第117話 重斗の病状と陽斗の涙

 リムジンが学園を出て走ること30分。郊外にある大きな病院に到着する。

 重斗の出資する総合病院であり、近隣地域の基幹病院となっている大きな施設だ。

 陽斗たちの乗るリムジンは正面ではなく建物の裏側に向かう。

 財界の重鎮である重斗は一般の病室ではなく、政治家や著名人などが利用する特別室に入院している。

 主にマスコミなどが許可なく出入りできないように、そういった病室は一般の病室からは来られないようになっており、出入り口も別に用意されている。

 車が停まったのはその特別室用の入り口だ。


 湊が受付で身分と用件を伝えると、奥から警備員が出てきて扉を開けてくれる。

 それを確認してからようやくリムジンの後部座席のドアが開かれて陽斗と穂乃香が降り立つ。

 湊は場所を知っているのか、迷うことなく建物に入り廊下を進む。

 そのすぐ後ろを陽斗が続くが、気が急いているのだろう今にも追い抜きそうなほど足を速めているが、捻挫を悪化させないように身体を支えている穂乃香がそれを抑えているようだ。


 廊下の突き当たりにあるエレベーターに乗り込み湊が5階のボタンを押す。

 病院特有の衝撃の少ないゆったりとした上昇に、陽斗の顔は今にも泣き出しそうに見えるほど焦りが表に出ている。

 右足に負担がかからないように掴んだ穂乃香の腕を握る強さも痛みを感じるほどだ。

 もしかしたら痣ができるかもしれないが、穂乃香はそれを陽斗に悟らせないよう陽斗の手に優しく自分の手を重ねる。

 人の痛みに敏感な陽斗がそれに気づかないほど気が動転しているのを理解しているから彼を見つめる穂乃香の目はどこまでも優しい。


 5階の一番奥側の病室に到着すると、中から女性の声が聞こえてくる。どこか呆れた、責めるような口調である。

「まったく、人騒がせが過ぎるわよ」

 それに答える声もかすかに漏れてくるが内容までは聞き取れない。おそらく女性の声が大きいだけだろう。

 湊が扉をノックし、そして返事を待つことなくスライドドアを開く。

 その直後、陽斗が湊を押しのけるようにして病室に飛び込んだ。

「お祖父ちゃん!」

「おお、陽斗! すまん、心配かけたか?」


 病室は一般的な個室の数倍はありそうな広さで、奥側にセミダブルほどの大きさのベッドがあった。

 実は以前穂乃香の誘拐未遂事件の後で陽斗が入院していた病室なのだが、今の住人は重斗である。

 そしてその重斗はといえば、ベッドの上で上体を起こし、陽斗の姿を見ると嬉しそうに笑みを浮かべた。倒れたという話だったが意外に元気そうである。

 陽斗は祖父の姿を見つけると、脇目も振らず駆け寄ってベッドにすがりついた。

「身体は大丈夫なの? なんの病気? いつ退院できるの? あと……」

 矢継ぎ早に質問を投げかける陽斗の必死さに、重斗は面食らった顔をして押しとどめる。


「は、陽斗、儂は大丈夫だ。出先で倒れたのは確かだが処置も終わって回復しているからな。入院も念のためにするだけで、数日もあれば退院できる」

「本当? 嘘じゃない?」

 わずかな嘘も見逃さないとばかりに真剣な目で重斗を見つめる陽斗の頭を、いたわしそうにみてその頭を撫でる。

「ずいぶんと心配をかけてしまったようだな。なに、急な腹痛で慌ててしまっただけで大したことはない」

 その言葉に陽斗は重斗に抱きついてポロポロと涙を流す。嗚咽は漏らさず、ただ重斗の存在を確かめるように強くしがみついたまま肩を震わせる。


「陽斗をこんなに不安にさせて、酷いお祖父ちゃんよねぇ」

 病室に居たもう一人の人物、桜子が陽斗のすぐ脇にいささか乱暴に腰を下ろし、背中を撫でながら重斗を責めるように睨んだ。

「桜子、さん?」

「兄さん以外に目に入ってなかったみたいね。心配いらないわよ、今回のは別に病気ってわけじゃないから。今は治療も終わったし、後遺症もないだろうって」

「ほんと?」

 しがみついたまま桜子の方に顔を向けた陽斗は幼子のようにウルウルとした目で問う。

 その容姿も相まって萌えが極まった桜子は強引に重斗から陽斗を引き剥がして思いっきり抱きしめた。


「あー! もう! 陽斗ってば、なんて可愛いの!」

「むぐぅ?!」

 重斗の無事な姿を見てホッとしたのか、力が抜けた瞬間に抱きすくめられた陽斗は桜子の胸に顔が埋まってくぐもった声を上げる。

「コホン!」

「あら? 穂乃香ちゃん」

 わざとらしい咳払いが響き、桜子が病室の入り口に目を向けると穂乃香がむくれたように唇を尖らせているのが見えた。


「あらら、これ以上は怒られちゃいそうだから陽斗を返すわね」

 桜子は悪戯っぽくそう言うと穂乃香を手招きして近くに来させると、陽斗をベッドサイドの椅子に座らせて彼女の方に押す。

「あ、いえ、その。そ、それより、陽斗さんは足、大丈夫ですか?」

 妬心を見透かされて目を逸らした穂乃香だったが、すぐに大事なことを思い出して陽斗の足元にしゃがみ込む。

「えっと、大丈夫、です」

「陽斗の大丈夫は信用できないわね。せっかく病院に来てるんだからついでに診てもらいなさい」

 桜子がそう促しても、やはりまだ完全には安心できていないのか陽斗が重斗から離れるのを躊躇っていたため、担当看護師を通じてこの病室で専門医の診察を受けることにした。


「それで、もし差し支えなければお祖父様の状況を教えていただけませんか? 実は連絡を受けたのが生徒会室だったためその場に居た数名の生徒に聞かれてしまいました。天宮さんが口止めをしてくださっていますが、余計な憶測を呼ぶ前に公表した方が良いかと思います」

「むぅ、そうか、う~ん……」

 陽斗の診察は医師の準備ができ次第ということなのでもう少しかかるらしい。その間に重斗の容態を確認しようと穂乃香が口を開いた。

 だが、その途端、ばつが悪そうな顔をして言葉を濁す。


「は~、兄さん、これだけ陽斗に心配かけたんだから正直に話した方が良いわよ」

「それは、そうだが、少々情けない話でなぁ」

「ああ、もう! 私が言うわ。あのね、確かに兄さんは倒れたんだけど、その理由はただの食中毒よ。アニサキス症らしいわ」

「実は、今日の午前中に儂が支援している水産研究所に行ったんだが、そこで会食した時に食べた料理が原因のようだ。まぁ、こればかりは運が悪かったとしか言えんな」

「急な腹痛で動けなかっただけで意識ははっきりしていたそうだし、病院に到着してすぐに検査して取り除いたから本当に心配はいらないわよ」

 説明を終えると重斗が神妙に頭を下げる。


 アニサキス症という食中毒は魚介類に寄生するアニサキスという寄生虫が引き起こす食中毒である。よく知られるサバやアジだけでなく、生食する機会の多い鯛やヒラメ、マグロなども寄生していることが多い。

 冷凍や加熱すれば容易に防げるのだが、伝統的に生食を好む日本人には特に多い食中毒として知られている。(欧州地域で年平均500件に対し、日本は約7000件)

 通常は1週間程度で体内に入ったアニサキスは死滅するが、ときおり胃や腸で消化管にかじりついて激痛をもたらしたり嘔吐、下痢などの症状を引き起こす。他にもアレルギーや潰瘍の原因となることもあるという、微妙にやっかいな病気なのだ。


「まぁ今回は誰が悪いというわけじゃないし、兄さんは他に持病もないから入院も他に寄生虫が残っていないかを確認するための用心だから本当に心配いらないわよ」

「陽斗が大人になって、曾孫を抱っこするまでは死んでも死に切れんからな。健康には気をつけているぞ。そういうわけで、穂乃香さん、手数をかけてすまないが話を聞いていた生徒たちにそのように伝えてほしい。儂の方は会合に参加した者達にすでに連絡してあるから噂が広まることはないはずだ」

 事情を把握した穂乃香が頷き、壮史朗に連絡するため病室を出て行く。


「そんなわけだから陽斗は心配するな」

「うん。でも、お祖父ちゃん最近疲れているように見えたから」

「ああ、それも問題ないわよ。陽斗と夏休みをたっぷり過ごすために予定を前倒ししてるから少し忙しかっただけらしいわ」

 桜子が呆れたように肩をすくめ、重斗が頭を掻くとようやく陽斗が笑顔を見せたのだった。


 連絡を終えた穂乃香が病室に戻ってきてすぐに整形外科の専門医も到着し、陽斗の足を診察していった。

 よほどダッシュしたのが悪かったのか、少し足首が熱をもっていたものの悪化まではしておらず引き続き保存療法で大丈夫と言われホッとする。

 それから少しばかり重斗と話した後、陽斗と穂乃香は帰っていった。まず穂乃香を送り、そのまま屋敷に戻るようだ。


「……まさか陽斗があそこまで動揺するとはな。これからは一層体調に気をつけねばならん」

 重斗がそう言うと、桜子は何かを思案しながら答える。

「そう、ね。あの反応は過剰と言ってもいいほどよ。あの子の肉親は今や兄さんと私だけ。特に兄さんは陽斗を救い出した一番信頼できて甘えられる存在だと思ってるでしょう」

「うむ」

 重斗が重々しく頷くが、陽斗の一番であると言われて誇らしげにドヤ顔をしているのを見て桜子の額に血管が浮く。


「いつまでもその地位に居られるとは思わないでよね。コホン! それより、兄さんが倒れたと聞いてあれだけ動転したということは、それだけ心を許しているということだけど、同時に陽斗の心の傷が深いということでもあるわ」

「そうだな。10年以上にわたって誘拐犯に虐待され、ようやく救出されても父親も母親も故人となっていた。さらに言えば父方の祖父母は屑ときては残された場所に縋るのは当然のことだ」

 それだけに陽斗が精神的に自立するまで、重斗は絶対に倒れるわけにはいかない。

 頼られるのは良い。甘えられるのも良い。だが、いつまでも依存されたままではいつか折れてしまうだろう。重斗や桜子もいつかは陽斗より先に死ぬのだから。


「あの子には家族が必要よ。揺るぎない絆で結ばれた、絶対に裏切らない、どんなときでも支え共に歩んでくれる家族が。幸い友人には恵まれているようだし、あとは」

「いくらなんでも早すぎるだろう」

 桜子の言葉に重斗は渋い顔だ。

 さすがにまだ16歳になったばかりの高校生である陽斗に、結婚や家族を作れなどというのは早すぎる。昭和初期の頃までは名家であれば珍しい話ではなかったが、さすがに令和の世でそんな前時代的なことをしている家は少数派だろう。

 そもそも重斗から見て陽斗はそういった方面に未成熟なように思えた。


「もちろんすぐにというわけじゃないわよ。でも、可能な限り早くあの子の心を安定させてあげたいのよ。候補も何人か居るみたいだし、ね」

 そんなことを言いながら意味深な笑みを浮かべる桜子を見て、彼女の性格を知り尽くした兄は大きなため息を吐いた。




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お知らせです!


本作の書籍版第3巻と幹藻ねずみ先生が作画してくだったコミカライズの第1巻の発売日が決定いたしました!!


6月の2日金曜日発売です。

そう! 同時発売でございますです!

書籍版は陽斗の過ごす夏休みと新学期

コミックの方は幹藻先生による可愛らしい陽斗君を是非是非ご覧になってください。

アマゾン他、すでに予約受付を開始している書店もあるようです。

書影はまだできていませんが、でき次第公開したいと思っています。


書籍化作業もいよいよ佳境ということで、申し訳ありませんが次週はお休みさせていただきます。

なので、次回の更新は26日です。

楽しみにしてくださっている読者様にはご迷惑をおかけしますが、どうかよろしくお願いいたします。

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