第59話 陽斗の奮闘

「んむぅぅぅぅぅ!!」

 突然背後から抱きすくめられ、口を塞がれた穂乃香が上げた叫び声はくぐもったもので周囲に響くことはなかった。

 咄嗟に身を捩って抵抗するものの、折れんばかりに力を込められた腕は微動だにしない。

 そしてそのまま後ろに引きずられる穂乃香の視界の端に1BOXカーの開け放たれたドアが写る。

(っつ! 連れ込まれ……)

 車を見た瞬間、目的が誘拐だと察した穂乃香は咄嗟に腕を広げてドアの縁を掴もうとした。

 

 そして、その手が微かに車体の横に触れた直後、不意に腰に回されていた男の腕の感触が無くなる。

「うぐぁぁっ!!」

 同時に野太い悲鳴が響き、穂乃香は身体を捻って男の腕から逃れた。

 口を塞いでいた手の爪が頬を引っ掻き、鈍い痛みが走るが構っていられない。

 すぐに離れようとした穂乃香だったが、離れる際にバランスを崩して転んでしまった。

「っ、しまっ……」

 慌てて地面に手を着いて車の方に身体を向けて追って来るであろう男に備える。

 だが、穂乃香を捕まえていた男の追撃はなかった。

 

「うぎゃぁぁっ! は、放せ! このガキ!!」

 穂乃香の目に飛び込んできたのは穂乃香を捕まえていたであろう男と、その腕を両手で掴んで手首に噛みついている陽斗の姿だった。

 男は陽斗を引き剥がそうと腕を振り回すが、陽斗は全身の力を使って男の腕に取り付き剥き出しになっていた手首に歯を立てている。

 相当な力で噛みついているのか、すでに男の手からは血が出ており周囲にも飛び散っていた。

 予想外の光景に呆然としてしまう穂乃香。

 

「放せぇぇぇっ!!」

 男の叫びと共に大きく振り回された陽斗が、とうとう振り解かれて吹き飛ばされる。

 と、同時に、ブツッと鈍く妙に耳に残る音が鳴り、男は腕を押さえてその場に蹲った。手首からはかなりの血が流れている。

「は、陽斗さん!?」

 飛ばされて歩道を転がった陽斗に、穂乃香は悲鳴混じりに声を掛ける。

 直後、車の方から別の男が穂乃香に走り寄ろうとする。

「クソッ、なにやってやがる!」

 

 その声にハッとした穂乃香が立ち上がるより早く手を伸ばす男だったが、穂乃香に掴みかかる直前、穂乃香の脇を猛スピードで陽斗が駆け抜けて男の両足を抱える。

「穂乃香さん、逃げて! 早く!!」

 渾身の力で男に取りすがりながら陽斗が叫ぶ。

 陽斗の声には必死さと、絶対に離さないという強い意志が込められていた。

 誰よりも小さな身体から発せられた誰よりも雄々しい声に、穂乃香は弾かれたように立ち上がり、踵を返した。

「すぐに人を呼びます!」

 穂乃香はそう叫ぶと後ろを振り返ることなく走り出した。

 

 穂乃香は日本有数の資産家令嬢である。

 当然、幼少の頃から繰り返し誘拐などの危険性やその対処などを教え込まれていた。

 相手の目的が穂乃香である以上、この場に留まっては余計に周囲を危険に晒すことがわかっている。

 陽斗のことは心配だが、逆にそのためにも一刻も早く穂乃香は自分の身を安全な場所に避難させ、陽斗の救援のために人を呼ぶ必要がある。

 

 一方、穂乃香に逃げられてしまった1BOXの男達は拉致の失敗を悟らざるを得なかった。

 元々の計画ではスライドドアを開け放つと同時に中から一人の男が飛び出して穂乃香を捕まえ、助手席に乗っていた男と一緒に車内に連れ込み、車を発進させて逃げる予定だったのだ。

 上手くいけばほんの数秒足らずで穂乃香を拉致することができただろう。

 都合の良いことに穂乃香の周囲に人の姿は無く、送迎のために停まっている車の中に居る者達はすぐに出てくる事はないだろうという計算もあった。

 一緒に居る陽斗の姿は見えてはいたが、ほんの小さな子供にしか見えず障害になるなど思ってもみなかったのだろう。

 ところが穂乃香を捕まえるところまでは上手くいったものの、眼中になかった陽斗の邪魔で逃げられてしまう。

 もはや計画の続行は不可能であり、この期に及んでは逃げるしかない。

 

「くそったれが! 放しやがれ!」

 陽斗に足を抱えられた男が悪態をつきながら振り解こうとするも、先程の男の時と同じく全身で掴まっているためになかなか引き剥がすことができない。

 髪を掴んで引っぱろうが顔を殴りつけようが、離したらまた穂乃香を捕まえようとすると思い込んでいる陽斗は両手両足でコアラのように必死にしがみつく。

「このっ!」

 両足を抱えられて車に逃げることもできない男が焦る。

 手首を噛まれた男はすでに車内にいた別の男に中に引き摺られていっている。このままでは穂乃香や周囲の車の中で異変に気付いた連中の通報で警察が来るだろう。

 そうなれば揃って捕まるか、車に残っている連中に見捨てられて置き去りにされるしかない。

 そう考えた男はとうとう脅すために持っていたナイフをポケットから取り出す。

 そしてその刃を陽斗に突きたてようと振りかぶった。

 

 だがそれが振り下ろされるより先に男に白い影が跳びかかった。

「ぐわぁっ?! ぎゃぁぁっ!!」

 印堂いんどうと呼ばれる急所である鼻根の部分、それに右目に鋭い痛みを感じて手にしたナイフを落とす。

 痛みに悶えた男は、両足を掴まれているためにバランスを崩して仰向けに倒れる。

 すでに痛みのあった右目は開けることができず、男が残った左目で最後に見たのは恐ろしい形相で自分に襲いかかる獣の姿だった。

 

「突っ込んで!」

 倒れた男の姿に回収を諦めたのか、1BOXが車を発進させようとした瞬間、桜子の指示で皇家のリムジンが1BOXの前輪部分に斜めから衝突した。

 丁度進もうとした矢先であり、ぶつかった勢いで1BOXは歩道側に乗り上げてしまう。

 リムジンは勢い余ってその先に居た車の後部にもぶつかるが、そんなことには構わずリムジンから護衛のために乗り込んでいた警備班の男2人(内1人は運転手を兼任)が飛び出す。

 

 慌てて運転手がドアを開けて逃げようとするが、警備の男が容赦なくドアを蹴って降りようとしていた男にぶち当てる。そして挟まれて崩れ落ちた男の顔面をもの凄い勢いで蹴り飛ばした。

 なかなか足癖の悪い警備班だが、その一撃であっさりと無力化したので効率的ではあるのだろう。

 もう一人も警棒を片手にスライドドアに回り込み、ドアから誘拐犯達が逃げるのを牽制する。

 見るからに屈強そうな警備班。それもその筈、この日の担当は皇家の警備班班長の大山だ。

 飛び出した瞬間に、横目で陽斗の血まみれの姿(実際は噛みついたときの返り血)を見て完全にブチ切れている。

 車から誘拐犯達が降りてきたら本気でぶち殺す気満々で待ち構えており、その雰囲気に恐れをなした車内の男達は逆にドアを押さえて開かないようにしていたのはどちらにとっても幸いだったかもしれない。

 

「陽斗さま! 大丈夫ですか?!」

 そうして陽斗の方である。

 桜子と裕美も車から飛び出して真っ先に陽斗のところに走り寄る。

 そこには大柄な男の両足を抱え込んだままの陽斗と、顔面を押さえて呻き声をあげる男。全身の毛を逆立てて唸り声を上げているレミエの姿が。

 倒れた男の顔は血で真っ赤に染まっておりもはや意識があるのかさえ疑わしい。特に両目付近は酷い状態のようだ。

 それでも桜子はいつでも踏み抜けるように男の首に足を乗せて陽斗に声を掛ける。

 

「陽斗、もう大丈夫よ! 陽斗!!」

 無我夢中で男の足にしがみついていた陽斗は桜子や裕美の声が耳に入っていない様子だったが、桜子に肩を揺すられて耳元で呼ばれたことでようやく桜子達の姿が目に映った。

 転がったまま視線を穂乃香を誘拐しようとした車の方に移すと、いつも陽斗に訓練の指導をしてくれる大山と、リムジンの後ろをいつものように護衛していた警備班の数人が1BOXを取り囲んでいることに気付く。

 

「あ、えっと、あの……」

 戸惑いながらも掴んだままの男の足を離そうとする陽斗だったが腕が固まったように動かない。

「大丈夫ですよ。動かしますから力を抜いて下さいね」

 裕美がそう声を掛けながら堅く強張った陽斗の腕をゆっくりと解いていく。

 限界を超えて力を入れたりするとその後自分の意思で動かすことが一時的にできなくなることがあるのだ。

「陽斗さま、立てますか?」

「う、うん」

 男の身体から引き離された陽斗が裕美の力を借りて立ち上がる。

 といっても足はガクガクしているし腕もプルプルと震えていて、とても大丈夫なようには見えない。

 

「すぐに救急車を呼びますからね」

「頑張ったわね。救急車が来るまで私に凭れていなさい」

 陽斗の身体を診て裕美がスマホを取り出し、桜子は陽斗の肩に優しく手を添えてそっと抱きしめる。

 しかし陽斗は首を伸ばしてあたりを見回していた。

 そして、学園の校門の方から数人の警備員と共に穂乃香が走ってくるのが目に入り、そのまま倒れるように意識を失った。

「陽斗?!」

「陽斗さま!!」

「にゃぁおぅ!!」

 

 

 

 都内にあるオフィスビルの最上階。

 桐生家が経営する会社が所有する建物であり、桐生グループの中核を成す桐生重工の本社オフィス、その社長室に桐生貴臣は居た。

 貴臣は始業式の翌日から学園には登校していない。

 かれこれ1週間以上学園には行かず、こうして父親の経営する会社の社長室で時間を潰していた。

 名目は父親の仕事の手伝いとなっているが、実際には何もせずにスマホを弄る程度のただただ時間を持て余すだけの日々だ。

 

「くそっ! 連絡がねぇ! 失敗しやがったか」

 忌々しげに溢す貴臣に、これまた豪奢なデスクにふんぞり返った男が眉を顰める。

 恰幅が良いと言えば聞こえは良いが、単にでっぷりと太り、性格の悪さが顔に出ているかのような男は、どことなく貴臣に似た風貌をしている。

「ふん。1週間経っても連絡がないということは失敗したのだろうな。貴臣、連中への対策はしているのだろうな?」

「それは心配いらねぇよ。組の末端の、さらに付き合いのある程度の小さな組が半グレの連中を金で雇ってる。そいつ等は何も知らされてないし、捕まったところでこっちまで辿ることなんてできやしねぇさ」

 不満そうな表情のまま言い切る貴臣に、男は頷いた。

 

「とはいえそんな連中は信用できねぇからな。穂乃香に手を出されたら元も子もないから前金は少額、成功報酬はかなりはずむことになってた」

「女を手に入れるには手っ取り早いが、危ない橋であることには変わりない。まぁ名家であればあるほど体面を気にするから悪い手ではないがな」

 彼等が話しているのはもちろん穂乃香の誘拐に関することだ。

 貴臣は生徒会役員を解任させられたことを切っ掛けに、より直接的な方法を執ることにした。

 それには解任も一因ではあるが、なにより穂乃香が貴臣を警戒して接触ができなくなったことと、ここにきて生徒会長である琴乃が貴臣の妨害をし始めているからだ。

 もちろんこれは貴臣の思い込みで、横暴な貴臣の態度に業を煮やした琴乃や雅刀が生徒会からの排除に動いたのであり、その流れを周囲の生徒達が敏感に感じ取り距離を取ろうとしただけのことだ。

 穂乃香が貴臣を避けるのも、単にそんな貴臣を嫌っているからにすぎない。

 

 とはいえ、そんなことを素直に反省できるようならばこうはなっていないだろう。

 結局、貴臣は最も短絡的な方法を選択したというわけだ。その内容はわざわざ語る必要も無いだろう。

 学園を休んでこうして父親の会社に入り浸っているのも、万が一の事を考えてアリバイを作っておくためだ。ここならば出入りの時は必ずオフィスの誰かの目に入る。もっとも貴臣の立場からして直接犯罪を行うことなどないのでアリバイなどまったく無意味なのだが。

 

「失敗だとして、拉致するのに失敗したのか、それともチャンスがなかったのか……」

 貴臣は呟きながら次の手をどうするのか考えあぐねる。

 穂乃香の写真と当面のスケジュールなども実行犯には渡してあったがさすがに一日で成功するなどとは思っていなかった。

 実行犯となる半グレの連中だって充分に警戒しながら行動に移すはずだ。だからこそ1週間以上待ったのだが、失敗していたとしてもどう失敗したのかで今後取れる方法は変わってくる。

 誘拐をしようとして失敗したのなら穂乃香の方もこの先かなり警戒するはずだから早々チャンスが訪れるとは思えない。

 誘い出すような方法を考えなければならないが、チャンスが無くて行動に移せなかったのだとしたらもう少し時間を掛ければなんとかなるだろう。

 

 貴臣がそんなことを考えていると、不意に貴臣のスマホが着信音を鳴らした。

 表示を見ても見覚えのない番号だ。

 だが仕事を依頼した組の者かもしれないので出ないわけにはいかない。

「チッ、もしもし」

『お久しぶりですね、桐生君』

 予想に反して聞こえてきたのは若い女の声。それも聞き覚えのあるものだった。

「! ……錦小路」

『一応私は貴方の先輩なんですけどね。まぁ、何度言っても理解できない人にこれ以上は意味がありませんか』

「何の用だよ。生徒会から俺を追い出して、わざわざ嫌味でも言うつもりか?」

 相変わらず嘲るでもなく淡々と言葉を紡ぐ琴乃に苛立った声を上げる貴臣。

 

『私はそれほど暇ではありませんよ。こうして電話したのは貴方がしたことの結果がどうなったのかをお知らせするためです』

「……なんのことだ?」

『結論から申し上げた方が良いかしらね。桐生貴臣君、貴方は本日行われた緊急理事会で黎星学園の退学が決定しました。理由は……当然お解りですよね』

「な?!」

『5日前、生徒会役員会議の帰りに四条院穂乃香さんが暴漢に襲われ誘拐されかけるという事件が起こりました。幸い、一緒に居た他の役員が四条院さんを逃がすことに成功し、生徒の送迎のために近くに居た警備員などによって犯人も取り押さえられましたが、学園のすぐ目の前で行われた許されざる犯罪に対し警察と学園、関係者などが調査を行い、実行犯の素性とそれを指示した者もすぐに割り出されました。ここまで言えば貴方にも理解ができるのではないかしら』


 琴乃の断定的な言葉に貴臣の背に冷たい汗が噴き出る。

「な、なんの話だ。俺には関係ないだろう!」

 否定する言葉に、琴乃の含み笑いを含んだ言葉が重なる。

『それなりに隠蔽工作はされていたようですから、本来ならばこうも簡単に背後関係を割り出すことはできなかったかもしれませんね。

 けれど、今回貴方は絶対に敵に回してはいけない方を怒らせた。

 お父上には警告したはずなのですけどね。西蓮寺を名乗る少年には手を出してはいけないと』

「西蓮寺、だと? それは、あのガキのことか? アレが何だと言うんだ!」

『呆れたものね。手を出していけない理由を知らせてないなんて。

 まぁいいわ。

 とにかく、貴方も、桐生家も、全てを失うことになったというわけよ。

 一応、中等部からの生徒会役員のよしみで覚悟の時間くらいはあった方が良いかと思って連絡したのよ。要件はそれだけ。

 それではごきげんよう。もう会うことはないでしょうけれど、ね』

 琴乃は一方的にそれだけ言うと、貴臣の返事を待たずに通話を終了した。

 

「ま、待てよ! どういう意味だ? おいっ!……」

 慌ててスマホに向かって怒鳴るが、すでに通話は切れており返答はない。

「貴臣、どうかしたのか?」

 ただならぬ貴臣の様子に、父親が眉を顰める。

 だが貴臣はすぐには電話の内容を話すことができなかった。というよりも、貴臣自身理解できていないために言葉にできなかったのだ。

 そして貴臣に再度問いかけるよりも先に、部屋に秘書の一人が慌てた様子で飛び込んできた。

 

「しゃ、社長、大変です! と、取引している会社から契約を解除すると連絡が」

「何? どういうことだ!」

「我が社が下請けとして使っている会社だけでなく、納入先の企業や官庁からも『反社的組織と繋がりがある企業との取引はできない』と。『契約書の規定の通り即時解除をおこなう』と。グループ会社にもひっきりなしに契約解除の連絡が入っています」

「ば、馬鹿な!」

 どれほどの大企業であっても営利団体である以上、他の企業や組織との取引があってこそ企業たり得るのだ。購入先や販売先がなければ商売どころではない。

 確かに桐生グループはあまり評判が良くないとはいえこれほど急に取引先が契約を解除するはずがない。

 男には何が何だかわからず、ただ困惑するばかりだ。

 

 さらに追い打ちをかけるように部屋の外から怒鳴るような声が近づいてくる。

「お、お待ちください! 勝手に入られては困ります!」

 そんな言葉が聞こえた直後、再び部屋の扉がノックも無しに開かれる。

「桐生グループの総帥、桐生宗臣さんですね。我々は地検特捜部の者です。

 貴方には贈賄と脅迫などの罪で逮捕状が出ています。ご同行いただきたい」

「な?! ななな……」

 宗臣は急激な展開にもはや正常な判断などできず、壊れた人形のように口をパクパクさせるばかり。

 そして次に捜査員の目は貴臣にも向けられる。

「桐生貴臣君だね? 君にも女性に対する誘拐教唆の疑いが掛けられている。担当するのは所轄の警察だが、一緒に来てもらえるね?」

 桐生親子は事態の把握をすることすらできず、捜査員によって部屋を後にすることになった。

 

 

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