ以外は、じゃがいもとでも思っていなさい、と君は言った。
かのアドバイスを、君自ら実践してくれているのだ。この機会を、逃す訳にはいかなかった。
昨夜はひどく喧嘩をしたが、じゃがいもになっている君に謝る訳にもいかなかった。じゃがいもは言葉を理解しないだろうし、そもそも人はじゃがいもに話しかけないものだ。
何より、昨日も君に話した通り、今日が舞台初日なのだ。小さいことに構っている暇はなかった。
そも、この大事な時期に、生活についての小言を言ってくる方がおかしいのだ。舞台は、幕が上がる前から始まっている、と言ったのは君だった。
昨夜の君は酷く顔を赤くしていたが、今その色は欠片も見えない。それに、こうして僕に協力しているということは、何だかんだで君も許してくれているに違いなかった。
僕は支度を済ませてから、君を大きく柔らかなタオルでそっと包みこんだ。君はじゃがいもらしく、ただされるがままになっていた。僕のカバンの中に入った君は、台本の隣に大人しく座る。
部屋を一度見回してから、僕はぱちん、と電気のスイッチを切った。
素晴らしいことに、君は完璧にじゃがいもを仕上げてきていた。洗面台にも、キッチンにも、本棚にも、君の痕跡は何ひとつ残っていなかった。二年間一緒に過ごしてきた人間としての君を、完全に消し去っていた。クローゼットからは、肌着一枚見つからなかった。
僕は、君をひとなですると、車に乗り込んだ。
その日の舞台は、大成功だった。
幕が上がった途端、全てがじゃがいもに見えた。他にあるのは、ジョセフと、メアリーと、他の周りの人々だけだった。
じゃがいも畑の上で、ジョゼフはメアリーに恋をして、幾多の困難を乗り越えた。悲恋ではあったが、そこには確かに現実があった。
カーテンコールに応えている間も、観客席にあるのはじゃがいもばかりだった。
拍手の音が鳴り響いていたから、半端なじゃがいもだった。本当のじゃがいもは、拍手などしないだろう。
脚本家席に座るじゃがいもは、なぜか手に君を乗せていた。
僕は、眉をひそめた。
舞台が始まる前、確かに僕は君をその席に置いた。だが、他のじゃがいもが座るとは思っていなかった。
君は、拍手の波の中で、じっとそこにうずくまっていた。
僕は考えた。脚本家であった君は、じゃがいもになってしまった。でも、招待された以上、誰かを座らせなければならない。だから、他のじゃがいもを呼んだのかもしれない。きっと、そうだ。
そいつが誰なのか、僕にはもう判別がつかなかった。そこにあるのは、どれも似たようなじゃがいもばかりだった。
そして、僕は、僕自身が既にジョセフでは無くなっていることに気がついた。当たり前だ、ジョセフは物語の中で、現実の中で、死んでしまったのだ。
僕は横を見た。メアリーも、他の人々も既にそこにはいなかった。しかし、舞台はまだ続いている。カーテンコールがやまない。拍手は、どこまでも響いている。
つまり、と、僕は視界にいる存在を認識した。メアリーでも、ジョセフでも、周りの人々でもないなら、こいつらはじゃがいもに違いなかった。
そして、僕は、自分がじゃがいもになっていることを自覚する。
泣くことはなかった。
じゃがいもは、涙を流さないからだ。
舞台は、光に照らされたまま、じゃがいも達の拍手で満たされていった。
カーテンコールはやまない 桜枝 巧 @ouetakumi
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