第141話 Let’s フィッシング!

 都心から南におよそ120kmの場所に浮かぶ、伊豆諸島最大の島である伊豆大島。

 島の中心に位置する三原山の火山活動によって生まれた火山島で、その噴火は日本書紀にも記されているほどだが、1986年の大噴火以降は徐々に活動は収まり、現在では巨大な噴火口を間近で見ることができる。

 面積の97%が自然公園として保護されており、トレッキングや温泉、マリンレジャーなど、比較的気軽に訪れることのできる人気観光地である。

 日本で唯一、地名に『砂漠』という単語が当てられている場所まであったりするのだ。


 そんな大島だが、もう一つ、一部の人にとって見逃せない楽しみ方がある。

 伊豆諸島周辺は黒潮が流れ込む日本屈指の水産漁場であり、釣り好き憧れの名所、なのだそうだ。

 大物から小物まで、船に乗らなくても季節ごとに様々な魚が釣れるので、初心者から上級者まで楽しめるらしい。

 そんな話をどこからか光輝が聞いてきたらしく、珍しくそれに賢弥が食いついた。

 これまで聞いたことはなかったのだが、今は空手と弟妹達の面倒をみるのに忙しくて時間は取れないものの、彼らがもう少し目を離せるようになったらしてみたいと思っていたのだとか。


「たっちゃんの祖父ちゃんが来るのって夜だろ? 毎日ビーチでってのも飽きるし、行こうぜ」

 光輝の誘いに、釣りなど全くの未経験だった陽斗と穂乃香は躊躇したものの、好奇心の旺盛なセラは賛成、壮史朗も経験者ということで、こちらも前向きだった。

「そうですな。釣りなら私が教えましょう。こう見えて釣り歴40年ですからね」

 心なしか嬉しそうに和田がそう言ったことで、2日目の予定は決まった。

 日々皇家を守るために忙しくしている和田の唯一の趣味が釣りらしい。

 1級船舶免許を持っているのも自分で船を操縦しながらトローリングをするためというのだから筋金入りである。


 そして、ここの別荘には、賓客を楽しませるための道具類も数多く用意されていて、その中にはもちろん釣り道具も一通り揃っている。

 島内にはいくつも釣具屋もあり、陽斗たちが磯に行って準備している間にそこから餌を買って持ってきてくれるということだった。

 和田は伊豆大島にも何度か釣りに来たことがあったらしく、初心者でも安全に楽しめる場所に案内してくれる。


 海に囲まれた大島は釣り場の宝庫、なのは確かなのだが、当然中には危険な場所や上級者でなければ難易度が高い場所、逆に安全だけど小物が多くて好みが分かれる場所などもあるらしい。

 警備班の運転で陽斗たちが到着したのは島の西側、漁港にも近い磯場。

 磯と言っても海面からはそれほど高さがなく、多少岩がゴツゴツしているもののそれほど足場は悪くない。

 波は高くなく、風も潮の流れも穏やかな場所だが、深さはそれなりにあるのでカンパチやスズキ、鯛やシマアジも釣れるという。


 釣り場に到着するや、一緒に来ていたメイドたちは手早く竿立てや椅子、日よけのタープなどを設置・固定する。

 陽斗たちは岩で怪我をするのを防ぐために長袖、長ズボンにライフジャケットと帽子、さらには腰に安全帯を巻いてロープを地面に固定したアンカーに繋ぐ。

 一見大げさにも見えるが海というのは何があるかわからない。万が一にも事故があってからでは遅いのだ。


「さて、それでは釣るための準備を始めましょう」

 ほどなく生き餌も届き、和田が陽斗たちにすでに仕掛け(針や重りなど、釣るための小物類)を取り付けた釣り竿を手渡していく。

「ルアーは使わないんすか?」

「今回は慣れていない方ばかりですから、より釣れやすい生き餌を使いましょう。疑似餌は少々技術が必要ですからね」

「こ、コレを付けるのか?」

「あ、あの、わたくしはちょっと……」


 和田が説明しながらケースに入った生き餌を開けると、壮史朗と穂乃香が顔を引きつらせ、陽斗と賢弥は興味深そうに覗き込む。

 海釣りの餌としては最もポピュラーなアオイソメがウネウネ動くのは人によってはかなり気色が悪い。

 とはいえ、生き餌としてはかなり優秀なので、初心者が使うのに適しているのだから困りものだ。

「無理をなさらなくても、言ってくだされば私が餌を付けますので」

 和田がそう言うと、穂乃香はホッとした顔をするが、壮史朗に対しては光輝が皮肉っぽく笑みを見せる。


「んだよ、ミミズみたいなもんじゃん。なに? 触れないの?」

「ふんっ、挑発のつもりか? 昨日、僕に負けたからって小さい奴だな」

「負けてねぇし! フライングがなきゃ俺の勝ちだろ!」

「言い訳がましいな。油断したほうが間抜けなだけだ」

「チッ! んじゃ今度は釣りで勝負だ」

「……いいだろう。方法は?」

「んなもん、チマチマ小物の数競ったってしょうがねぇだろ。どっちが大物釣り上げるかだ!」


 前日に続き、またもや角を突き合わせるふたりに、陽斗もさすがに少し呆れたような目を向ける。

 沖の岩場までの競争はどうやらほぼ同着だったらしいのだが、その結果には互いに納得しておらず、ずっと言い争いを続けているのだ。

 といってもそこまで険悪な雰囲気というわけではなく、どこかじゃれ合っているようにも見えて、最初はハラハラして止めようとしていた陽斗も、今では困ったように笑うだけだ。


「アレはほっとけば良いんじゃない?」

「ああ。それより餌の付け方はコレで良いのか?」

「うん。でも垂れ下がった部分はどうするんだろ」

 変な盛り上がり方をしているふたりをスルーすることにした陽斗たちは、和田の見本を見ながらイソメの口から針を通して餌にする。

 仕掛けについている針は3つなので、その全てに丁寧に引っかける。

 生きているのでウネウネと動くし、手触りはヌルヌルしていてはっきり言って気持ち悪いのだが、陽斗はまったく気にしていないようでむしろ楽しげですらある。

 賢弥も特に苦にすることなく付け終わり、セラは「うわぁ」とか「キモっ」とか言いつつも人の手を借りることなくやり遂げる。


「うりゃっ!」

「負けるか!」

 少し離れた場所で張り合っているふたりを余所に、穂乃香のほうも和田に餌を付けてもらってから教わったとおりに竿を振って仕掛けを飛ばす。

「あ、あら?」

 思い切りが足りなかったのか、穂乃香の仕掛けが落ちたのはほんの目の前、磯からほんの1m先だ。

 

「慌てなくて大丈夫ですよ。リールを回して糸を巻いてください。そう、ゆっくりで、おや? 何か掛かったようですね」

「え? あ、え? ど、どうすれば」

 失敗してシュンと落ち込んだ穂乃香が、和田に言われたとおりリールを巻いていくと、突然糸が引っ張られる。

「落ち着いて。巻くのを止めて、そうそう、しばらく暴れさせればじきに大人しくなります。…………もういいでしょう。糸を巻いて、そこで竿を立てて」

「わっ、釣れましたわ!」

「穂乃香さん、スゴい!」

 勢いよく海面から飛び出してぶら下がっていたのは20cmほどの魚だ。


「真アジですな。小ぶりですが磯の根付き(回遊せずに磯を住み家にする魚)で身が太いので塩焼きにすると美味しいでしょう」


「陽斗さん、初めて釣りましたわ!」

「一番乗りだね! スゴい!」

 ピチピチと暴れる真アジをぶら下げたまま穂乃香が嬉しそうにはしゃぐ。


「あっ! こっちも何か掛かった! わっ、わっ!」

 今度はセラの竿が大きくしなる。

 元々物怖じしないセラなので、言葉とは裏腹に落ち着いて糸を巻き取っていく。

 そしてほんの数分で、30数cmのメジナを釣り上げる。

「むっ!?」

 賢弥もすぐに後に、さらに大きな魚が掛かり、こちらは誰の手も借りずに危なげなく岸に寄せて網ですくい上げた。


「みんなスゴい!」

「ビギナーズラック、いや、和田さんの選んだ場所が良かったんだろう」

「いや~、釣りって楽しいわね」

「そうですわね。わっ、また?!」

 話している間に穂乃香の竿がまた引かれ、和田の手伝いで30cm近い真アジが釣れた。

「あはは、今日の晩ご飯はお魚にできそうだね」

「いっぱい釣って料理人さんをビックリさせてやりましょうよ。って、陽斗くん引いてる!」


 自分の竿をそっちのけで穂乃香たちに向かって拍手していた陽斗はセラの声に慌てて竿を持ち上げる。

「うわわっ!」

「陽斗様!」

 途端に強く引かれて前に倒れそうになるのを和田が抱きかかえるように支える。

「かなり大きそうです! 落ち着いて、無理にリールを巻かなくて良いですよ。引っ張らせながらロッドを起こして、下げるのに合わせて巻いていくんです」

「ん゛~~!」

 陽斗は顔を真っ赤にしながら全身の力を使って頑張る。


 体感的にかなりの時間、実際は10分程度だろうが、必死の引っ張りっこで少しずつ動きが鈍くなってきた。

 和田の力も借りながらリールを巻き取り、ようやく岸に魚影が寄ってきたところを賢弥がすかさず網で掬って格闘を終えた。

「ほう、シマアジですか。結構な形です。とても美味しい高級魚ですよ」

「40cm、4kgはありそうだな」

 疲労困憊ながら嬉しそうな陽斗に、穂乃香とセラが拍手で祝福する。


 場所やタイミングが良かったのか、陽斗たちの運が天限突破しているのか、その後もひっきりなしにアタリがあり、真アジやメジナだけでなく真鯛やカンパチ、イサキ、カレイなど様々な種類の魚が釣れた。何故かセラはタコやアオリイカまで釣り上げていたが。

「ふぅ。楽しいけど疲れたわねぇ」

「釣れすぎるのも問題かもな。いつもこうならないだろうし」

 爆釣と言える釣れ具合に、セラと賢弥が笑顔のまま溜息を吐いている。

 穂乃香は数匹釣った後は陽斗の応援に回っていて、楽しそうに竿を振る姿を見て微笑んでいる。


「そろそろ終わりにしましょうか。これ以上釣ってしまうと使用人たちが居ても食べきれないでしょうし近隣にお裾分けするにも限度がありますから」

 和田の言葉に陽斗たちが頷く。

 実際、すでに魚屋で売っていてもおかしくないほどの種類と数の釣果を上げている。明らかに釣りすぎである。

 午前中はたっぷりと楽しめたのだから十分だろう。


「それじゃあ片付けるね」

 そう言って陽斗はリールを巻き取り始めるが、何かが掛かったように少し引きがあった後、動かなくなってしまう。

「あれ? 引っかかった?」

 何度か強く引っ張ったり緩めたりしてもビクともしない。

「根掛かりしましたか。いや、コレは何か掛かりましたね」

 海底の岩や木に針が引っかかる根掛かりと呼ばれる状態になったかと思い、陽斗の竿を和田が受け取る。

 根掛かりを外すのは釣りの基本だが、それなりに技術が必要だ。

 無理に引っ張れば道具を壊してしまったり、途中で糸が切れて海中汚染してしまうことになる。


 和田は何度か竿を引いたり糸を弾いたりしながら外そうと試みるが、すぐにそれが根掛かりなどではないことに気づいた。

 だが、糸を巻くとわずかに引き返すものの、普通の魚のように暴れたりする様子がない。

「おそらく岩礁の隙間に入り込んで出てこないのでしょう。初心者には難しいので私が釣り上げてもよろしいですか?」

 もちろん陽斗に否やがあるわけもなく、和田は陽斗が頷くのを見てから何度か竿を上下させ、一気にリールを巻き上げる。

 すると、先ほどまでビクともしなかったのが大きく竿をしならせながらもスルスルと糸が巻かれていく。


 そして、

「うわっ!」

「キャッ! な、なんですの? コレは」

「ヘビ、じゃなくて魚? グネグネ丸まってるけど」

 海面近くまで上がってきたのを再び賢弥がすくい上げて、重そうに陽斗の目の前に降ろした。

 茶褐色で長く、とぐろを巻くように身をくねらせている。

 ヒレがあることから魚であることはわかるが、頭や口が大きく、鋭い歯がびっしりと生えていて少々不気味な姿だ。


「えっと、ウツボ?」

「正解です。おそらく陽斗様の仕掛けに小魚が食いつき、それを丸呑みしたのでしょう。ときどきあることですが、コレが掛かると仕掛けや糸がねじれて駄目になってしまうので釣り人からは嫌われることも多い魚です」

 穏やかに笑いながら説明しつつ、器具を使ってウツボに掛かった針を外していく。

「き、気持ち悪い見た目ですけれど、もしかしてそれも食べるのでしょうか」

「さ、さすがに遠慮したい、かなぁ~」

 いまだにグネグネと身体をくねらせるのを見ながら女子ふたりが嫌そうに言う。が、次の和田の言葉で態度を一変させる。


「確かに見た目はあまりよくありませんし小骨の処理は面倒ですが、淡泊ながら非常に美味しいですよ。それに、コラーゲンがとても豊富で、美容にも良いそうです。っと、ははは、今晩のおかずにしてもらいましょうか」

 見た目が少々悪かろうが、美味しくて美容に良いと聞いて黙っていられる女性はまず居ない。

 それは若さ溢れるJKであっても同じようで、その台詞に穂乃香とセラが目の色を変えてにじり寄ってくるのを見て、和田がほんのわずかに身体をのけぞらしながら言い添えたのだった。


 それから、大きなクーラーボックス二つに釣った魚を目一杯詰め込み、別荘に戻ることになった。

 ちなみに光輝と壮史朗の勝負だが、二人揃って十数匹の魚を釣ったものの一番大きいのが30cmほどの真アジ。

 5mm差で光輝の勝利、だったのだが、陽斗たちの釣果を見て仲良く落ち込んでいたりする。

 それをセラが盛大に煽ったので、帰りの車の中では互いに慰め合っていたようなので順調に和解は進んでいるのだろう。


 はしゃぎすぎて少しばかり疲れていたということもあり、午後は各自でのんびりと過ごすことになった。

 光輝と壮史朗、セラの3人はビーチに、賢弥は近くにあるという温泉施設に行き、陽斗は穂乃香と一緒にガラス張りで開放的なテラスで読書。

 照れくさそうに寄り添いながら一つのソファーに並んで本を読んでいるふたりの姿に、両家のメイドたちが砂糖を吐いていたとかいなかったとか。


「陽斗様、少しよろしいでしょうか」

 夕方になり、食事の準備ができたと聞いて陽斗は食堂に向かう。

 陽斗たちの釣ってきた魚づくしということで足取り軽やかだったのだが、そこに比佐子から声が掛かる。

「比佐子さん? どうかしたの? ひょっとしてお祖父ちゃんが何か?」

 夕方にはこちらに到着するはずの重斗はまだ来ておらず、心配になった陽斗が訊ねる。

 比佐子の表情はいつもどおり凜として深刻そうな様子はないが、やや眉を寄せて困っているようにも見える。


「いえ、旦那様に何かあったというわけではありませんが、事情があって到着は明日になるそうです」

「そう、ですか」

 事故や病気ではなさそうなのにはホッとしたものの、遅れることは残念だったようで少し淋しそうに顔を伏せる。

「それで、なのですが、旦那様からお話しがあり、もし陽斗様が嫌でなければ人と会ってほしいと。もちろんわずかでも躊躇するのであれば断っても構わないそうです」

「人と? お祖父ちゃんがそう言ってたの?」

「はい。旦那様と仕事上の付き合いのある方だそうです。ただ、別に断れないような相手ではありませんので陽斗様の意思に任せると。おそらく将来的な人脈面を考えて会っても損はないというくらいの意味でしょう」


 比佐子の言葉に陽斗は少し考える。

 これまで重斗が社交を強要してきたことはないし、誰かと親しくなるように指示を受けたこともない。

 それを考えれば、今回のことも言葉どおり断っても問題ないのだろうが、そんな重斗が、できれば会ってほしいというのが気になっていた。

 陽斗は可能な限り重斗の期待に応えたいと思っていたし、事情があるなら知りたい。

「あの、その人に会ってみようと思います。その時はお祖父ちゃんも一緒ですよね?」

「もちろん旦那様は立ち会われますし、兄や私、それから大山さんも側で控えますので安心してください」

 比佐子の返答に、緊張しながらもしっかりと陽斗は頷いた。


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