第88話 初めての海外旅行
北関東の沿岸部近くにある空港のターミナル入口前に純白のリムジンが滑るように近づき、停車する。
先に助手席から男が降り、後部座席のドアを開けた。
まず若い女性が、次に小柄、というか小さな少年が、最後に初老の男が降りる。
それを出迎えたのは朗らかな笑みを浮かべた壮年の男女と若い男女の4人、四条院家の面々だ。
「皇さん、この度はお誘いいただきありがとうございます」
代表として口を開いたのは彰彦だ。
「いや、こちらこそ無理に誘ってしまったのではないかと気になってしまったが、応じてくれて嬉しく思っている。皆さんも気を使わず、気楽に過ごしてもらいたい」
「そう、ですね。当家と皇さんとは仕事上の付き合いも多いですが、今回は仕事抜きで楽しませていただきます」
「ええ、子どもたちは子どもたちで、大人は大人でゆっくりと楽しみたいですわ」
大人達がそんな言葉を交わす横で、陽斗もまた穂乃香と顔を合わせる。
「えっと、ほ、穂乃香さん、お、おはようございます」
「あ、陽斗さん、ごきげんよう、ですわ」
陽斗と穂乃香は互いの顔を見て、顔を真っ赤に染めながら思わず目をそらした。
ふたりが最後に会ったのは聖夜祭の時であり、顔を合わせたことで記憶がフラッシュバックして恥ずかしくなってしまったらしい。
ファーストダンスこそ踊らなかったが、告白めいた台詞とともに2曲目を申し込んだ陽斗もそうだし、ラストダンスは穂乃香の方から申し込んだのだ。
初々しい幼子のようなふたりに業を煮やしたのか、もうひとりの青年、晃が割り込むように陽斗に声を掛けた。
「はじめまして、だね。穂乃香の兄の四条院晃だ。今回は僕もお邪魔させてもらうことになったからよろしく頼むよ」
「あ、はい! 西蓮寺陽斗です。陽斗って呼んでください」
先に挨拶されたことで陽斗は慌てて晃の方を向いてピョコンと頭を下げる。
穂乃香を意識しすぎて初対面なのに自己紹介もしていなかったことに改めて気づいたのだ。
そして一方の晃の方も陽斗を見て内心の驚きを表に出さないようにするのに必死だったりする。
(え、あれ? いや、ちょっと待て、皇の孫って穂乃香の同級生じゃなかったのか? 中学生、いや小学生にしか見えないぞ。穂乃香に変なことをしないように牽制しようと思ってたのに、それやったら俺がいじめてるようにしか見えないんじゃないか?)
無自覚シスコンな晃が陽斗の外見に困惑している一方、陽斗の方は晃を見て穂乃香と似た端正な容姿や長身に見とれていた。
それだけでなく、素直な感想が口をついて出る。
「穂乃香さんのお兄さん、すごくカッコイイですね! 背も高くて優しそうだし、って、あの、ごめんなさい」
思わず漏らしてしまった本音に、陽斗は慌てて謝る。
謝るということは当然頭を下げるわけで、そうなるとどうしても晃を上目遣いで見ることになる。もちろんそれがどう映るかの自覚など無い。
「う?! い、いや、その、ありがとう、でいいのかな?」
晃の顔が思わず赤くなる。
「……兄様?」
「は、はい!」
底冷えする声が背後から聞こえ、その圧に晃が背筋を伸ばす。
「ふむ。こんなところで話をしていても仕方がない。とにかく手続きをしてしまおうか」
晃が穂乃香に詰め寄られる前に、重斗がそう促したことでようやく入り口からターミナルの中に入ることになった。
一緒に居るのは陽斗と重斗、四条院家の4人の他に湊と、護衛として大山警備班長と3人の班員。なかなかの大所帯である。
もちろん同行するメイドや警備班は他にも居り、一足先に現地に行っていたり搭乗する飛行機で待機していたりする。
大山が先導し、出国審査へ向かう。
飛行機は皇家のプライベートジェットなので搭乗手続きなどはなく、荷物もすでに四条院家族の分も含めて運び込まれているので手荷物検査と出国手続きだけだ。
といっても、地方空港のためかそれほど待つことなく手続きを終え、発着ターミナルではなく駐機場に向かう。
昼近くで日差しもあるとはいえ12月後半ともなればそれなりに寒い。特に駐機場までは遮るものが無いので風が冷たく感じられた。
だが陽斗はというと、綿パンとフランネルのシャツに薄手のパーカーを羽織っただけの軽装である。
それでも全く寒そうな素振りは見せず、むしろ楽しそうに周囲をキョロキョロと見回しながら穂乃香の隣を歩いていた。
「楽しそうですわね。皇様の別荘に陽斗さんは行ったことありますの?」
「ううん、別荘っていうか、海外旅行に行くのも初めて! だから昨日も楽しみであんまり眠れなくて」
バタバタと出国手続きをしているうちに照れくささもなくなったらしく、陽斗は穂乃香に笑顔を見せる。
その様子は本当に楽しそうに散歩をする仔犬のようで、見ている大人達+青年は思わず口元をほころばせていた。
ターミナルから駐機場まではそれほど離れておらず、5分程歩けば到着する。
そこにはすでにいつでも出発できるよう準備を整えたジェット機が待機していた。
一年前に陽斗が初めて乗ったものと同じプライベートジェットである。
「お待ちしておりました。足元にお気をつけて搭乗してください」
タラップの前で綾音と裕美が、上では別のメイド達がいつものメイド服ではなく航空会社のCAのような服装で出迎える。
先に重斗が、それに続いて彰彦達がタラップを登る。
「陽斗さま、荷物を」
「だ、大丈夫です!」
いつものように甘やかそうとする綾音を振り切って陽斗もタラップを駆け上がった。
「さすがに凄いですわね」
「確かにすごいな。ヤバイ、緊張する」
陽斗に続いて入ってきた穂乃香と晃がそうこぼすと、陽斗が不思議そうに見返してきたのでふたりが苦笑する。
「うちも飛行機は所有してるけど基本的に会社で使うビジネスジェットなんだよ。会社が使わない時は私用で使うこともあるけど、内装は普通の旅客機のビジネスクラスくらいのシートが並んでいる実用性重視のものだからこれほど豪華じゃないさ。民間の航空会社を使うことも多いしね」
「そうなんですか?」
陽斗の場合は底辺に近い暮らしから急に重斗との生活に変転したために、富裕層の生活水準というものがいまいちわかっていないようだ。
「さぁ、すぐに出発しますからシートに着いてください。フライトは8時間ほどになりますから離陸してからゆっくりとなさってください。現地との時差は2時間ほどです。なので眠ってしまうと夜が寝れなくなりますよ」
悪戯っぽく綾音が注意を促したので陽斗はそそくさと席に着く。
重斗達はすでに機体後部の座席に着いており、立っていたのは陽斗達と綾音、湊だけだ。
ちなみに大山達警備班と他のメイドは最後尾のトイレ脇とギャレー脇にある乗員席に居るらしい。
陽斗が選んだのは座席はギャレーに近い一番前の席。
陽斗が窓側に座ると、ごく自然に穂乃香が隣に座った。
それからすぐに機内放送が流れ、パイロットからの挨拶とフライト予定、注意事項などが告知される。
操縦するのは陽斗が重斗の屋敷に来る時にも操縦してくれた大河内と河名の2名だ。その時とは違い、顔見せはしないらしい。
機内放送が切れると綾音達も自分達に充てがわれたシートに座ってベルトを締める。そしてそれを待っていたかのようにジェット機のエンジンが唸り始める。
ゆっくりと滑走路に向かい、十分程その場で待機。
管制塔の許可が降りてから滑走路に出た。
離陸のGが陽斗の身体をシートに押し付ける。
「っんぅ」
人生2度めの飛行機はまだ怖いらしく、目を固く瞑って身を強張らせた陽斗の右手が柔らかくて温かなもので包まれる感触がして陽斗は目を開ける。
「大丈夫ですわ。離陸してしまえば楽になりますから」
驚く陽斗に、穂乃香が頷きながら優しく微笑む。
もちろん陽斗の頭の中から強烈なGも緊張も何処かへ消え去り、恥ずかしさと手のぬくもりだけが内心を支配する。
「あ、あの」
「わたくしも何度乗っても離陸と着陸の感覚は苦手なので、もう少しこうしていてよろしいですか?」
「は、はい」
返事を返しながら、陽斗は少し、ほんの少しだけ穂乃香の手に力を込めた。
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