第133話 ブラックからの解放

 どこにでもありそうなオフィスの中は、異様なほどピリピリとした空気に包まれている。

 10人ほど居るスタッフは一名を除いて、皆血走った目でモニターを睨みながら一心不乱にキーボードを叩く。

「チッ! おい吉田ぁ!」

「……なんですか?」

 ひとりイライラした様子でスマホをいじっていた男が、一番近くのデスクにいた男性を呼ぶ。

 吉田はその声に、顔はモニターに向けたまま目だけを男に向けて無愛想に返事をする。


「R社の進捗報告書、明後日の会議までに作っとけ」

「……それ、課長の仕事ですよね。俺、K社のシステムを完成させなきゃいけないんで」

「んだとぉ? 上司の指示に従えねぇってのか!」

「無理なものは無理です。納期遅れたら課長も説明に呼び出されますけど、良いんですか?」

「チッ! んじゃ須藤がやれ」

「デバッグが終わらないのでそんな時間ないです。ってか、部内の誰もそんなことしてる余裕ないです。課長も自分の仕事くらい自分でやってください」

 常にないほど辛辣な反論が返ってきて男の顔が怒りで赤くなる。


「上司に向かってなんだその態度は!」

 時代錯誤なことを怒鳴るが、須藤と呼ばれた男も耐えられないとばかりに大きな音を立ててデスクを叩く。

「元はといえば課長が黒木に仕事押しつけすぎたからこっちにしわ寄せがきてるんですよね! おまけに勝手にクビにするとか言って、アイツの案件がまるっと増えたんですよ。無理に決まってるじゃないですか! スマホゲームなんかしてないで仕事してくださいよ!」

 男の苛立ちなど比較にならないほどの怒りを向けられて、さすがに二の句が継げなくなる。


 SEやプログラマーという仕事は専門的な技術職だ。

 当然、ひとりが抜けてすぐに別の人間に代わりが務まるほど簡単なものではないし、一定以上のスキルを身につけさせるには時間が掛かる。

 さらには、これらの職種というのはある意味センスが必要で、優秀なSEが抜けた穴を人数でカバーすることは難しい。

 単に人数さえそろえればなんとかなるという仕事ではないのだ。

 その点で言えば、黒木六郎は元々の適正と、散々無茶な仕事を割り振られてなんとかこなしているうちに職場では中核を担うほどの技術を身につけていた。

 作業速度も精度も、そう簡単に埋め合わせができないほどの仕事をしてきたということだ。


 課長という役職に就いていながらこの男はそのことをまるで理解していないようだが、押しつけられた同僚たちは、今まさにそれを実感しているわけだ。

 ただでさえ他社より悪い条件で仕事を取ってきては無茶振りをされていていっぱいいっぱいだったのに、いきなり仕事が増やされ全員が爆発するのを堪えている状況だった。

 そんな空気の中では、さすがのパワハラ上司も部下たちの暴発寸前の雰囲気を感じないわけにはいかないのだろう。

 男は小さく舌打ちを漏らすと、無言のままパソコンを立ち上げたのだった。


「失礼します」

 そんな声と共にオフィスのドアが開いたのはその直後だった。

「あん? っ、黒木!」

 男が目を剥くが、六郎はそれに小さく会釈をしただけで自分に割り当てられていたデスクに向かう。

「黒木ぃ、ようやく戻ってきやがったか。まぁいい、仕事が溜まってるから、またキリキリ働けよ」

 先ほどまでの不機嫌さはどこへやら。

 ニヤニヤと笑みを浮かべて媚びるように六郎に声を掛けた。


「……今日は私物を取りに来ただけです。それに俺はクビになったみたいなんで」

「あれは、ちょっとだらけてる部下に発破を掛けただけだよ。テメェも少しは使えるようになってきたし、調子に乗っちゃとんでもないヘマをするからな」

「俺は戻るつもりはありません。一応お世話になりましたとは言っておきますけど」

 いつになくきっぱりとした物言いに、男だけでなく部署内の同僚たちも驚いたようにざわめく。

「はぁ? テメェみたいな低学歴陰キャがココを辞めてどこで働くってんだ? 今回だけは許してやるから、他の連中にも謝れよ。みんなテメェの半端な仕事のせいで苦労してるんだ」

 あまりに勝手な言い分。

 だがそれを遮ったのは六郎ではなく、その後ろから響いた女性の声だった。


「話には聞いていましたが、ずいぶんと身勝手な上司の方ですね」

「……誰だ?」

 不意に知らない女性から声を掛けられ、男が訝しげに眉を上げる。

 どうやら六郎が部屋に入ってきたときからドアのところに居たらしい。

「初めまして、弁護士をしている渋沢と申します」

「べ、弁護士、だと?」

 彩音がそう言って名刺を手渡すと、男は明らかに動揺して見せた。


「はい。本日は依頼人であるある黒木さんの退職手続きと、未払い賃金の請求のために同行しました」

「み、未払い賃金? 給料はちゃんと支給されているはずだ!」

「時間外労働と22時以降の勤務に対する深夜手当ですね。御社はみなし労働時間制を採用しているということですが、規定されている時間を越えた業務に関しては労働基準法に定められた割増賃金を支払う義務があります。みなし労働時間とすれば何時間働いても割増賃金を払わなくて良いというわけではありませんから。こちらが過去2年間の黒木さんの時間外労働、深夜割増、法定休日出勤の時間と未払い分の明細です」

 彩音が差し出した請求書類に記載された金額を見て、男は目を剥く。

 そこに書かれていたのは黒木の2年間の賃金の3倍を超える金額だった。

 月に200時間を越える時間外労働に、割増分も加算されているのだから当然とんでもない額になっている。


「ふ、ふざけるな! おい黒木! テメェさんざん会社に世話になっておきながら恩を仇で返すつもりか?!」

 冷然とした態度の弁護士ではなく、六郎に矛先を変えて怒声をあげる。

「無茶苦茶こき使った挙げ句クビにしておいて恩もなにもないですよ。それに、働いた分の給料をもらうのは当然だと思いますけど」

 気弱で男に逆らったことなどなかった六郎が、まるで馬鹿にしたように返すとは思ってなかったのか、男は口をパクパクしながら言葉にならない声をわめき散らす。


 と、そこに、オフィスの奥のドアが開き、悪趣味な柄シャツ姿の壮年の男が眉をひそめながら出てきた。

「なんの騒ぎだ?」

「しゃ、社長! いえ、その、ついこの間勝手に会社に来なくなった奴が未払いの給料を払えとか言ってきて」

 余計な事を言われる前に、と考えたのか、男は矢継ぎ早に柄シャツ男に説明する。

「ふん、我が社はきちんと勤怠報告の時間分給料は払っているはずだぞ。なんの証拠があって未払いなどと。言いがかりではないのか?」

「黒木さんが日々の業務を詳細に記録していましたし、メール履歴や取引先との通話記録などから確認が取れています。もしそれでも疑うなら御社のサーバーに残っている、パソコンのアクセス履歴を調べましょうか?」


 表情ひとつ変えないまま彩音がそう言うと、社長は不快そうに顔を歪めた。

「弁護士さん、アンタはまだ若いからわからんかもしれないが、会社経営ってのは綺麗事じゃないんだ。馬鹿正直に全部の法律を守ってたら成り立たないぞ。会社を維持するってことは社員の生活を守るってことでもある。それとも、法律を守るためなら社員はどうなっても良いと考えているのかな?」

 勃然とした態度のまま、まるで未熟な若者に上から目線で説教するかのように言う社長に、彩音はここにきて初めてニッコリと笑みを向ける。


「法律を守ったら経営が成り立たないなら、そんな会社潰れれば良いんじゃない?」

「な?!」

 これ以上ないくらいキッパリと言い切られ、社長も課長の男も絶句する。

「そもそも他社よりも安い金額、それも適正価格より大幅に下げた条件で契約をしているから従業員に無理を強いているわけでしょ? そんなのは経営とは言わないわよ。そんな会社が存在するだけでまともな企業が経営を圧迫されて働いている人も迷惑するんだから、さっさと倒産してくれないかしら」

 辛辣を通り越した罵倒に近い指摘。

 内容が間違っていないだけにより一層苛烈である。


「自分と一部の幹部社員だけを優遇して、社員を過酷な環境に押しやって利益を得るなんて、どちらにしても長くは続かないわよ。そんなことより、未払い賃金は速やかに支払ってちょうだい」

「そんな大金がすぐに用意できるはずないだろう!」

「無駄に高い役員報酬の半分程度でしょ? それに、過重労働とパワハラの慰謝料は会社と上司の方それぞれに改めて請求させていただきますので。あ、そうそう、過去に退職された方からも依頼されているから、そちらのほうもお願いしますね。今でも通院されている元社員もいるらしいのでそれなりの金額になると思うけど頑張ってください」


「ふ、ふざけるな!」

「そ、そうだ! それに、黒木! こんなことして、この業界で再就職できなくなっても良いのか?」

 絶叫するように怒鳴る社長と、彩音相手ではどうにもならないと矛先を六郎に変えて脅しを掛ける課長。

 だがそれにも六郎は肩をすくめただけだ。

「文句があるなら法廷で争いましょう。あと、黒木さんはすでに再就職先が決まっているので心配には及びません。ちなみに、この会社とは比較にならない大企業ですよ。スキルと経験をずいぶんと評価されてますから問題ありませんね」

「………………」


 もはや反論することもできず彩音を睨み返すことが精一杯のふたりに構わず、六郎は自分のものだったデスクから私物を鞄に放り込み、ロッカーの荷物も回収する。

 泊まり込みのためにいろいろ用意していたためそれなりの量になってしまった。

「それじゃ、お世話になりました」

「私のほうはまた近いうちに訪問させていただきますので」

 六郎と彩音がそう言って一礼する。

 それに対する返事はない。

 社長たちはもちろん憎々しげに睨んできているし、同僚たちもどこか不満そうな、腹立たしげな目で立ち去る六郎たちを見送った。


「気にすることはありませんよ。彼らも会社の被害者ではありますが、黒木さんにとっては加害者でもあるんですから」

「そう、ですね」

 六郎が課長に無茶な仕事を押しつけられ、ボロボロになりながら頑張っていても、誰もかばったり手伝ったりはしてくれなかった。

 もちろんこれまでに何人かの同僚は六郎に同情して手伝ってくれたりしたが、その人たちはだれも会社に残って居らず、全員が耐えかねてだったり身体を壊したりして退職していった。

 そういった経緯を聞いた彩音は過去に退職した社員たちに会って未払い賃金と慰謝料を請求する訴えを起こすことにした。

 中には心の病気を発症して就業が困難になった人も居たため、誰もが喜んで彩音の提案を受け入れたのだ。


「まぁ、これだけじゃ終わらないけどね」

 彩音がボソッと呟いたが、ビルの入り口から入ってきた集団に気を取られていた六郎の耳には入らなかったらしい。

 十数人の、夏だというのに上下のスーツをかっちりと着込んだ男女。

 数人は畳まれた真新しい段ボールを脇に抱えている。

 彼らと彩音はすれ違う瞬間、小さく頷き合った。



「お帰りなさい。大丈夫でしたか?」

 六郎が自分のアパートに帰ると、玄関を開けた途端に部屋の奥からトテテテと陽斗が走り寄ってきて、心配そうな顔で訊ねた。

「渋沢さんのおかげでそれほど文句も言われずに退職できました。あ、有休消化があるから一応まだ辞めてないのか」

「有給休暇の買い取りはできませんから、退職日は来月末になりますね。それもきっちり請求しますから安心してください。どちらにしても次の会社に入社するのは再来月からなので、その間に引っ越したり手続きしたりできますから」

「それよりも、しっかり身体を休めないとダメだよ」


 六郎の体調がある程度回復して退院したのはつい先日のことだ。

 本人としてはもうすっかり元に戻ったような気がしているのだが、医師にはまだしばらくの間は無理をしないようにと言われている。

 暑いさなかでもあるので引っ越しを終えたら久しぶりにゲームをしたりマンガを読んだりしてのんびり過ごす予定である。

 ちなみに、六郎の新しい職場も、陽斗が穂乃香に相談したところ四条院家が経営するグループ会社のシステム開発部門を紹介され、面接を経て入社が決まった。

 六郎も聞いたことがある大手企業で、ちょうどIT関連の人材が不足しており優秀な技術者を募集していたため、六郎の実績を話すとグループトップである四条院家当主四条院彰彦自らが面接し採用されたのだ。


 職場が都内のため引っ越す必要があったが、住居も会社で用意してくれるらしく、必要なものも全て揃っている。

 収入も、基本給だけでも前職の倍以上で、さらに実績に応じて手当も付くらしい。

 六郎にとっては至れり尽くせりすぎて逆に恐いくらいだ。

 とはいえせっかくのチャンスを逃す気にはなれないし、前の職場に未練などない。

 雇用契約書を穴が開くほどしっかりと確認した上でサインしたというわけだ。


「でも、ちゃんと払ってくれるんですかね? あの社長のことだから有耶無耶にしたり、お金を隠したりするかもしれないです」

 六郎がそう懸念を口にすると、彩音がクスリと笑みをこぼす。

「多分その心配はありません。私たちと入れ違いに国税局の査察と労働局の監査が入りましたから全ての勤怠データや帳簿、経理書類は押収されて関係者全ての資産が監視されます。倒産する前に全て回収できると思いますよ」

 あれだけブラックな経営をしていたのだ。経費の水増しや会社資金の私的流用、脱税などがあっても不思議ではない。

 叩けば埃などいくらでも出てくることだろう。


「本当に、俺みたいな見ず知らずの人間のために、なんてお礼を言ったらいいのか」

「僕がしたかっただけだから気にしないでください。それより、僕たちがいろいろと勝手にしちゃって、迷惑だったらいつでも言ってほしいです」

 陽斗の言葉に、六郎は慌てて首を振る。

 確かに人によっては仕事や人生に口を出されたくないと言うだろうが、六郎にとっては陽斗に助けられたのはこの上ない幸運だったと心から思っている。

 さらには、あの会社で世話になった人たちへもわずかながら恩返しができたかもしれないのだ。


「でも、黒木さんみたいに大変な思いをしている人って、大勢居るんですよね」


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