第162話 閑話 皇の後継者
邸宅にある旦那様の部屋をノックする。
コンコンコンコン、っと。
このノックの回数をいちいち変えるのって何の意味があるんですかね?
一応国際標準のマナーとしてはノック4回がビジネスの場合は正式なもので、3回は家族や親しい人の部屋、2回はトイレのノック回数ってことなんだけど、別にどうでもよくない?
「渋沢か? 入りなさい」
やくたいもないことを考えていたらすぐに返事が返ってきたので、私はファイルとノートパソコンを抱えたままドアを開けて中に入る。
旦那様の部屋の間取りは陽斗さまのとほとんど同じ。
違うのは陽斗さまの部屋は書斎と書庫が仕切られているけど、旦那様のところは一続きの広めの執務室になっている。
まぁ、私が入るとすでに応接間に旦那様と桜子様が座ってるのでそっちに行く必要はなさそうね。
「来たか。座ると良い」
威厳たっぷりに対面のソファーを手で示す旦那様だけど、今日は見るからに機嫌がよさそう。
二日間ほとんどの時間陽斗さまと一緒に居られたのがよほど嬉しかったのか、昨日から実にだらしない顔になってしまっている。
日本のフィクサー、現代の白洲次郎などと言われて恐れられている人物とは思えないわよね。ただの爺馬鹿にしか見えない。
隣に座る桜子様は、そんな旦那様の様子を呆れたように見つつ肩をすくめている。
「陽斗の様子はどうだった? せっかくの休みを全部潰してしまったが疲れてはいなかったか?」
私が座るなりまず聞いてくるのが陽斗さまの様子。いつものことだけど。
「裕美さんも湊さんも元気だったって言ってましたよ。っていうか、朝も一緒に食事してたでしょうに」
黎星祭の翌日から二日間、朝から晩まであちこちに移動して、話を聞いて、見学してとかなり忙しかったはずだけど、陽斗さまはいつもどおり早朝のトレーニングもこなしていたんだから元気よね。若いって羨ましいわ。……私だってまだまだ若いけど!
「陽斗も楽しかったみたいだけど、兄さんの仕事を見てあんまり褒めるものだから爺馬鹿が暴走気味なことが問題かもね」
それはそう。
旦那様の仕事の詳細を、まだほんの少しだけど見て、純粋な陽斗さまはすっかり尊敬したようで、大げさなくらい褒めちぎった。
それを聞いた爺馬鹿老人が調子に乗らないわけがない。
和田さんと比佐子さんがある程度はストッパー役をこなしてくれるとは思うけどね。
「むぅ。ま、まぁいい。とにかく報告を聞こう」
多少は自覚があるのか、旦那様が強引に話を切り替える。
とはいえそっちも重要なので大人しくファイルを開いて旦那様に手渡してから説明を始める。
「押収したメモリーカードには予想どおり決算書に記載されていないお金の流れを示した裏帳簿が入っていました。横領したと思われる金額は概算で20億円に上ります」
「送金先はどうなっている?」
「国内のペーパーカンパニーを経由してシンガポールの個人口座に入金されています。すでに口座は凍結させていますので大部分が回収可能です」
「うむ。網を張っておいて良かったな。大した金額ではないが本来研究に使われるはずだったものが戻ってくるに越したことはない」
旦那様の言葉でわかるとおり、元々あの会社の金の流れは調査対象になっていた。
切っ掛けは研究員のひとりが旦那様に研究費用の増額を直談判してきたこと。
普通の企業人なら皇の当主に直接金をくれなんて言わないだろうけど、コミュ障研究馬鹿揃いのあの会社の連中はお構いなしに要求してくる。
まぁ、そのおかげで売り上げの不自然な減少や研究費は減っているのに経費が増えていることに気づけたんだけど。
陽斗さまをあそこに連れて行ったのも最終的に高坂を問い詰めて、雇用している経営者の監督という仕事を見せる腹づもりだったわけ。
ところが、旦那様がそれをするより先に、陽斗さまは高坂の意識がほんのわずか書庫に向いていることに気づいた。
後から聞くと、旦那様と会話していた高坂は緊張して色々な場所に視線を彷徨わせていたのに、絶対に書庫の方を見ないようにしていたと感じたらしい。
書庫を開けたときは、一瞬だけレターケースを意識したのにすぐに視線を反らせたので、そこに何かあると思ったそうだ。
これまでも人の心情とか考えていることを察するのがずば抜けているとは思っていたけど、ここまで来るとほとんど超能力に近い気がする。
旦那様も、これまでのように陽斗さまが何気なく核心を突く質問をするのではと期待していたものの、あっさりと高坂が隠していたメモリーカードを見つけ出すとまでは思わず、さすがに驚いていたわ。
一緒に居た穂乃香様の話では、どうやら最初に会ったときから高坂に不信感を持っていたようで、研究員たちに高坂の為人や気になる部分などを聞いていたということだった。
幸いあの会社は株式を公開していないので粉飾決算で問題になるのは法人税関係だけ。
そっちはすでに契約している会計事務所を通して税務署に連絡してあり、近く調査が入ることになるだろうけど、こちらは疚しいことは何もないので全面的に協力すれば良い。
「高坂の処分に関してはどうしますか?」
「不法行為で即時解任。後任は暫定的に専務取締役に担ってもらう。後は特別背任で告発すればいいだろう。無論調査して判明した被害額は全て弁済させる。まぁ、型どおりの対応で構わん」
さすがにあの程度の小悪党に圧力なんて必要ないでしょうね。
あの場で裏帳簿の在り処を指摘したにしても、聴取の時に以前から調査していたことは教えてあるから恨みが陽斗さまに向くとも考えにくい。もちろん当面監視はしますけどね。
「やっぱり陽斗の素質は十分兄さんの後継者を務められそうね」
「いや、人を見る目に関してはすでに儂以上と言っても過剰ではなかろう。錦小路家の総領がしかめっ面で厄介すぎる跡継ぎだとこぼしていたくらいだからな」
旦那様はご機嫌な様子でそんなことを言うけど、実際、狐と狸がソシアルダンスを踊りながら殴り合いをしている政財界の御大たちにしてみれば、陽斗さまの洞察力は厄介どころの話じゃないだろう。
何しろどれほど表面を取り繕って友好的に接しても、心の奥底に押さえつけたわずかな悪意も感じとることができるのなら騙されたり陥れられる可能性はかなり低くなる。
近くにスパイや裏切り者が潜んでもすぐにわかるし、視線を向けなくても意識を向けただけで急所がわかるなんて反則もいいところよ。
「父親の佑陽さんも人を見る目と本質を掴む洞察力に優れていたから血筋かもしれないわね」
さすがに陽斗さまが生まれる前に亡くなった佑陽様とは面識がないけど、かなりのやり手だったって話。
旦那様から会社をひとつ任されて、わずか数年で年商100億規模まで成長させたと聞くから相当なものよ。仕事にはかなり厳しかったらしいけど。
「そうかもしれんな。時折ドキリとする指摘をしてくるところはよく似ている。ただ、問題は優しすぎるところだな。裏切ったり敵対した相手でも、その家族や関係者が無関係なら処分を躊躇ってしまうだろう。もしそうなれば周囲に侮られることになりかねん。佑陽君も甘いところはあったが同時に非情になるべきところは弁えていたからな」
旦那様の懸念はその通りだと思う。
意外と言っては失礼だけど、敵対した本人相手なら陽斗さまは厳しい態度で臨むことができるのはこれまででわかっている。
けど、それが無関係な人にまで波及してしまうと知れば、必要な対抗策をとることができないかもしれない。
佑陽様からの遺伝に加えて過酷な生い立ちで優れた洞察力が身についたのは複雑な感じがするし、それでも尚優しさと思いやりを持ち続ける強さが陽斗さまの最大の武器だと同時に危うさだとも思える。
けど、それを桜子様がキッパリと否定した。
「それは多分問題ないわよ。穂乃香ちゃんが名家の令嬢としてしっかりと教育を受けているし、他にも天宮の次男、武藤さんの息子も将来的に支えてくれるでしょうし。なにより、門倉光輝君が補佐役になってくれればその甘さも逆に人徳と評価されるでしょうね。陽斗の人を見極める
確かに改めて考えてみると、陽斗さまがこの家に来てからたった2年の間に親しくなった人脈はとんでもないものよね。
実質的に人生のパートナー最有力候補となった日本有数の名家、四条院家の令嬢穂乃香さま。四条院と並ぶ家格の天宮家の次男とは親しい友人という間柄だし、長男にも恩を売っている。質実剛健と実直で知られる武藤家の長男や、それなりの資産家出身者ばかりの沢山のクラスメイトとも関係は良好。さらには歴史も資産も国内屈指の錦小路家の次期当主とその将来の配偶者とも深い関係を築いている。
仮にこれ以上人脈が広がらなくても、あと10年もすればとんでもない影響力を持つことになりそう。
しかも、そんな相手が日を追うごとに増えて行っているし。
旦那様が引退する頃には陽斗さまが日本を支配していても驚かないわよ。
旦那様の後継者としての資質は十分。
もう少し勉強は必要でしょうけど、足りない部分はその過剰な人脈でカバーできるんだから。
桜子様の指摘で、旦那様も陽斗さまの交友関係を思い浮かべたのだろう。満足そうに何度か頷いてみせた。
「光輝君か。彼は良いな。大学を卒業したら是非とも陽斗の側近に欲しい」
「フォレッドの小娘が接近してるようだけど、彼なら大丈夫でしょ」
「そうだな。後は穂乃香嬢との仲がもう少し進展してくれると安心できるのだが」
旦那様がポツリと呟くが、さすがにそれには桜子様も苦笑いを浮かべるしかない。
陽斗さまが穂乃香様と出会ってから1年と8ヶ月近く。
順調に進展しているとはいっても、そのペースは亀より遅い。
だって、穂乃香様の危機を陽斗さまが劇的に救って一気に関係が深まるかと思いきや、いまだに手を握れば顔を真っ赤にし、キッスのひとつもまともにしていないとか。このままだと一線を越えるのはいつになることやら。
……やっぱり陽斗さまに色々と手ほどきをした方が良いんじゃないかしら? もちろん私が。
「渋沢、何かろくでもないことを考えていないだろうな」
ギクッ、顔に出てたかしら?
陽斗さまほどではなくても旦那様も鋭いから余計な事は考えないようにしよう。
最高の職場を失いたくはないものね。うん。
「さすがに先走りすぎなのはわかってるのだが、願わくば死ぬ前に曾孫を抱いてみたい」
曾孫どころか玄孫の成人まで現役続けそうよね。あ、いや、ナンデモナイデス。
桜子様の呆れたような目は、睨まれて目を逸らした私とアホなことを言い出した旦那様のどちらに向けたものでしょうか。聞けないけど。
小さく溜め息を吐いた桜子様は、ふと何かを考えるような仕草をしてみせると、ポツリと呟いた。
「そういえば、もうすぐ聖夜祭よね」
唐突なその言葉に旦那様が眉を寄せる。
「ん? ああ、もうそんな時期か」
桜子様の意味深な笑みが気になって仕方がないわね。
比佐子さんが怒るようなことを考えていなきゃ良いけど。
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