第96話 孤高のピアニスト

「失礼します」

 芸術科棟を訪れた陽斗とセラが職員室の入り口で声を掛けると、奥のデスクで年配の女性教師が片手を上げて応える。

 二人は一礼して部屋に入るとそのままその教師のところに。

「ご苦労様。遅くなってごめんなさいね」

 朗らかにそう謝罪され、陽斗はブンブンと首を振った。

「まだ日にちに余裕があるので大丈夫です」

「ありがとう。これが当日のプログラムよ。参加者の名簿はもう少し待ってもらうけど大丈夫よね?」

 女性教師がそう言いながらプリントアウトした紙を差し出し、それをセラが受け取る。


「会場の装飾は美術科クラスの生徒が担当するから、こっちが展示品のリストね」

「はい。展示品の保管はお任せしても良いのですよね?」

「ええ、各クラスの保管室で管理するから設営のチェックだけ生徒会にお願いするわ」

 陽斗が確認事項を書いたメモを見ながらひとつずつ聞いてチェックしていく。

「毎年のことだけど、芸術科は我の強い子が多いから大変よぉ。特に音楽科クラスはなかなか話がまとまらないの」

「あ~、参加する生徒にとってはアピールのチャンスですもんね」

 苦笑気味の教師の愚痴に、セラは曖昧な笑みで返すくらいしかできない。


 陽斗達がこうして芸術科の教師と話しているのは、3月前半に行われる卒業生の送別会に関してだ。

 毎年、卒業生を送別する集まりを生徒会主催で行っているのだが、このときに中心となるのが芸術科の在校生達だ。

 美術科クラスが会場を彩る装飾や接地される彫刻、絵画などを担当し、音楽科クラスがダンスの伴奏をしたり演奏会をしたりする。

 普通科のクラスは当日の給仕やその他の催し物で卒業生を労い、感謝を表していく。

 芸術科の生徒にとっては数少ない普通科との交流の場であり、良家の子女やその保護者に顔と名前を覚えてもらう機会となっている。

 それだけに芸術科内で競争があるらしく、特に音楽科クラスはいかに自分を印象づけられるか、コンクール並みのアピール合戦が繰り広げられるそうだ。


「楽器のパートとか決めるの大変そうですね」

「ピアノとヴァイオリンを専攻してる生徒ばかりだから仕方ないわ。基本は本人の希望と成績で担任が割り振るんだけど、納得してもらうのが大変なのよ。練習時間も必要だから早く決めなきゃいけないんだけどね」

 教師の苦労もひとしおだろう。

「でも今回は参加したくないって子が居るのよねぇ。凄い技術はあるんだから演奏会の方に出てもらいたいんだけど」

「不参加、なんですか?」

 意外そうに陽斗が訊くと、教師が困ったように頷いた。


「将来どんな道に進むにしても他の生徒とちゃんと交流した方が良いって言ってるんだけどね。無理強いするわけにもいかないし」

 黎星学園の、特に芸術科では技術と共にコミュニケーションを重要課題として教えている。

 美術であれ音楽であれ、プロを目指す者達は総じて一定以上の技術を持っているものだ。だがそれだけで大成できるほどその道は優しくない。

 実際のところ専門の教育を受けたアーティストの卵達は、一部の本当の天才を除けば技術面でそれほど大きな差は無いのだ。

 その小さな差しかない中でプロになれるかなれないかは運に左右される。努力などは誰もがしているからだ。

 そしてその運を引き寄せるための大きな力となるのは人との繋がり、つまりコミュニケーション能力が重要となる。

 特にこの学園の場合は良家の子女が多く、場合によってはその繋がりで支援を受けられるチャンスがあるからこそ、こういった交流の機会を皆が待ち望んでいるほどだ。


 陽斗は芸術科の生徒は皆プロを目指しているとばかり思っていたが、必ずしもそうではないらしい。

「そうだ! 生徒会からもその子に話をしてみてくれないかしら。どうしても嫌なら仕方がないけど、教師よりも生徒同士の方が話を聞けるかもしれないし」

 唐突な依頼に、陽斗とセラが顔を見合わせる。

「誰よりも練習熱心な子でね、いつも遅くまで練習室でピアノを弾いているわ。よろしくね」

 結局、押しの強い教師に押し切られる形で職員室から退出することになってしまった。


「といってもねぇ、本人が出たくないならそれで良いと思うけど」

「うん、でも一応話だけでも聞いてみないと」

 あまり気乗りしなさそうなセラと、それでも頼まれた以上は会ってみようという陽斗。

 とはいえ、先に受け取ったプリントを会長に渡すべきだろうということでセラが生徒会室へ、陽斗はとりあえず練習室のある3階に行くことになった。

 練習室に居るはずだとは聞いていたがいくつもある部屋のどこに居るかまではわからないので先に確認しておくつもりなのだ。


 芸術科の校舎は美術科クラスと音楽科クラスの二棟あり、それぞれ防音措置が施されている。創作や練習に集中できるようにするためだ。

 そして音楽科棟の3階には生徒が自主練習できるように練習室がある。

 練習室は4畳ほどの広さが40部屋あり、ピアノが置かれているのはそのうち10部屋。

 場所をとらないアップライトピアノとはいえ、練習用の部屋にそれだけ用意されているのもこの学園ならではだろう。

 ちなみにグランドピアノが置かれている少し大きめの部屋もあるそうだ。


 校舎の階段を上がると楽器の音が聞こえてくる。

 防音がしっかりしているので漏れてくる音は小さなものだが、あちこちの練習室からとなればそれなりの喧噪となる。

 ピアノが設置してある練習室は通路の半ばほどのところで、今使われているのは半分ほどのようだ。

 部屋の使用には特に申請などは必要ないらしく、入り口のプレートが使用中になっていない部屋を自由に使うことができる。だから誰が使っているかは開けてみないとわからない。


 生徒達が懸命に練習しているのを邪魔するのは心苦しいので、どうしたら良いのか考えあぐねる。

 やはり事前にアポイントメントを取ってからにしようかと思っていたそのとき、陽斗の耳に力強いピアノの旋律が飛び込んできた。

 音量そのものは大きくはない。せいぜいアパートの隣の部屋から聞こえてくるテレビの音程度のもの、この音楽科棟の喧噪では少し離れるだけで聞き取れなくなるくらいだろう。

 だが陽斗が意識を引き寄せられたのはその旋律に込められた激しさと強さ、それに繊細な優しさだ。

 陽斗は曲名を知らなかったが、フランツ・リストのラ・カンパネラの力強くも悲しげな音色に聞き惚れる。


 と、不意にピアノの音が途切れ、数秒後練習室のドアが開かれた。

「誰?」

 不機嫌そうな声でそう聞いてきたのはスラリとして手足の長い女子生徒だ。

「あ、ご、ごめんなさい。凄く素敵な演奏だったからつい聴いてしまって」

「外でコソコソ聴かれると気が散る」

 つっけんどんな女子生徒の言葉にシュンとして陽斗が頭を下げ、きびすを返そうとした。

「……聴きたいなら中に入って。邪魔しないなら、だけど」

「え?」

「聴かないなら別にいい」

 思いがけない申し出に思わず聞き返すと、女子生徒は表情を変えないままそう言って部屋に戻ってしまう。


 一瞬迷ったものの、先ほどまでの旋律をもう少し聴きたくて陽斗はその後を追って練習室に入る。

 そしてメールでセラに、女子生徒との面談は改めて約束をしてからということと、戻るのが少し遅れるとだけ伝えてスマホを機内モードに切り替えた。

「適当に椅子に座ってて」

 陽斗の方に目を向けることなくそれだけ言って女子生徒はピアノの椅子に腰を下ろし鍵盤に手を添える。

 無愛想ながら陽斗がメールを終えるのを待っていてくれたらしい。


 女子生徒が弾き始めたのは先ほどとは違う曲。

 フレデリック・ショパンの即興曲第4番、幻想即興曲の名で知られる有名な曲だ。もちろん陽斗も聴いたことがある。

 ショパンの悲しげで切ない旋律を陽斗は目を閉じてウットリと聴き入る。

 陽斗は知らないが、情感を込めるのに向いていないと言われるアップライトピアノでこれほど奥行きのある演奏ができること自体、この女子生徒が並外れた技量を持っていることを表している。


 時間にして5分程度の幻想即興曲が余韻を残して終わる。

 陽斗は邪魔にならない程度で小さく拍手をする。手を打つ音はささやかだがその表情は感動と賞賛に輝き、女子生徒は意外そうに表情を崩す。

「生徒会の副会長さん、だよね」

「あ、うん。練習の邪魔しちゃってごめんなさい」

「こっちが気になっただけ。いちいち声を掛けてきて邪魔する人が多いから。アナタはそうじゃないから別に良い。ウチの顔を見るんじゃなくちゃんと曲を聴いてくれた」

 改めて見ると女子生徒はスレンダーながら整った顔立ちをしており、そんなところからも声を掛けられることが多いのだろう。

 対して陽斗は目をつぶって曲に集中していた。

 そのことがこの無愛想な女子生徒の気に入ったようだ。


「あ、まだ自己紹介してなかった。えっと、僕は西蓮寺陽斗です」

「顔は知ってる。ウチは音楽科1年の羽島 華音」

「え?!」

 陽斗が驚いて思わず聞き返してしまう。

「何?」

 不審な目を向けられてしまった。

「あの、僕、芸術科の先生に頼まれて……」

 そう言って陽斗が練習室に来た経緯を話し始めた。

 そう、彼女こそが送別会への参加を拒否している生徒だったらしい。


「そう。ご苦労様。でも私は特に世話になった先輩とか居ないし、面倒だから出るつもりない」

 陽斗の説明に納得したように頷き、それでも送別会には出ないと言う華音。

 別に陽斗も説得までして出席させることに意味があるとは思っていない。

 ただ、一応参加のメリットだけは話しておこうと口を開く。

「えっと、僕も詳しくは知らないんだけど、芸術科の人はできるだけ人脈を広げておくのも大事なんだって。すぐに結果に結びつかなくてもどこで人の縁がつながるかわからないから、将来プロとして活動するにはしておくに越したことないんじゃないかな」


「それ、先生から何度も聞いた。けどウチは別にプロになりたいとか思ってないから。ピアノは好きだけど強制はされたくないし。この学校に来たのも学費や寮費免除で好きなだけピアノが弾けるって言われたから」

「そう、なんだ」

 そう言われてしまえば陽斗にはそれ以上言うことはできない。

 芸術科の生徒は皆、その道で将来プロになることを目指していると思っていただけに驚きはあったが、好きだからこそ趣味で続けていきたいと考える人も居るとは聞いている。

 ただ、先ほどの演奏が凄く感動しただけに少し残念な気持ちもあった。

 それが顔に出ていたのか、華音が不思議そうに首をかしげた。


「ウチが送別会に出ないのは副会長の責任じゃない。説得できなくて困るならもう一度ウチが直接先生に言う」

 無愛想でつっけんどんな態度ではあるが、心根は優しいのだろう。陽斗の表情を見てそんなことを提案する華音に陽斗は首を振る。

「そうじゃなくて、ただもったいないなって思って。羽島さんのピアノ、凄く素敵だったからプロになったら同じように感動する人が大勢いるだろうし、僕もまた聴けるかもしれないけど、そうじゃなかったらもう聴けないから残念だなって思って」

「……キミ、外見に騙されるところだった。意外に女たらし」

「ええ?!」

 いきなりの不名誉な評価に面食らう陽斗。


「ふっ、それで、キミは送別会に出る?」

「え? 僕は生徒会役員だからもちろん出るよ。お世話になった先輩も沢山居るし」

 前会長の琴乃や料理部の元部長、他にも陽斗がお世話になった3年生は結構居る。

 陽斗はもちろん心から卒業していく先輩達の門出を祝うつもりだ。

 ……今からその時のことを考えて泣きそうになったりしてるのは内緒だ。


「そう、なら考えておく。ウチはまだ練習があるから」

 華音はそう言って陽斗を練習室から追い出した。



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