第131話 社畜、黒木六郎

 首都圏外縁部にある中規模都市。

 古びたオフィスビルの一室でパソコンの画面に向かっている男性に怒号が浴びせられる。

「黒木ぃ! ○△社のプレゼン資料はできているのか!」

 その言葉に、黒木と呼ばれた男性はゲンナリとした感情をなんとか表に出さないよう目線を逸らしながら立ち上がって声の主の前に行く。


「あの、○△社は課長が担当するとおっしゃって自分は担当を外されましたが」

「言い訳するな! 窓口は俺がするが実務はお前が引き続きするに決まってるだろうが。それとも、俺から引き継ぎを指示されたか?」

「い、いえ」

 返事をしながら黒木は爪が食い込むほど拳を握りしめる。

 小さな案件をコツコツと積み上げてクライアントとの信頼関係を築き、ようやく大きな仕事を回してもらった直後、担当を外されて成果を取り上げられただけでなく実務は引き続きしろという。

 悔しくないわけがない。が、それを口にすることはできない。


「チッ! 来週の月曜に使うんだから今週中に完璧な資料を作っておけ。それと、この仕様書の基本設計案を明日の朝までにまとめておけ」

「っ、すみません、私は午後からクライアントとの打ち合わせがあるんですが」

「だからなんだ? 帰ってきてからやれば良いだろうが」

 

 黒木が所属するこの会社は企業向けクラウドシステムサービスのITベンチャー企業だ。

 部署は営業開発部。

 主に、クラウド上で動作するアプリケーションプログラムを開発したり、実行するためのツールやプラットフォームを構築する仕事になる。

 黒木はここでシステムエンジニアSEとして働いているのだが、部署名に「営業」とついているように顧客のところで打ち合わせをしたり、新規開拓まで押しつけられている。


 システムエンジニアの仕事は大きく分けて、顧客からのヒアリング、それを元にした分析、基本設計、詳細設計、作業の工程管理、完成品の試用からなる。

 内容や規模によっては自らプログラムを打ち込んだり、納品後のサポートも行わなければならず、激務になりやすい。

 黒木の会社も例に漏れず、プログラム以外の工程をほとんどひとりでしなければならないため、長時間残業や休日出勤は当たり前というなかなかのブラック具合である。

 それに拍車をかけるのが、部下の成果は自分のもの、自分の仕事は部下がする、ひとりホワイト企業を満喫する上司の存在だ。


「ひ、一晩で基本設計は無理です! それに、この仕様書だと穴が多くてクライアントにも確認しなければいけないのでさらに時間が」

「あぁん? そんなもん、どうとでもできるだろうが! 必要なら仕様を変更すりゃ良いんだから。それをするのがお前の仕事だろ!」

「…………」

 後から仕様変更などSEにとってもプログラマーにとっても迷惑以外のなにものでもない。なんのために事前のヒアリングや要件定義をするのか。

 開発途中での変更には膨大な労力がかかり、後の不具合に繋がることも少なくないのだ。


 課長が放り投げてきたペラペラの仕様書はざっと見ただけでも必要な情報が圧倒的に不足していて、とてもシステムの設計ができるものではない。

 最低限、要件をまとめるための確認だけでもクライアントと数時間の打ち合わせや聞き取りが必要だ。

 だがそんなことをいくら主張したところで課長が納得するわけがない。

 黒木にできるのは午後の打ち合わせをできるだけ早く終わらせ、担当者に連絡して仕様書を作り直すしかない。


「なんだその顔は! 文句があるならいつでも辞めて良いんだぞ? もっとも、お前みたいな低学歴で陰気な醜男を、この会社以外で雇ってくれるようなところなんてどこにもないだろうけどなぁ。無能は無能なりに必死になって働くしかねぇんだよ! 分かったらサッサと仕事しろ!」

 バサッ!

 課長はそう怒鳴りつけると、手近にあった適当な書類を黒木に投げつけ、スマホを取りだして何やら操作を始める。

 おおかたゲームでもするのだろう。


 黒木は散らばった書類を拾って机に戻してから無言のまま自分のデスクに戻る。

 今やっている作業を切り上げ、仕様書の不足部分を書き出しておかなければならない。

 少しでも効率が良くなるよう、昼食の時間も取れそうにない。

 頭痛が酷い。

 何日もまとまった睡眠時間が取れず、暑さのせいか最近は食事も軽いものしか口に入れていないのだから無理もない。


 転職の二文字が頭をよぎるが、専門学校を卒業してなんとか入った会社を辞める決断はなかなかできない。

 課長の侮蔑的な言葉に反論できない程度に、コミュニケーション能力や容姿に自信がないし、そもそも転職活動をする時間的な余裕もないのだ。

 使う場所もないのに何故かお金は出ていくし、激務の割に給料は高くないから貯金も乏しい。

 黒木の会社は名目上みなし残業(固定残業制)を導入していて、給料には規定の残業手当が含まれている。が、それを拡大解釈してどれだけ働いても残業代や休日出勤手当は支給されない。完全なサービス労働が常態化しているのだ。

 結局、黒木は痛む頭を振りながら言われたとおりに仕事をするしかなかった。




(あ~、思ったより遅くなったなぁ。これから社に戻って、クライアントに電話して、また泊まり込みかぁ)

 訪問先のビルを出て、まだ高い太陽を見上げてから大きなため息をひとつ。

 強い光を浴びて目眩がするが、とっさにすぐ側にあった街灯のポールを掴んで身体を支える。

(頭がボーッとする。そういや水分取ってねぇや。コンビニでも寄るか)

 言葉に出そうとするが、実際に出たのはかすれたうめき声のようなものだけ。

 考えてみれば会社を出てから水すら飲んでおらず、今出てきた会社でもお茶の類いはもらえなかった。

 仕方がなく、帰社の途中ででもコンビニに立ち寄り、飲み物とゼリー飲料でも買おうと考えて足を踏み出した。


「暑っ……」

 思わずこぼれる。

 7月の日差しは痛みを感じるほど強く、歩いているだけでドンドン体力が奪われていく。

 ずっと続いている頭痛はますます酷くなってきていて、わずかな振動でも顔をしかめずにいられない。

(俺、なんでこんな辛い思いして働いてるんだろ)

 ぼんやりとした思考でそんなことを呟いてしまう。


 彼はあまり裕福とは言えない家庭で育った。

 といっても、そのことに不満があるわけじゃない。

 理由は知らないが、小学生の頃に両親が離婚して、母親が女手ひとつで自分と妹を育ててくれた。

 あいにく学校の勉強はあまり得意ではなかったので給付型の奨学金は受けられなかったので元から興味のあったコンピュータープログラムの専門学校に進学した。

 ただ、運の悪いことに卒業の年に新型感染症の流行で就職が決まっていた会社が内定を取り消してしまった。

 それから必死になって就職先を探したものの結局今の会社しか雇ってくれるところはなかったのだ。

 同じように内定取り消しになった同級生も居たのだが、話下手で雰囲気の暗い黒木は最後まで内定をもらえず、卒業翌日になってようやく決まったという経緯だった。


 それから3年間、所属する会社がいわゆるブラック企業であることは分かっていながらも、母親の生活費や大学生になる妹の学費の足しに仕送りを続けなければならないこともあって必死になって働いていた。働くしかなかった。

 まだ20代の前半ではあるが、それでも体力的にも精神的にも限界を感じている。

 駅のホームで電車待ちをしているときや高層ビルから下を見下ろしたときに、不意に解放されたいという衝動に駆られることも最近では多くなってきた。

 駅に向かう通りにある店のガラスが眼に入る。

 そこに写っているのは平均よりやや低い身長で、丸顔でありながら頬が痩け、目の下に病的な隈を浮かべた、陰気で不健康そうな男。

 贔屓目に見てとても20代には見えないほど疲れ果てた表情をしている。

 夜に歩いているとすれ違った人が悲鳴を上げて逃げ出すなんてことも一度や二度ではない。


(もう何ヶ月もゲームしてないなぁ。ってか、テレビも動画も見てないし、仕事以外で話をしたのってコンビニでレジ袋断るときくらいか? ははは……)

 こんな無意味なことを考えてても仕方がない。

 それは分かっているけど、頭に浮かぶのは小さな頃のことや妹との会話、途中まで買ってそれ以降読めていないマンガのこと。

 まとまりなく次から次へと雑多なイメージが浮かんでは消えていくばかりで目に入ってくる景色すら認識が怪しくなってくる。

 歩いているはずなのにフワフワして現実感が遠のいていく。

 歩行者用信号が青に変わる。

 直後、視界が真っ白に、そして真っ黒に染まった。

 



 黒木が目を開けて最初に映ったのは白い無機質な天井だった。

「知らない天井だ」

 どこかで聞いたような台詞が思わず口をついて出て、すぐに恥ずかしくなる。

 頭痛はまだ続いているが、横になっているせいか顔をしかめるほどではなく、視界も歪んでいない。

「ここは、病院?」

(あ~、もしかして俺、歩いているときに倒れたのか? んで、救急車で運ばれたと)

 まだ身体を起こす気にはなれず、首だけを巡らせて周囲を確認すると病院の個室のようで、腕には点滴が刺さっている。


 手足に力を入れてみると、だるさはあるがちゃんと動かすことができるし、特に痛む場所もなさそうだ。

 服装は、処置のために脱がされたのだろう、着ていたスーツではなく病衣と呼ばれる病院服のようだ。

 壁に掛かったハンガーに黒木のスラックスやジャケット、シャツが丁寧に吊されている。


「あ、気がつきました?」

「え?!」

 不意に聞いたことのない声がかけられ、驚いてそちらを向く。

「すぐに看護師さんとお医者さんを呼びますね」

「……天使?」

 まだはっきりしているとは言えない頭に浮かんだ言葉がこぼれる。

「え?」

「あ、いや、すみません、ナンデモナイデス」


 改めて見るとまだ小学生くらいに見える男の子だ。

 天使、といっても多くの人がイメージする翼を持った美しい女性ではなく、ヨーロッパの街角に置かれているキューピット像が真っ先に浮かぶほど可愛らしく、艶やかな髪に天使の輪が光っているのでそう見えたらしい。

「あの、君は……」

 そう訊ねるも、少年は看護師を呼ぶためだろうか、病室を出て行ってしまった。


「あ゛~、俺、めっちゃ変なオッサンじゃん。男の子に「天使」って」

 優しくて美人な看護師さんを見てならともかく、子供を見てそんなことを口走るなんて下手をすれば通報されかねない。

 恥ずかしさのあまり点滴とは逆の手で顔を覆う。

「この病室にいるってことは、もしかして救急車を呼んでくれた人の家族なのか? 気持ち悪いとか思われてなきゃ良いけど」

 黒木がそんな心配をしていると、それほど時間をおくことなく再び扉が開かれた。


「起きられたんですね。気持ち悪いとかボーッとするとかありますか?」

「い、いえ、大丈夫、です。少しまだ頭が痛いですけど」

 入ってきた若い看護師の質問に、身体を起こしながら答える。

「申し訳ありませんがお荷物を確認させていただきました。黒木六郎さん、でよろしいですか?」

 仕事中だったので名刺は持っていたし、財布には免許証もある。それを確認したのだろう。

 黒木、六郎の意識がなかったのだから当然のことだ。


「はい。あの、俺はどうなったんでしょう」

「街中で倒れたということですよ。さっきまで病室にいたはる、あ、えっと、男性が通りかかって救護してくれたんです。病状は、この後医師の先生がみえますのでその時に説明があります」

 六郎が予想したとおり、帰社する途中で意識を失ったらしい。

 その後診察に来た医師によると、極度の過労と睡眠、栄養の不足、ストレスを抱えているところに熱中症が重なったために昏倒したようだ。

 それに、話からすると先ほどの男の子が救急車を呼んでくれたようだ。

 

「血液検査もおこないましたが、とりあえず栄養状態と内臓機能が正常に戻るまでは入院が必要です」

 医師の言葉に六郎は慌てる。

「あの、俺、保険とかに入ってなくて、入院費とか」

 手術などがなくても入院となれば一日あたり一般病棟でも1万円程度はかかってしまう。六郎にとって大きすぎる負担だ。

「費用を心配する気持ちは分かりますが、まず身体を治すことですよ。健康保険や公的補助もありますし、医療費の貸付制度もあります。院内にケースワーカーが居りますので相談してみてください」

「は、はい」

 医師の助言にホッと胸をなで下ろす。


「まずは栄養と睡眠を摂って体調を元に戻しましょう。一応名刺に書かれていた会社には病院から連絡させてもらいましたのでゆっくり休んでください」

 安心させるような穏やかな笑みと共に告げられた言葉に、六郎はむしろ顔を青ざめさせた。

「か、会社……ヤバい、仕事が」

 課長に押しつけられた仕事、明日までと言われた基本設計と週明けの○△社のプレゼン資料。

 気がついたら病院のベッド、なんて非日常のせいですっかり頭から抜け落ちていた。

 入院なんてしている余裕はない。

 ベッドサイドのラックに置かれていた自分のスマホに手を伸ばし、時間を確認する。

 

 20:45

 慌ててベッドから立ち上がり、ラックの下にあったバッグに右手を伸ばした。

 が、それは小さな手によって遮られた。

「ダメです」

 若々しいというには少々幼く感じるその声は、有無を言わさぬ強さをもって六郎の動きを封じる。

「キミは……」

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