第61話 陽斗の怪我と穂乃香のお礼

「ん……」

 陽斗が小さな呻き声をあげてうっすらと瞼を開く。

「あ、あれ? ここ、は?」

 視界に飛び込んできたのは白い天井とLED照明の光。

 もちろん陽斗は『知らない天井だ』などというベタな事を言ったりはしない。というか、自分が何故ここにいるのか一瞬理解できず脳内でパニックになっていたりする。

 そうして寝起きの頭が少しずつ回ってきて、ようやく何があったのか思い出した。

 

「ほ、穂乃香さんは?!」

 穂乃香が連れ去られそうになったシーンが脳裏に浮かんだ瞬間、陽斗はガバッと身体を起こした。

 腕や背中に鋭い痛みが走るがそんなことに構ってはいられない。

 ベッドから転がり落ちる勢いで身体を捩った陽斗の顔は何やら柔らかいものに包まれて目の前が真っ暗になる。

「陽斗さん、落ち着いてください。わたくしはここに居りますわ」

「ぶふぇ? え? あ?」

 聞き覚えのある声に、陽斗は目を上に向ける。

 そこには優しげで、心配そうに覗き込む穂乃香の顔が至近の距離で陽斗と目を合わせていた。

 予想外の出来事に驚くが、と同時に今現在の態勢がどうなっているのかを理解して慌てて身体を離す。

 

「あ、あの、ご、ごめんなさい」

 陽斗が顔を真っ赤にして謝る。

 何しろベッドから降りようとして穂乃香の胸に顔を埋めてしまったのだから立派な痴漢行為である。もっとも、誰がしたのかが重要なのだが。

 案の定、穂乃香は陽斗が何に対して謝っているのかわからず、首を傾げるばかりだ。

 さりとて陽斗に謝った理由、つまり穂乃香の胸に云々と口にできるはずもない。

「とにかく、陽斗さんは怪我をされているのですから横になってください。すぐに看護師も戻って来るはずですので」

 穂乃香に促され、陽斗は大人しくベッドに横になった。穂乃香の無事が分かった以上慌てる理由もない。

 

 そうして少しだけ気持ちが落ち着いたことでようやく穂乃香の頬に貼られた絆創膏に陽斗は気がついた。

「穂乃香さん、その顔の怪我! あ、あの、僕がちゃんと助けられなかったから」

 その言葉を聞いて穂乃香は驚くと共になんとも居たたまれない気持ちになる。

「ただの掠り傷ですわ。ちょっと引っかかっただけですので数日もあれば跡も残らないと言われていますので安心してください」

 穂乃香はそう言って心配そうな陽斗に微笑むと、ベッド脇の椅子から立ち上がって居住まいを正す。

「陽斗さんが助けてくださったおかげでわたくしは暴漢から身を守ることができました。本当にありがとうございました。

 けれど、そのせいで陽斗さんには怪我をさせてしまいました。なんとお詫びを言ったらいいか分かりません」

 深々と頭を下げる穂乃香。

 

「あの後、わたくしが学園の警備員を呼んで、一緒に陽斗さんのところに戻った直後に陽斗さんは気を失ってしまったのです。その時の陽斗さんの様子は血まみれで、殴られた跡もありましたのですぐに救急車で病院に。

 一応の検査と治療は終わっていると聞いていますが、どこか痛むところはありますか? 目が見えづらいとか気分が悪いなどということはありませんか?」

 穂乃香が事情の説明をしつつ、陽斗に異変がないか真剣な目で確認する。

「えっと、僕は大丈夫、です。このくらいは平気なので」

 このくらいと言っているということは痛みがあるということだ。

 なまじ痛みに慣れているせいで陽斗はそういった感覚が鈍い。というか、許容範囲が広すぎるのである。

 穂乃香もなんとなしにそれを感じていて、言葉通りに受け取ることはなかった。

 

「陽斗さんは右手を骨折しているんです。それから頭部にも裂傷があって、数針縫ったと聞きました。他にも打撲や擦過傷が沢山なのですから痛くないはずがないでしょう?

 とにかく、しばらくは絶対安静ですわ。わたくしが責任持って陽斗さんのお世話をしますから」

「ええっ?!」

 穂乃香の宣言に陽斗が驚きの声を上げる。

「そんな、穂乃香さんにそこまでしてもらわなくても、その、病院だったら看護師さんとかもいるだろうし。それに、穂乃香さんは学校もあるんだから迷惑掛けられないよ」


「学園の方は臨時休校になっていますから大丈夫ですわ。あんな事件があったのですもの、警察の現場検証や再発防止の措置が終わるまでは休校だと連絡がありました」

 穂乃香の言葉に陽斗は目を白黒させているが、良家の子女が数多く通う黎星学園の、それも目の前で誘拐未遂事件が起こったのだ。特に今回は陽斗が必死になって穂乃香を助けなければ誘拐に成功していた可能性が高い。

 学園としては早急に対策を講じなければ保護者からの責任追及を逃れられないわけだ。設置されている監視カメラ程度では事件を完全に防ぐことができない。

 今頃は学園の運営に携わる人達がてんやわんやの状態だろう。

 

「そういうことですのでわたくしのことも、学園のことも心配無用です。

 陽斗さんはご自分の身体を治すことだけを考えていてください。治療のことはお医者様や看護師の方々にお任せするしかありませんが、身の回りのお世話はわたくしがしますので」

 今どきの病院は家族であっても入院患者の世話をすることなどほとんど無い。精々が買い物を代わりにしてやるくらいだろう。病院によっては付き添い自体認めていないところもあるくらいだ。

 陽斗にはそんなことは知りようもないが、それでも申し訳なさから断ろうとするものの、穂乃香の決意は固く、結局押し切られる形で了承することになった。

 

 寝たままの状態で人と話すのが落ち付かず、陽斗が身体を起こそうとすると実際に行動に移す前に穂乃香が察して優しく肩を押さえて起き上がるのを止める。

「はうぅ……」

 なにやら聞き分けの悪い子供を嗜めている母親のようなその仕草に、陽斗は気恥ずかしさで顔を赤くして唸る。

 その様子に穂乃香の内心は萌えまくっているのだが、欠片も表に出さないのは育ちの良さ故か。

 身体を動かすことができなくなった陽斗は首だけで病室を見回す。

 

 落ち着いてみてみると、病室にしてはやけに広い。

 ベッドこそ普通の病院にあるものと同じように見えるが、部屋は20畳近くあり、壁に設置されているテレビはスクリーンかと思うほどの大きさがある。

 それに入口とは別に扉がふたつあり、それぞれ『トイレ』『浴室』の表示がされていた。病室というよりはワンルームのマンションのようだ。

 ただ、ベッドを囲えるようにカーテンが下がっていたり、清潔感のある白い壁紙や家具類がほとんど置いていないことなど病室らしい部分もある。

 

 コンコンコン。

「失礼します。あ、陽斗さま、目が覚めたんですね」

 陽斗がキョロキョロしていると不意にノックの音が聞こえ、病室に陽斗の専属メイドである裕美がナース服姿で入ってきた。

「ゆ、裕美さん?! あ、そうか、ここ、裕美さんの病院なの?」

 陽斗は驚くが、すぐに裕美が看護師を兼任していることを思い出した。

 陽斗の心身を心配した重斗が現役の看護師と心理カウンセラーを陽斗付のメイドにしていたのである。

 裕美は技能を維持するために今でも週の半分を病院で看護師の業務に携わっているのだ。

 

「先生も来ていますので、陽斗さまの状態の確認と、治療の説明をしますね」

「あ、はい」

 看護師モードの裕美の言葉に、陽斗は慌てて身体を起こす。

 穂乃香も今度は制止することなく椅子から立ち上がり、邪魔にならないように病室の隅に移動する。と同時に裕美がベッドをカーテンで囲む。

 そして裕美と一緒に病室に入ってきた医師が陽斗に体調や自覚症状などを質問し、脈拍や血圧、呼吸音などを確認。

 それから陽斗の怪我の状態の説明が始まった。

 

 医師の説明によると、陽斗は右手首の亀裂骨折と指の骨折が2箇所、頭部に殴られたときにできた裂傷があり、7針縫っているということだった。

 他にも擦過傷や打撲などはあるが、大きな怪我としてはそれくらいだということだ。

 全治4週間ほどで、入院は1週間程度を予定しているらしい。

 頭部の怪我があるのでしばらくは経過観察の必要があるのだという。

「くれぐれも、くれぐれも! 安静にして、少しでも気分が悪くなったり、ほんの少しでも違和感を覚えたら夜中でも構いませんから必ずコールをして下さい」

 医師の男性は陽斗が恐さを感じるくらいの真剣な表情で念押しして枕元のコールボタンを手渡した。おそらくは万が一の事があったらと考えたのだろう。

 その後は裕美の口から入院中の注意事項や部屋の説明などがされた。

 幸い手の怪我は右手だけだったのである程度のことは自分でできそうだ。利き腕なのは困ったが。

 

 この病室の隣にこの特別室専用の控え室があり、裕美や他の看護師が24時間態勢で待機してくれているらしい。

 なので何かあれば呼ぶように言われたが、基本的に一日数回の回診と食事、清拭以外は呼ばない限り病室に入ることはないということだ。

 一通りの説明を終えると、医師と裕美が病室を出て行った。

 残ったのは陽斗と穂乃香だけだ。

 

「それでは陽斗さんはまた横になって下さい。なにかしてほしいことや欲しい物はありますか?」

 再びベッドに寝かせられた陽斗に、穂乃香は早速世話を焼き始める。頭を撫でながら。

 どうやら宣言通り陽斗のために付きっきりで世話をするつもりらしい。

「あの、だ、大丈夫、です。穂乃香さんだって怪我をしてるし、恐い思いだってしたんだから無理しなくても」

「わたくしはそれほど柔じゃありませんわ。それに陽斗さんが助けてくれたんですから何かしたいんですの。あの、迷惑、ですか?」

 一転して穂乃香が不安そうな顔を見せると、陽斗は慌てて首を振る。

 申し訳なかったり気恥ずかしいだけで、嫌なわけではないのだ。

 

「少なくとも入院中はお任せ下さい。退院しても学園ではわたくしがサポートしますから、それと……」

 陽斗が嫌がっていないことがわかり、嬉しそうに微笑みながら返した言葉の途中で、バタバタと騒々しい足跡が近づいてきて、バタンッと乱暴に病室のドアが開かれた。

「陽斗っ!!」

「え? あ、お祖父ちゃん」

「陽斗、大丈夫か? 痛みは無いか? 気分はどうだ? なにかして欲しいことはあるか?」

 足早にベッドに駆け寄りながら矢継ぎ早に訊ねる重斗。穂乃香は咄嗟に立ち上がって場所を空ける。

 

「ぼ、僕は大丈夫。そんなに痛くないし、お医者さまも心配いらないって」

「そうか、無理や我慢は駄目だぞ。とにかく陽斗はなにも心配せずに全て祖父ちゃんに任せておきなさい。陽斗をこんな目にあわせた奴はひとり残らず消し去ってやるからな」

 物騒な重斗の言葉に陽斗は困った顔を見せることしかできない。

「あの、僕が襲われたわけじゃなくて、穂乃香さんが攫われそうになったから。お祖父ちゃん、できれば穂乃香さんの力になってあげてほしいんだけど」

「うむ。来る途中で桜子からある程度の事情は聞いている。だから安心すると良い」

 祖父の言葉に、陽斗は嬉しそうに穂乃香に向かって笑みを浮かべる。

 それを見て、重斗はようやく病室に穂乃香がいることに気付いたようだった。

 

「ん? おおっ、申し訳ない。陽斗しか目に入っていなかったようだ。四条院のご令嬢だね?」

「あ、あの、も、もしや、皇のご当主様、ですの?」

 信じられないといった表情で穂乃香は固まっていたのだった。

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