第87話 閑話 旅行前夜

「ルルル~♪ ララ~♪」

 黎星学園高等部最初の2学期が終業した翌々日。

 神奈川にある本邸の自室で鼻歌を歌いながらご機嫌な様子でクローゼットを漁っているのは四条院家の次女、穂乃香だ。

 年の瀬にもかかわらず、ベッドに広げられているのは涼し気な夏物ばかりなのだが、それもそのはず。

 明日になれば穂乃香を含む四条院家の面々は皇重斗の招待で南半球の別荘に行くことになっているのだ。

 

「水着はどうしたら良いかしら。時期的に泳ぐのは問題ないでしょうけれど、陽斗さんに水着を見られるのは恥ずかしいですけれど、一応は準備しておきましょう。どんなのが陽斗さんの好みかしら……」

 ぶつぶつと独り言をつぶやきながら次々に服や水着、アクセサリーなどが並べられていく。

 どう見ても床に置かれたキャリーバッグに入り切るような量ではない。

 若い女の子なので荷物が多くなるのは仕方がないが、恋する乙女は色々なシチュエーションを想像しすぎてなかなか荷物を削れないようだ。

 

「穂乃香、入っても大丈夫か?」

「兄さん? ちょ、ちょっと待ってください!」

 ドアがノックされ、続いて掛けられた声に慌てて穂乃香はベッドの衣服をかき集めて布団で隠す。

 いくら家族でもそのような状態を見られるのは恥ずかしいし、下着まで広げていたのだからなおさらだ。

 クローゼットも閉め、乱れた身だしなみも整える。そして大きく息を吐いてからドアを開けた。

 

「やあ穂乃香、ただいま」

「おかえりなさい兄様。遅かったですわね」

 部屋に入ってきたのは若い男。

 妹と似た髪色と顔立ち、穂乃香の兄である四条院 あきらだ。

 黎星学園の系列大学で経営学を学んでいて、普段は大学近くのマンションで一人暮らしをしている。

「課題に追われていたんだよ。教授が容赦ない人だから気が抜けないんだ。時間ギリギリまで粘ってなんとか終わらせることができた。提出は休み明けだけど、課題が残ってたら気が削がれるからな」

 穂乃香の質問に、晃は苦笑いしながら肩をすくめる。

 

 晃が本邸に帰ってきたのは冬休みの帰省だが、今年に限ってはそれだけでは無い。

 晃も穂乃香や両親と共に重斗の別荘へ招待されているからだ。

 たとえ大学や友人との用事があったとしても無理やり時間を作ってでも帰ってくるに決まっている。

 なにしろいくつもの別荘を持っている皇の当主だが、その大半は迎賓館を兼ねたものであり、私的な別荘に誰かを招待するなどこれまでほとんど聞いたことがない。

 晃も両親も、皇とのつながりを深める絶好の機会を逃すはずがないのだ。

 実業家一家の性とも言える。

 

「それで、どうかしたのですか? 話なら夕食の時にでもすれば良いでしょう?」

 穂乃香が首を傾げて訊ねる。

 穂乃香と晃の仲は悪くないが、それほどベタベタするほどではないし、こうして互いの部屋を行き来することなど滅多にない。用事があったり、長い期間顔を合わせなかったりすれば電話をかけることもあるという程度の普通の兄妹だ。

 もちろん家族としての愛情はあるので心配したり愚痴を言い合ったりすることはあるが。

 

「いや、一応礼は言っておかなきゃ駄目だと思ってな。あの・・皇の当主と関係を深める絶好の機会なんて望んだって得られるものじゃないからさ」

 想定された答え。だが穂乃香は怪訝そうに晃の顔を見返す。

 その程度のことならわざわざ部屋にまで来なくても食事の時でかまわないはずだ。

「それだけ、ですか?」

「あ~、あとな、もし、もしだぞ? その皇の孫ってのが、なんだ、お前に嫌なことをしたりしたら無理はしなくていいからな。家のために我慢とか、絶対するなよ。皇と関係が悪くなったってうちはなんとかなるからな。もし父さんが怒ったりしたら、俺がなんとかするからさ」

 晃はそう言って照れくささを誤魔化すように頭を掻くと、踵を返してドアに手をかけた。

 

「心配いりませんわ。陽斗さんはとても優しい心根の人ですから。それに恩人でもあります。でも、ありがとう、兄様」

「お、おう。んじゃ飯の時にな」

 そそくさと部屋を出ていった兄を見送り、穂乃香はクスリと笑みをこぼす。

 不要な心配だとは思っていても、兄の気遣いが嬉しくてくすぐったい。

 実際に万が一重斗の不興を買うようなことにでもなればいくら屈指の名家である四条院でもただではすまないだろう。

 そうそう叩き潰されるようなことはないだろうが、大きな損害を被ることになるのは避けられない。

 それがわかっていてなお、穂乃香に我慢するなと言ってくれる家族の愛情を感じて心が温かくなる。

 明日からの旅行に加えて、そんな優しい家族を陽斗に紹介できる誇らしさで穂乃香は再び鼻歌を歌いながら準備に続きに取り掛かった。

 

 夕方になり、食事の準備ができたと家政婦が呼びに来る頃にはなんとか準備を終えた穂乃香がダイニングに入ると、そこにはすでに父である彰彦と母の遥香、晃が席に着いていた。

 夕食も並べらべられており、あとは穂乃香が席に着けばすぐに食べられるようになっている。

「ごめんなさい。遅くなりました」

 穂乃香がそう謝罪しながらいつもの席に座ると、彰彦が微笑みながら頭を振る。

「私達も今来たところだ。さぁ、食事を始めよう」

 彰彦の言葉を合図に食事が始まる。

 

 この日の食事は焼き魚と冬瓜の煮物、鶏ささみの梅肉和え、味噌汁といった和食メニューだ。

 経済的には十分裕福といえる四条院家といっても食事内容はごく普通のもの。

 調理は家政婦がすることも多いが、遥香も家に居る時はできるだけ手ずから作るようにしている。この日も遥香が料理を作っている。

 久しぶりの母の手料理に穂乃香の顔がほころぶ。兄である晃も美味しそうに次々と料理を口に運んでいっている。

 嫁いでいった姉がここに居ないとはいえ、家族4人での食事にしては静かだが、基本的に四条院家では食事中に談笑したりせず、食後にお茶やコーヒーなどを飲みながら話をすることになっているのだ。

 

「穂乃香は随分と楽しそうね。落ち着きもないし、初めて家族で海外旅行に行った時を思い出すわ」

 遥香がコーヒーを飲みながら穂乃香をからかう。

「そ、そんなことはありません! その、楽しみではありますけど」

 内心を見透かされたようで穂乃香が頬を染めながらそっぽを向く。

「私も落ち着かないのは同じだがな。もっとも理由は緊張して、だが」

 彰彦はそう肩をすくめる。

 重斗とは仕事上の付き合いが長いし、それなりに近しい関係なので何度も食事を共にしたことはあるし酒を酌み交わすことだってある。

 だから今更会うことに緊張したりすることはないのだが、今回は私的な別荘への招待だ。

 彰彦は父親に紹介されて重斗に初めて会った時のように落ち着かない気分を感じている。

 

「父さんは皇さんと何度も会ってるんだからまだ良いだろ? 俺なんか何回か挨拶しただけだぞ。考えただけで口から心臓が飛び出そうだよ。けど、まぁ、妹の恩人にも会ってお礼を言いたいけどさ」

「穂乃香が選んだ子だもの、大丈夫よ。私もまだ直接会ったことは無いけど、穂乃香やお父さんから話は聞いているし、電話でお礼を言った時に少し話したけどとても優しくて真面目そうな子だったわ」

「……話が噛み合ってないし」

「穂乃香のことが心配なんでしょ? 晃ってシスコン気味だから、私はそっちのほうが心配だわ。折角大学近くで一人暮らししてるっていうのに女の子のひとりも連れ込まないみたいだし」

 穂乃香の話だったのが、矛先が変わったことで今度は晃がそっぽを向く。

 

「コホン、と、ところで、穂乃香は聖夜祭では誰かとダンスを踊ったのか?」

 不意に彰彦が穂乃香に訊ねた。

 途端に穂乃香の顔が真っ赤に染まる。

「あら? あらあらあらぁ?」

「せ、聖夜祭では交流のためにダンスを踊るのは当たり前でしょう!」

「もしかして、陽斗くんとファーストダンスを?」

 彰彦も遥香も黎星学園の卒業生だ。

 だから当然、聖夜祭のファーストダンスの意味は知っているし、実は彰彦が3年生の時に遥香にファーストダンスを申し込んだことで交際が始まったという経緯もあったりする。

 

「ファーストダンスは踊っていませんわ! 陽斗さんと踊ったのは2曲目と、その、最後の曲です。も、もう! わたくしまだ準備が終わっていないので部屋に戻ります」

 母親からは生暖かい好奇の視線を、父親から色々なものがこもっていそうな視線を浴びて、穂乃香は逃げるように、というか会話をぶった切って自室に逃げ帰ってしまった。

「な、なぁ、その陽斗って子、ひょっとして穂乃香と?」

 複雑なのは兄も同じなようで、晃が母親に訊ねるが、遥香は曖昧に首を振る。

 

「好意を持っているのは間違いないみたいね。でも慣れない感情に振り回されて踏み出せないって感じかしら。あの子はしっかりしているようで心はまだまだ成長途中だから。今回の旅行で少しは進展してくれると嬉しいのだけどね」

「おいおい、穂乃香はまだ高校1年生なんだぞ。我が家もそうだが、皇家の者も普通の学生のように簡単に付き合ったり別れたりなどできないだろう。どうしても家同士の関係にも影響してしまう。そういうことはもっと慎重にだな」

「あら? 貴方は穂乃香と陽斗くんが交際することに反対なの?」

「は、反対したりはしていないぞ。しかしだな」


 さすがに末娘を溺愛している彰彦といえど、皇の孫である陽斗を指して娘の相手として不適格などとは言えない。

 歴史は浅くとも十分な家格は備えているし、なにより自分の身を顧みず娘を暴漢の手から守った恩人で、話をしても人柄に問題はないのだ。

 むしろ四条院家の当主としては皇家と関係を深めることを積極的に進めるべきでもある。

「なら良いじゃない。相手のことなんて実際に交際しないとわからないことばかりなんだし。上手くいかなくてもまだいくらでもやり直しがきくわ。それに、皇のご当主はそんなことで圧力を掛けてくるほど狭量じゃないでしょう?」

「うっ」

 ズバッと言われて彰彦が口ごもる。

 

「いちばん大事なのは穂乃香の気持ちよ。親としては相手はしっかりと見極めるつもりでいればいいの。その意味でも今回はいい機会じゃないかしら」

「……わかった、わかった。君に任せるよ。昔から人を見る目は私よりも君のほうが鋭いからね」

「俺もその陽斗って子をよく見ておくことにするよ。可愛い妹が泣くのは見たくないからな」

「あらあら、陽斗くんも大変ね。でも楽しみだわ」

 期せずして、今回の旅行は陽斗の試練になりそうな様相を呈してきたようだった。 

 

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