第132話 助ける理由

 熱中症で倒れた六郎が、仕事のことを思い出して慌てて立ち上がったのを制止したのは小さな男の子、ではなく、れっきとした高校生男子! の陽斗である。

「ダメです」

 そう言いながらバッグに伸ばされた六郎の手を掴んで握りしめる。

「キミは……」

 六郎が驚いた顔で陽斗を見つめるが、彼はというと、怒ったように頬を膨らませつつ睨んでいる。が、ハムスターの威嚇ほども迫力がない。


「今、また無理をしたら今度は本当に病気になっちゃいます! 仕事が大切なのはわかりますけど、もう少し回復するまでは休んでください」

 きっぱりとした口調で六郎の行動をたしなめる陽斗に、思わず『子供に何が分かる』と定番の台詞が脳内をよぎる。

 だが、それが口から出ることはなかった。

 幼くすら見える陽斗の目は真剣で、どこか悲しんでいるかのように思えて反論することができなかったのだ。


「……心配してくれてありがとう。けど、終わらせなきゃいけない仕事があるんだ。クビになったら困るしね」

「それでもダメですよ。仕事は沢山ありますけど、黒木六郎さんって人はひとりしかいないんです。仕事って生きていくためにするものでしょう? それなのに身体を壊したり死んじゃったりしたら何にもならないです」

 青臭い子供の考え。

 それはそうなのだが、その言葉を六郎は頭ごなしに否定することができなかった。

 六郎自身、なんのために働いているのか常日頃から考えずにいられないのだから。

 実際、母親や妹のことがなければ正社員の立場を失おうとも退職していたかもしれない。


「当院から職場へは簡単に事情を説明してしばらくの入院が必要なことを話しています。もちろん私どもが入院を強要することはできませんが、医師の立場からしっかりと療養することをお勧めしますよ。いわゆるドクターストップというやつです」

「どちらにしても今日はもう時間が遅いですから、明日にでも直接会社に状況を連絡されてはいかがですか?」

 医師と看護師にまでそう言われれば、元来内気でコミュ障気味の六郎としてはそれ以上我を通すこともできない。

 それに、体調も回復したとは言えず頭痛も治まっていないのだから大人しく従うことになったのだった。



 翌日。

 数ヶ月ぶりに訪れた二桁時間の睡眠は検温に来た看護師によって中断された。

 たっぷりと寝たものの、その割には体調は回復せず、逆に少しばかり発熱する始末。

 医師曰く、これまで気持ちが張り詰めていて自覚がなかっただけで、身体のほうは限界にきていた。入院したことでようやく生理機能が正常に近づいたのだということだった。

 要するに、この不調が現在の六郎の正しい姿ということらしい。


 そんな中で診察やいくつかの検査を受け、再びベッドに戻ってきたのは昼近かった。

 気怠い身体を横たえた直後、昼食が運ばれてきた。

 検査のため、朝食は摂れなかったのでほぼ30時間ぶりの食事である。

 もちろん薄味で消化の良いものばかりなので、まだ若い六郎にとっては味気ないと思える内容ではあったが、体調不良に加えて丸一日以上の絶食が重なり十分満足できるものだった。


「はぁ~……嫌だけど、いい加減連絡しなきゃマズいよなぁ」

 食事を終えてなんとか頭が回るようになった六郎が、ベッドサイドのラックに置かれたままのスマホに目を向けてため息を吐く。

 本心としては見たくない。

 が、そんなわけにもいかないだろう。

 午前中は診察や検査などで忙しかった、というほどでもないがそれでも自分自身に言い訳ができたのだが、午後は休んでいるように言われただけで、特にすることはない。

 それに、六郎の病室はひとり部屋で、特に電波の干渉を受ける医療機器もないのでスマホを使っても問題ないらしい。

 となればやはり会社に連絡しないわけにはいかない。


「あ、充電切れてる」

 意を決してスマホの画面を覗き込む、しかしその無機質な黒いガラスが点灯することはなく、電源ボタンを押しても反応はない。

 仕方なくベッドから起き上がり、バッグの中からゲーブルを引っ張り出す。

 家に帰れないことが多いのでバッグには常に予備のものが入れてあるのだ。

 ラックに設置されているコンセントにUSBのタップを差し込みケーブルをスマホに繋ぐ。

 数分待ってから電源ボタンを押すと無事に起動してくれた。


「げっ! なんだよこの着信と通知の数」

 画面を開いた途端に目に入ったのは100件を超える着信と数十件の留守電を知らせる通知、それからそれを上回るSNSの通知件数だ。

 誰が連絡してきたのかなんて考えるまでもない。

 連絡を取り合うような知り合いなど片手で数えるほどしかいないし、それすらも最近は仕事が忙しすぎて音沙汰がないのだから会社関係に決まっている。

 

 恐る恐る履歴を見ればやはり会社から。

 クソ上司はもちろんだが、おそらくは命令されて電話してきたのだろう同僚からのものが多い。SNSの通知も同様だ。

 留守電も溜まっているが、いちいち聞く気にもならない。

 ちなみに六郎のスマホは会社支給のものではなく私物だ。

 通信量も通話量も全て自腹で、会社からの補助は一切ない。

 仕事の打ち合わせなどするとかなりの長時間通話をしなければならないが、それだけでもかなりの負担となっている。


 ゴクリ。

 冷や汗を流しつつ唾を飲み込む。

 条件反射的に震え出す手をなんとか押さえ、上司の連絡先をタップする。

 トゥルルルル、プッ。

『黒木、テメェ! なに仕事さぼってんだぁ! 基本設計はどうした!! 今すぐ持って来い!』

 ワンコールで出るなり罵倒が飛んでくる。


「あの、すみません、病院から電話がいっていると思うんですけど、俺、今入院してて」

『んなこたぁどうでもいいんだよ! 俺はテメェに、今日までに基本設計作っとけって言ったんだ! 死んでも間に合わせるのが社会人の常識だろうが! 入院するなら今抱えてる仕事全部片付けてからに決まってんだろう!』

 その言葉に六郎が絶句する。

 さすがに言っていることが無茶苦茶だ。

 抱えてる仕事全部といえば、どんなに頑張ったって最低でも2週間はかかる。きっと、いや、間違いなくその間にもドンドン仕事を押しつけてくるに違いないだろう。

 身体を休めることのできる日など永遠に来るはずがない。


「……無理です」

『なんだと?』

「医者からはしばらく入院と言われていますし、退院しても当分は安静が必要だと。だからしばらくは会社に行けないです。電話くらいならできるんで、ある程度は引き継ぎできるとは思いますけど」

 六郎は顧客からクレームを受けないよう、また、上司からの理不尽な追求を受けたときのために普段からしっかりとタスク管理をしていた。

 作業途中のものも全て把握しているし、作業の進捗や次に何をしなければならないかも、テキストファイルにしてその都度更新し、会社の共有フォルダに保存している。

 同僚のSEが見ればそれだけでだいたいは対応出来るはずだ。


『テメェの身体なんて知ったことか! ゴチャゴチャ言ってねぇでさっさと出社しろ! それができないならクビだ!』

 さらなる怒声に、六郎が感じたのはショックではなく虚しさだ。

「クビ、ですか?」

『役に立たない奴なんざ、会社には必要ねぇからな。上司の言うことに逆らう奴もだ。まぁ、テメェみてぇな低学歴クソ陰キャが再就職できるとは思えねぇけどなぁ。それが嫌なら、そうだな、さすがに俺も鬼じゃねぇ、明日まで待ってやるから朝一で基本設計作って持って来い。わかったか』

「……もういいです」

 六郎はそれだけ言って電話を切った。

 それから急いで何人かの同僚に抱えている案件と進捗のデータの場所をメールで送り、スマホの電源を落とす。

 どうせ掛かってくるのは会社ばかりだし、データに記載してある内容以上には病院から対応出来ない。


「はぁ~、仕事、探さなきゃな」

 ため息交じりにそう言ってベッドに身を投げ出す。

 ついさっきまでは一日も早く体調を元に戻して会社に復帰するつもりだった。

 あの会社がブラック企業なのはわかっているし、先のことを考えると不安で仕方ないのだが、就職難の中で拾ってもらったことに少しばかりの恩を感じているし、何よりまがりなりにもわずかでも役に立っている、必要とされていると思っていた。

 けれど、先ほどの上司の言葉で気持ちがプッツリと切れてしまった。

 会社に戻ったところでこれまでのように自分を犠牲にして働くことはできそうにない。


「こういう場合って失業保険とかすぐにもらえるのかな? もらえてもそれだけで生活できるかわからないし、仕送りしないわけにいかないからなぁ。できるだけ早く仕事見つけないと」

 幸い、入院中は時間だけはたっぷりある。

 このまま個室に入院していて良いみたいだし、病院都合なので差額ベッド代も取られないらしい。

 だから病室でスマホやパソコンを使っても大丈夫だと説明された。


 とにかく求人サイトをチェックして自分でも入れそうな会社をピックアップしようと再びスマホの電源を入れる。

 起動した途端に電話の着信音が鳴るが、発信者名を見て無視することに決めた。同時に拒否設定にする。

 ブラウザを開いて検索画面で『転職サイト』と入力。

 一番上に表示された求人をタップしようとしたとき、ドアがノックされた。


「あ、はい、どうぞ」

 六郎はスマホを枕元に置いて身体を起こす。

「失礼します。黒木さん、体調はどうですか?」

 そう言いながら笑顔を浮かべ、病室に入ってきたのは陽斗だ。

 昨夜、何歳も年下の学生にたしなめられた六郎としては少々気まずいが、こうして気にしてくれているのは素直に嬉しい。

 それに、思い返してみれば、倒れた六郎を助けてくれたのに、まだお礼はおろか名乗ってすらいない気がする。


「えっと、昨日は申し訳なかった。改めて、救護してくれてありがとう。黒木六郎です」

 そう言って頭を下げると、陽斗は嬉しそうに首を振る。

「西蓮寺陽斗です。突然倒れたのでビックリしましたけど、命に別状がなくて良かったです」

「……マジで天使じゃないよな?」

「え?」

「いや、なんでもない」

 一欠片も邪気のない陽斗の笑顔に思わず心の声が漏れるが、聞こえていなかったようなのでセーフだ。


「今日もお見舞いに来てくれて、なんのお返しもできなくて申し訳ないんだけど」

「あ、いえ、お見舞いも、なんですけど、会ってほしい人が居て」

「会ってほしい人?」

 少年の保護者だろうかと六郎が聞き返し、陽斗が頷きつつ病室の外に声をかける。

 すると、ひとりの若く、見たことないほど綺麗な女性が入ってきた。


「初めまして。弁護士をしている渋沢と申します」




 陽斗が六郎の病室に彩音を連れて行く前日。

 つまり六郎が病院に担ぎ込まれた日の夜。

 大人しく入院してくれたのを見届けた陽斗は自宅に帰り、重斗の対面に座っていた。


「ふむ。相葉あいば(裕美)からも聞いている。よくやったな。優しくて行動力のある孫をもって儂も誇らしい」

 事情の説明を受け、重斗が褒めると陽斗は照れたようにはにかんで見せた。

「それにしても、ずいぶんと会社に酷使されているようだな。どれだけ法律を厳しくしたところでそのテの企業は無くならん。嘆かわしいことだ」

 労働環境の改善が叫ばれるようになって久しい。

 昔ながらの労使慣行が続いているだけでもブラック企業と指差される時代になっても、そうした企業は次から次へと現れてくる。


「それで、あの、僕、あの人のために何かしてあげたいんだけど、良いかなぁ」

 遠慮がちに陽斗がそう言って重斗を上目遣いで見る。

 そんな顔をされて爺馬鹿がダメと言うわけがない。のだが、さすがに理由くらいは訊く。

「陽斗がそうしたいなら儂は良いと思うが、そんなに同情したのか?」

「すごく辛そうだったから、だけど、僕は恩を返したいと思って」

 陽斗の言葉に、重斗は不思議そうに眉を上げる。

「恩? 陽斗はその男性と面識があるのか?」

「あ、そうじゃなくて、僕がお祖父ちゃんのとことに来る前、沢山の人にいっぱい助けてもらったんだけど」

 それは重斗も把握している。

 そして知りうる限り、陽斗の恩人にはさまざまな方法で礼をしてきたのだ。


「それで、社長、僕がアルバイトをさせてもらってた新聞販売店の人に『いつか必ず恩返しをします』って言ったら『その気持ちがあるなら、余裕があるときだけでも良いから誰か困っている人を見たら助けてやれ。それが俺達への一番の恩返しだ』って」

「…………」

「もちろん皆には直接お返しをしたいのは変わらないけど、皆が僕を助けてくれたように、僕も誰かを助けたいって思って。その、僕だけじゃ実際は大したことできないから、もしかしたらお祖父ちゃんに迷惑を掛けるかも知れなくて」


 陽斗の言葉を、最初は訝しげに、次いで驚いたように、最後は感心して深く頷きながら重斗は笑みを見せる。

「……あおい佑陽ゆうひ君は陽斗になにも教えてやれなかったが、代わりに大沢さんがよく導いてくれていたようだな。彼とはいずれゆっくりと言葉を交わしたいものだ」

 そう独りごちた後、陽斗の顔を見据える。

「お前のしたいようにしなさい。時には失敗したり、裏切られたりすることもあるかもしれないが、陽斗の後ろにはいつも儂や桜子がいる。困ったときや迷ったときはいつでも頼ると良い」

「お祖父ちゃん」

「葵から相続したお金はもうお前のものなのだからそれも自由に使うと良い。そうだな、儂たちに相談し難ければ、彩音か比佐子にも話を聞いてもらいなさい」


「ありがとう!」

 そうお礼を言って、陽斗は祖父に抱きついた。

 こうして、陽斗による六郎への『恩返し』が始まったのだった。

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