第153話 天使の居ない家
カチャカチャ。
パタパタパタ。
シュッシュッ。
広い屋敷のあちこちでメイドや料理人、施設管理者が日々の業務に励む音がかすかに聞こえてくる。
騒音というほどではなく普通の生活音程度なのだが、いつもより静まりかえった屋敷内では思いのほか気になってしまう。
「はぁ~……」
「彩音ぇ、さっきから煩いんだけど」
事務室のデスクで思わず出てしまった溜め息に、隣で同じく事務仕事をしているメイドが文句を言ってくる。
仕方ないじゃないの。
っていうか、貴女だって人のこと言えないわよ。さっきから全然仕事進んでないじゃない。
「う゛っ! だ、だって、癒やしがないんだもの」
彼女だけじゃない。
数十人もの人たちが働いているこの屋敷は、普段は忙しなく働く使用人で賑やかなのに、ここ数日はまるで火が消えたように静まりかえっている。
といっても別に人が減っていると言うわけじゃないのよね。
「あ~ぁ、陽斗さま、早く帰ってこないかしらね」
そう。
同僚の言葉どおり、今、陽斗さまは学園の修学旅行に行っていて不在。
この屋敷内に充満する寂寥感というか、沈んだ感じはひとえに陽斗さまが居ない喪失感からくるもの、なのよね。
アイドルロス? いや、ペットロス?
とにかく、あの、居るだけで周囲を明るく、朗らかな空気にしてくれる陽斗さまが、たった1週間旅行に行っただけでこの状態。
聞いた話だと、昨年末や夏休みに陽斗さまが別荘に行っていた間も屋敷に残っていた人たちは似たような状態だったらしい。私はどちらにも同行してたから知らなかったわ。
陽斗さまがこの屋敷に引き取られるまでは普通だったのに、一度陽斗さまの居る空気を味わってしまうと、もう居ないことに耐えられそうにない。
……まるで麻薬みたいね。
もっと酷いのが旦那様。
陽斗さまの大叔母である桜子様は元々自由人気質なので割と泰然としているけど、旦那様は陽斗さまが居ないのが淋しくて仕方ないらしく、いつにも増して眉間の皺が深くなってるし、ひっきりなしに時計やカレンダーを見ながらブツブツ言っている。
……はっきり言ってちょっと怖い。
なんか、仕事に集中できそうにないのでパソコンを閉じて事務室を出る。
屋敷で働いている人はそれなりに多いのだけど、シフトを組んでいるので実際に建物内に居る人数はそれほどでもない。
特に今は警備班の半数が陽斗さまの修学旅行先に出張中なので、建物の外も普段よりずっと少ないはず。
というか、さすがに学校行事にまで警備員を派遣するのはいくらなんでもやり過ぎだと思うのよね。
良家の子女が数多く通う学園が修学旅行先として選ぶくらいにニュージーランドは治安が良いし、当然学園側も安全には万全の体制を敷いている。
それが分かっているのに、現地の警察に要請という名目の圧力を掛けた挙げ句、10数人の腕利き警備班を送り込んでいるのだから、その爺馬鹿ぶりには呆れるしかない。
まぁ、気持ちはわかるんだけどね。
「ここもグダってるのかぁ」
何かおやつでも貰おうかと厨房を覗いてみれば、いつもなら夕飯の準備を始める時間で、しっかりと料理人たちも揃っているのにまったくと言って良いほど活気がない。
さすがにこの光景には呆れるしかないわね。
「渋沢か。そう言うがな、どうにもやる気が起きなくて。けど、仕事はちゃんとしてるぞ」
「当たり前です。屋敷には旦那様も桜子様も居るんですからね」
微妙な顔で言い訳してきたのは皇家の厨房を預かる料理長。
中学を卒業後、料亭で修行してからイタリアに渡り三つ星のリストランテで腕を磨き、帰国してから中華料理を学んだという異色の経歴を持つ人物だ。
要するに料理に関してはとんでもない好奇心と探究心で片っ端から身につけてきたらしい。
それだけに普通のレストランでは物足りず、いくつもの名店から料理長待遇で勧誘されながらも馴染めず、旦那様に拾われることになったという変わり者だ。
条件はともかく、料理を振るう相手がたったひとり、それも一年の半分以上は仕事で不在というのでは普段料理を作る相手なんて使用人たちだけ。
一流の腕を持つ料理人にしたらモチベーションが下がりそうなものなのだけど、逆に好き勝手に料理の研究に打ち込めると、それなりに楽しんでいたらしいのよね。
そんな中、陽斗さまが保護されてこの屋敷に引き取られた。
ようやく思う存分、その腕前を披露する相手が毎日彼の作った料理を口にする。
そして、あの輝くような笑顔で『美味しい!』と言うのだからその喜びはあっという間に天限突破するというものよ。
なにしろ、和田さんと比佐子さんに強制的に休日を取らされると、捨てられた犬みたいに悲嘆に暮れるくらいなんだから。
まぁ、他の料理人たちも陽斗さまが居なくて沈み気味ではあるけど、それでも料理長よりはマシなので仕事に支障はないでしょう。
私はつまみ食いを諦めて、肩をすくめながら厨房を後にした。
「だらしがないですよ! そんな情けない姿を陽斗さまに見せるつもりですか!」
外に出ようと使用人用の玄関に向かうと、リネン室前から比佐子さんの厳しい声が響いてきた。
思わずビクッとして、ごめんなさいと謝りそうになる。
けど、今回は私じゃないわよね?
恐る恐る声のほうに首を伸ばすと、洗濯を担当していたメイドがふたり、比佐子さんから叱責を受けている。
もちろん軍隊みたいに直立不動で顔を引きつらせながら。
あ~、どんな状態だったのか簡単に想像できるけど、比佐子さんに見られたらそうなるわよねぇ。これはしばらくお説教コースだわ。
見かけ上、陽斗さまが不在でも態度が変わらないのは和田さんと比佐子さんだけ。
桜子様もときおり淋しそうな顔をしているし、メイドたちは言わずもがな。
あの兄妹はまったく内心を伺わせないけど、ふたりがいなかったらこの屋敷はどうなっているのか想像するのが怖い。
私は下手に見つかって飛び火されたらたまらないので、音を立てないようにソッとその場を離れて建物の外に出る。
外からグルリと建物を回り、庭園に出ると何か、奇妙な人たちが居た。
白いツナギタイプの衛生服に面体(ゴーグル)付の防毒マスクという防護服スタイルに、背中には農家の人が使うような農薬散布のタンクを背負っている。
近くに居るのは、あれは
陽斗さまに護身術を教えている警備班の娘ね。
頭痛を堪えるように額に手を当てて、呆れた目を防護服の連中に向けているけど。
「杏子ちゃん、何をしているの?」
「あ、彩音さん。いえ、その……」
私が声を掛けると、杏子ちゃんは気まずそうに目を逸らしつつ事情を話してくれた。
警備班長である大山さんは出張中(陽斗さまの修学旅行先に)なのだけど、当然人員が少なくなっても屋敷の警備はおろそかにできない。
そもそも主である旦那様と桜子様は屋敷に居るんだからね。
大山さんもそれを踏まえて残留組に発破を掛けたらしい。
曰く、
『陽斗さまがご不在中に万が一のことがあっては申し開きができん。旦那様、桜子様の警護はもちろん、屋敷内にネコの子一匹、いや、虫の一匹すら入れるなよ! もちろん、陽斗さまの愛猫であるレミエが外に出ないようにもするんだ。陽斗さまが帰宅されたとき、ほんのわずかでも不安を覚えたり、悲しむようなことがあれば、タダですむと思うな! その代わり、見事勤めを果たすことができたら、全員が持ち回りで陽斗さまの警護を担当できるようローテーションを組み直す』
そんなことを言っていたらしい。
「……それで、もしかして、だけど、あの格好は?」
「文字通り虫一匹入れないように殺虫剤を撒いているみたいです」
……馬鹿なの?
なんか、陽斗さまが居ないこの数日で、一部の人間の知能が下がってる気がする。
ふと建物のほうに目をやると、陽斗さまの部屋のバルコニーで、レミエちゃんまでが馬鹿を見る目で彼らを見ている気がするわ。
さらに数日が経過する。
症状が悪化する使用人も増えつづけ、さすがの和田さんも表情を険しくしていたのだけど、それでもようやく陽斗さまが帰国する日がやって来た。
陽斗さまたちの乗るチャーター機が空港に到着するのは午後。
それから入国手続きを終えて学園に移動。その後解散となる予定。
もう、ね。
朝、というか、太陽も昇り始めない早朝から、メイドや料理人が大騒ぎしながら担当場所の掃除や準備をしている。
なにしろ、この1週間全然仕事に身が入ってなかったんだから、手抜かりが無いわけないのよね。
さすがの比佐子さんも半分諦めていたようだけど、そんな状態を陽斗さまに見せるわけにはいかないということ。
……この屋敷の主人って、旦那様なんだけどねぇ。
当のご本人は、今日の予定を全てキャンセルして朝からずっと玄関近くをウロチョロしてて比佐子さんに邪魔だって叱られてた。何やってんだか。
そんなこと言いながら、私も陽斗さまロスのせいで仕事が溜まりに溜まってたから大変なんだけど。
ともかく、そんなわけで、久しぶりに活気が戻った屋敷は騒々しかったのだけど、それも昼頃には落ち着く。
いや、落ち着いてはいないか。
今度はソワソワと用もないのに玄関や正門をうろつく使用人多数。
すでに送迎のリムジンは黎星学園に向かっているので、陽斗さまと合流次第連絡があるはずだから、それまでは門なんて行っても意味がないんだけど。
比佐子さんも完全に匙を投げたようで、溜め息を吐きながら肩をすくめるだけだ。まぁ、そんな鬼メイド長も、緩みそうになる頬をときどき鏡を見ながら修正しているのを私は知ってるけどね。
ちなみに、桜子様と湊、裕美はレミエちゃんを連れて陽斗さまのお迎えに行っている。
これにはメイドたちから(私を含む)盛大にブーイングが出たけど、桜子様に押し切られた。
陽斗さまの心身の状態を確認するにはふたりが適任だという言葉に逆らえず、泣く泣く陽斗さまのお迎えを断念する。
あ、涙出てきた。
ちなみに一番ごねていたのが旦那様だったのはお約束ね。
なかなか時間が進まない。
ずいぶん経っているはずなのに、さっき見たときから時計が2分しか進んでない。……壊れてるのかしら。
ほんの少し前に迎えに行っている警備班から、陽斗さまを車に乗せたという連絡を受けて、到着まで20分は掛かるというのに、使用人総出で玄関前に整列している。
誰も彼もが落ち着きなくソワソワガヤガヤ。
いい歳して、情けない。
「渋沢はどの口でそんなことを言うのやら」
ほっといてちょうだい。
焦れ焦れしつつ待っていると、正門が開いて純白のリムジンが入ってくるのが見えた。
一斉に姿勢を正し、静かに待つ。
そして、整列する私たちの前にゆっくりと横付けされた車のドアが開いた。
『お帰りなさい、陽斗さま!』
全員が声を揃えると、一瞬驚き、すぐに陽斗さまは嬉しそうな笑顔を見せた。
「ただいま!」
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