第63話 穂乃香の変化
ペラ。
病室のベッドで上体を起こし、写真集のページを捲る。
桜子が持ってきてくれたもので、近く開催される写真展の翌日から発売される彼女自身の写真集である。
本人曰く、動物写真家として活動してきた集大成という写真はどれも自然の中で生き生きとした野生動物を捉えたものばかりで、陽斗の目から見て息を呑むほど素晴らしい写真が数百枚掲載されている。
渡されてから幾度となく見入っているが、その度に時間を忘れて夢中になるほど気に入っている。
だが、そんな写真を目の前にして陽斗はいつになく集中できずにいた。
そして時折小さな溜息を吐いている。
写真集に顔を向けながらもチラチラと別の方に目をやっていたりする。
その目線の先には分厚い本を読んでいる穂乃香の姿があった。
「あの、穂乃香さん?」
「ひゃいっ?!」
思い切って陽斗が声を掛けると、穂乃香が奇妙な声をあげる。
「ど、どうかなさいました? 喉が渇いたのならお茶をいれますわよ?」
陽斗が穂乃香を気にしていた理由。
入院した翌日からどうにも穂乃香の様子がおかしいのである。
陽斗が怪我をしてから4日目になるのだが、穂乃香は宣言通り毎日面会時間ちょうどに病室にやってきて陽斗の世話をアレコレとしてくれている。
さすがに同級生に洗濯を頼むのは恥ずかしいので裕美にお願いしている(それも恥ずかしいが屋敷では洗濯をメイドがしてくれているのでいいかげん慣れた)が、食事の介助や飲み物の用意、その他細々としたことをしてくれて面会時間が終了すると帰っていく。
最初はトイレまで手伝おうとしたのだが、そればかりはなんとか説得して止めてもらった。
耳の先まで真っ赤にして恥ずかしがりながら尿瓶を手ににじり寄られるのは、人によってはご褒美かもしれないが陽斗にそんな性癖は無いのだ。そもそもトイレくらいなら片手でも一人でなんとかなる。
そんなわけで、色々としてくれる穂乃香なのだが、どういうわけかここ数日陽斗と目を合わそうとしないのである。
陽斗が呼びかければそちらを向くものの、目が合うとサッと逸らされてしまう。
嫌われてしまったのかとも思ったが、陽斗に向ける感情は優しく気遣いに溢れたもので、陽斗の世話を嫌々やっているとは思えない。
しかし、会話は途切れがちで、目も合わせてもらえないことに陽斗は困惑しているのだ。
「えっと、僕、穂乃香さんになにかしちゃったのかな」
「えぇ?! そ、そんなことはありませんわ!」
嫌われたわけではないにしろ、大切な友人であり憧れてもいる穂乃香と気まずいのは陽斗にとって辛い。
だから、もし自分で気付かない内に何かしてしまっているのなら謝ろうと陽斗は声を掛け、思ってもみなかったことを言われた穂乃香は慌てて首を振った。
「で、でも、僕が入院してから穂乃香さんに目を合わせてもらえないし、あまり話もしてくれないから」
言いながら、やっぱり嫌われたのかもなどと考えて悲しくなる陽斗。
それに焦ったのは穂乃香の方だ。
「そ、それは、その、陽斗さんがなにかした、というか、わたくしに悪いことをしたわけではありませんわ。えっと、そう! 陽斗さんに助けていただいたとき、わたくし随分とみっともなくて情けない姿をお見せすることになって、は、恥ずかしいだけです。ですから陽斗さんは何も悪くありません!」
早口で捲し立てるように言う穂乃香に圧倒されて陽斗は何度も首を縦に振る。
なにか誤魔化しているようにも見えるが嘘は言っていない感じがしたのでとりあえずホッとする。
陽斗としては穂乃香に嫌われていないのならそれで良いかと、わざわざ追及することはしない。
一方、穂乃香の方は突然陽斗から不安そうな言葉が漏れたことで必死になって誤解を解こうとした結果、陽斗を正面からしっかりと目を合わせることになり顔が赤くなるのを懸命にこらえていた。
何故なら、陽斗の顔をみる度にあの時の、穂乃香を暴漢に掠われそうになった瞬間がフラッシュバックしてしまうからである。
そしてそれは、その時の恐怖が蘇ってしまうということではなく、男達より遥かに小さな身体で、我が身を顧みることなく、ただ穂乃香を救おうと力を振り絞った陽斗であり、勇ましく牙を剥いた姿だった。
とはいえ、それはあくまで穂乃香視点であって、第三者から見ると子供が必死になって男の手に噛みついたり足にしがみついていただけである。
それでも穂乃香の目には誇り高い狼が勇猛に闘ったように見えたようだ。
乙女回路を通すと豆柴も銀狼に思えるのだろう。
事件当日は緊張と気持ちの高ぶりもあって意識せずに済んだのだが、家の自室に戻って気持ちが落ち着くと途端にその記憶がぶり返し、一晩経つ頃には数割増で美化されてしまった。
そんなわけで、翌日に陽斗の病室を訪れて陽斗の笑顔を見た穂乃香は、それ以降胸の高鳴りと気恥ずかしさでまともに陽斗の顔を見る事ができなくなってしまったというわけである。
これまでは陽斗に好意をもってはいても、異性というよりは友人や弟、あるいは可愛い小動物的な感情に近かったのが、助けられたことで一気に気になる異性へ昇格してしまったのだろう。
そして、良家の令嬢だけあって恋愛経験には乏しく、穂乃香は自分の感情を持て余しているのだ。
陽斗と穂乃香の間に先程までとは違った奇妙な沈黙が降りる。
自分のせいではないと分かっても陽斗に空気を変えるだけのスキルはない。藁にも縋るような思いで、すっかり定位置になった枕元で丸くなっているレミエに目をやるも、レミエは片眼でチラリと陽斗を見るなり呆れたように欠伸をするばかりだった。
「あの、お茶を淹れてきますね」
ほどなく穂乃香がなんとか気持ちを落ち着けてそれだけ言うと、椅子から立ち上がった。
直後、病室のドアがノックされる。
「陽斗さま、学園のご友人が面会に来られましたよ」
扉が半分ほど開き、裕美が顔を覗かせながら言う。
「あ、はい。裕美さん?」
普通に入ってこればいいのに、遠慮がちというか妙にニヨニヨした裕美の態度に陽斗が首を捻る。
「あ~、お邪魔したら悪いかなぁ、と」
「?」
「ちょ、相葉さん?!」
言われた事の意味がわからずキョトンとした陽斗と顔を真っ赤にする穂乃香。
抗議の声をあげようとした機先を制するようにドアが開かれて壮史朗や賢弥が入ってきたために穂乃香は口を噤むしかなかった。その隙に裕美はさっさと部屋を出ていってしまう。
「どうかしたのか?」
「なんでもありませんわ! わたくしは飲み物を準備してきます!」
壮史朗が穂乃香の態度を訝しむが、穂乃香は逃げるように病室の外にある給湯室兼看護師待機所に行ってしまった。
そこには裕美も戻っているはずなのでついでに文句のひとつでも言うつもりかもしれない。
「天宮くん、賢弥くん、セラさんも、来てくれてありがとう!」
陽斗の方は数日ぶりに会う壮史朗達の顔を見て嬉しそうに声をあげる。
「怪我をしたと聞いたが、具合はどうだ?」
「指が折れたのと手首にヒビがあったけど、すぐに治るって言われたよ。昨日くらいまではあちこち痛みはあったけど、もう大丈夫」
そう返す陽斗だが、右手は手首から指先までギプスで固定されているし、頭部は縫合の抜糸が済んでいない。顔も腫れと青痣ができていて絆創膏が貼られたままだった。普通に痛そうである。
「……随分と無理をしたようだな。今回は仕方がないのかもしれんが」
いつものようにぶっきらぼうな言い方だが賢弥の眼差しは柔らかく、陽斗の行動を褒めているように思えて陽斗は少しだけ誇らしいような気持ちになる。
「話は聞いたわよぉ。大活躍じゃない! 学園再開したらきっとその話題で持ちきりになるわね」
セラの方は快活に陽斗を褒め称える。
今回の様な事件に巻き込まれたときの対応に最適解などというものは無いだろう。全てが結果論であり、穂乃香は誘拐を免れ、陽斗も重傷ではあるが深刻な怪我を負うことなく済んだ。
「ふん、四条院が油断しすぎたのだろうさ。学園生活で一番リスクが高いのが校門を出てから送迎の車に乗り込むまでの間だってことくらいわかりそうなものだがな。
少なくとも、車道側じゃなく壁側を歩いていればそう簡単に掴みかかられることも無かっただろうよ」
確かに学園横の歩道は幅が充分にあるので壁に近いところを歩いていれば一瞬で車に連れ込まれることは避けられるかもしれないのだが、さすがにそれを言うのは酷というものだ。
最近でこそ陽斗の前では受け答えが穏やかになったように思えたが、壮史朗の毒舌は健在だったようだ。
「悪かったですわね。言い方には納得しかねますが、油断があったのは確か。反省していますわ。そのせいで陽斗さんに怪我までさせてしまったのですから、陽斗さんにもしものことがあったらと考えるとゾッとします」
お茶の準備をしていたにしては随分と戻って来るのが早かったが、穂乃香はトレーに人数分の飲み物を乗せて持ってきた。
おそらく裕美があらかじめ用意していたのだろう。メイド兼任なので手際がいい。
「で、陽斗くんが怪我しちゃったお詫びっていう口実でお世話をすることにした、と?」
セラがニヤニヤと穂乃香の顔を覗き込む。
「こ、口実とはなんですの?! わ、わたくしはそんなつもりで」
セラと穂乃香のじゃれ合いを呆れたように見ている壮史朗と賢弥。
先程までの気まずさはそこにはなく、まるで学園の教室のような雰囲気に陽斗も楽しげな笑みを浮かべる。
「あ、そういえば、学校って今どうなってるの?」
「ああ、事件の翌日に現場検証が終わってからすぐに工事が始まったぞ。学園の敷地の一部を送迎車両専用の待機場所にするらしい。これまでにも路上駐車や学園前の道に入る手前での渋滞などで何度か苦情があったらしいし、生徒からも門を出てから送迎車まで長い距離を歩くことが面倒だという声も上がっていたからな」
「今度からは事前に登録された車両のみがその待機場所に入る事ができるようになる。出入りはゲートと守衛、監視カメラで管理されるそうだ」
壮史朗と賢弥の言葉に陽斗は目を丸くする。
「凄いなぁ。まだ何日も経ってないのに、黎星学園って」
「まぁ、今回は誘拐未遂だからな。資産家の子女が多く通っているし、なにより、皇の孫が被害に遭ったんだから何もしないわけにはいかないだろう」
壮史朗の言葉に驚いたのは陽斗ではなく穂乃香だった。
「天宮さん、貴方、陽斗さんが皇家当主の孫だと知っていたのですの?! ほ、他の方達も?」
穂乃香がそう訊ねると、セラは若干気まずそうに、賢弥はなんでもないことのように頷いた。
「私の場合は外部受験の陽斗くんが学園に馴染めるように、同じく外部受験で入学するように頼まれたの。あ、でも、別に陽斗くんと友達になったのはそのことだけじゃないからね! いくらうちの家が皇の爺様に世話になってたからって私には関係ないし。面白そうだから引き受けることにして、実際に陽斗くんが気に入ったから一緒に居るの」
「俺は最初から陽斗に話してある。爺さんに頼まれたとな。だが俺も気に入らなければ断るつもりだった」
陽斗と知り合ったのが祖父との関係だったと知っても陽斗にとっては大して気にするようなことではないらしい。
賢弥からは最初に助けてくれたときに聞いているし、賢弥と付き合いの長いセラであればそういう事情があっただろうことは想像できていた。
そもそも切っ掛けはどうであれ、今では陽斗のことを心から友達だと思ってくれていることがわかるのでそんなことはどうでも良いのだ。
「僕は夏休みの間に知った。西蓮寺なんて聞いたことのない家名なのにかなり裕福な家に思えたから気になった。だから調べたら割と簡単にわかったんだ。勝手に調べたのは悪かったがな」
悪びれることなく言った壮史朗に、穂乃香は険しい顔だ。
「ううん、僕がちゃんと話してなかったから、ごめんなさい。でも穂乃香さんには知られたし、お祖父ちゃんも友達なら話しても良いって言ってくれたから」
陽斗はそう言って壮史朗にも笑みを向けた。
その瞬間、壮史朗の肩がほんの少しホッとしたように下がったような気がした。
ただ、そうなると面白くないのは穂乃香である。
このメンバーの中で穂乃香だけが陽斗のことを知らず、重斗と突然対面して恥ずかしい思いをしたのだ。
陽斗に何一つ落ち度はないのだが、気持ち的には蚊帳の外に置かれたようで、内心の不満が表情にも表れていた。
「そ、そろそろお暇しよう、かなぁ。陽斗くんは大丈夫そうだし?」
「そう、だな。べ、別に用事があったというわけではないからな。おい、武藤! さっさと先に行こうとするな!」
穂乃香の雰囲気が一変したことで、セラ達が慌てて席を立って挨拶もそこそこに病室を後にした。
「あ、あの、穂乃香さん?」
「陽斗さん!」
「ひゃい!」
ベッドの上で奇妙な返事を返してしまう陽斗に、ベッドサイドのテーブルの引き出しから何やら取り出した穂乃香が近づく。
「陽斗さん、ちょっと身体を起こしてください」
「う、うん」
言われたとおり起き上がり、ベッド上で足を伸ばした状態で座る陽斗。
そして穂乃香は枕を持ち上げて場所を空け、その場所に深く腰を下ろした。
何をしようとしているのかわからず上体を捻って見ていた陽斗を、穂乃香がグイッと引っ張る。
「え? わっ!」
ポスン。
引っ張られた陽斗が倒れ込んだのは穂乃香の膝の上。
「ほ、穂乃香さん?」
「耳掃除をします」
「え?」
「耳掃除、です」
唐突な、あまりに唐突な穂乃香の言葉に固まる陽斗。
機嫌が悪くなった人に耳掃除をしてもらうのは普通に恐い。
のだが、陽斗の頭を膝に乗せた穂乃香に、先程までの恐ろしげな雰囲気は残っていなかった。
「陽斗さんが悪いわけじゃないのはわかっています。でも悔しいのは確かなので、わたくしはもっともっと陽斗さんのお世話をします」
何がどう繋がればそういう結論に達するのか意味不明ではあるが、どうやら不満を陽斗への献身という形で発散させることにしたらしい。
「力を抜いてくださいね。わ、わたくしも他の方の耳掃除はしたことがないのでゆっくりとしますから、痛かったらすぐに言ってくださいませ」
「う、うん」
そんなふたりの様子を、ドアの隙間から砂糖を吐きながら見ていた看護師メイドが居たとか居なかったとか。
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