第53話 大叔母
皇家の厨房にあるガスオーブンの前で楽しそうに陽斗が中を覗き込む。
その様子はまさにご機嫌といった感じで鼻歌までが聞こえてきそうなほどだ。
一応厨房の中にいるのは陽斗ひとりだけであり、作業台の上には陽斗が使ったのだろう、ボウルやハンドミキサーなどが雑然と置かれている。
そうこうしているうちにタイマーのベルが鳴り、陽斗がオーブンを開くと周囲に甘い匂いが立ち込めた。
ミトンをはめた小さな手で慎重に中から器を取り出す陽斗。
縁が波形になった白い陶器製ののパイ皿だ。
直径は30cm近くある大型の物で、中には香ばしい焼き目のついた生地に所々赤い果実が覗いた愛らしい焼き菓子が入っている。
陽斗はオーブンから取り出したそれを作業台に乗せて粗熱をとっている間に使った道具を洗い始めた。
道具の扱いは丁寧で、派手な音をたてることなく綺麗に洗う。
洗い終えた道具類は清潔な布巾で拭いて、元あった場所に戻す。
一連の動作は手慣れており、これまでにも何度も繰り返していることが見て取れる。
最後に粗熱の取れた焼き菓子に粉砂糖を振りかけ、作業台を綺麗にして全ての作業が終了した。
「できた!」
満足そうに笑みを浮かべる陽斗。
と、厨房の入口から声が響いてくる。
「陽斗さま、出来上がりました?」
あまりにできすぎたタイミングに陽斗はクスッと小さく笑うと、その声に答える。
もちろんタイミングが良いのは厨房のすぐ外側で、見つからないように気をつけつつ数人のメイドが陽斗のことを見ていたからであり、その理由は、万が一陽斗が火傷などをしたりしたときにすぐに手当ができるようにである。その証拠に彼女たちの手にあるのは救急箱や消火器などだ。
「できました。えっと、今日も味見をお願いできますか?」
陽斗のやや遠慮気味な言葉に、せっかく身を隠していた他のメイド達も歓声を上げてしまう。
これには陽斗も苦笑いだ。
もっとも、陽斗が自室以外のどこに居ても誰かしらが近くに居ることにいいかげん慣れてきたのでそれを不快に思うことはない。
それに、陽斗が作った料理やお菓子をメイド達に振る舞うのもこのところ頻繁に行っていることなのである。
陽斗は料理部に入ってから初めて料理を作る楽しさを知ることになった。
皇家に来るまで陽斗は日常的に料理を作ってはいたが、それは家事をすることを強制されていたからだ。
それ以外でも新聞店の社長達や小学校時代に友人の家で料理を作ることはあったが、それは日頃のお礼としての意味合いが強く、作ることの喜びを感じることはなかった。
しかし、黎星学園で料理部に入り、その練習として屋敷の厨房で料理を作り、それを重斗やメイド達に食べてもらうようになってから、すっかり料理が趣味になってしまう。
通常の食事メニューはさすがに屋敷の料理人達が作るのでそこに割り込むのは失礼だと考え、主にお菓子を作ることにした。
特に夏休みに入ってからは時間を持て余し気味なので2日に一度くらいの頻度で昼食後の厨房が空いた時間を使わせてもらっている。
なので今日も午後からレシピ本で興味を引かれた、自分でも作れそうなお菓子を作ったのである。
陽斗がお菓子を作るようになってから、皇家の厨房には一般的なあらゆる食材が常にたっぷりと用意されているので、材料だけでいえばどのようなお菓子でも作ることが可能だ。
そして作った料理や菓子は重斗や使用人達に振る舞われるのも今や恒例となっており、使用人達の間ではご相伴に与るためのくじ引きが毎回行われているほど。
陽斗とメイドの裕美、正月に陽斗の着付けを担当した加奈子、それからおちゃらけ弁護士メイドの彩音の4人が食堂に移動してお茶の準備を始める。
どうやら今日くじ引き結果はこの3人と警備担当数人らしい。
彼女たちは陽斗と共に、警備担当達には後で加奈子が届けるということになっているそうだ。
今回陽斗が作ったのはフランスのリムーザン地方の伝統菓子であるクラフティ。型にタルト生地を敷いて中にサクランボやベリー類を並べ、卵、牛乳、生クリーム、砂糖、小麦粉を混ぜた生地で覆って焼き上げた、果物入りカスタードプディングのような菓子だ。
裕美がクラフティを切り分けて皿に載せて配り、加奈子が紅茶を淹れる。
そして真っ先にクラフティを口に運んだのは予想通り彩音である。
「ん~! 美味しい! 陽斗さま、作る度に上手になっていきますね。これなんかお店で売ってたら買っちゃいますよ」
「あはは、あ、ありがとう。でもちょっと焦げちゃったけど」
「私はこのくらい焦げ目が付いてる方が美味しそうで好きです! というか、陽斗さまの作ったお菓子なら給料全部つぎ込みます!」
「太るわよ」
女が3人いるのでキッチリ姦しい。
陽斗もこの屋敷に来て半年以上経っているのでいいかげんこういった雰囲気には慣れてきたし、そもそも賑やかなのは嫌いではない。
やり取りをニコニコしながら見つつ、自分の作ったクラフティを口に運ぶ。
本場ではブラックチェリー(木材としても使われる本来のブラックチェリー、ウワミズザクラではなくアメリカンチェリーのピング種)を使うのだが、北海道産の
期待以上の出来に陽斗の顔も綻ぶ。
彩音の褒め言葉は過剰だし、見た目はプロが作った物ほどではないが、それでも素人の高校生が作ったと考えれば十分な出来栄えだろう。
陽斗がクラフティと紅茶を楽しんでいると、俄に食堂の外、玄関に通じる廊下が騒がしくなる。
「? 何でしょうか。見てきます」
彩音がそう言って席を立つ。
そして食堂の扉に手を掛けた瞬間、扉が勢いよく外側に開かれた。
「陽斗はここにいるの?!」
直後響いた声と姿を現した見たことのない女性。
年齢は40代後半くらいだと思われるが、浅黒く灼けた肌に、目鼻立ちは整っており、どことなく年齢不詳な若々しさがある。
「「「桜子様?!」」」
彩音達がその女性を見て驚いた声を上げる。
だが当然陽斗にその理由が分かるはずもなく、キョトンと首を傾げるばかり。
自分の名前を叫んでいたが、その理由が想像つかないので反応することができないのだ。
桜子と呼ばれた女性が食堂を見渡し、陽斗と目が合う。
しばしの間見つめ合うことになるが、桜子は不思議そうな表情をしていた。
(……なんでこの家に子供が? 背格好からすると小学生くらいだけど、でも、どこかで見たことがあるような)
内心の疑問が顔にも表れている。
だが、やがてひとつの可能性に思い至り、徐々にその表情が驚きに変わっていく。
「えっと、間違っていたらごめんなさいね。もしかして、貴方、陽斗、なの?」
まるで答えを聞くのを恐がっているかのような、おずおずとした問い。
「は、はい。ぼ、僕は陽斗、です」
陽斗はここでようやく桜子が食堂に入ってきたときに呼んだ名が自分のことだと認識して席を立ち、頭を下げる。
「そ、そう。え、でも、陽斗はもう高校生くらいのはずじゃ」
陽斗が応えたというのに桜子はさらに混乱してしまう。
そこでようやく我に返ったらしい彩音が助け船を出す。
「桜子様、その方は間違いなく陽斗さまです。DNA検査もしましたし、旦那様も認めております。事情は色々ありますが、年齢も15歳で黎星学園高等部の1年生です」
以前より面識があり、彩音の本職が弁護士であることも知っている桜子は、ようやく信じる気になったのか、改めて陽斗の顔をジッと見つめる。
「本当、なのね。……確かに葵ちゃんの面影がある。というか、彼女の子供の頃そっくりだわ」
言いながら桜子は陽斗に近づき、おもむろに抱きしめた。
「え? あ、あの?」
「良かった。手紙で陽斗が生きていたと書かれていたから急いで帰ってきたけど、ようやく会えた……」
桜子の腕の中で陽斗は固まったままである。
陽斗としては、桜子の言葉から祖父あるいは母の関係者であろうことは察したものの、詳しいことが分からないのでどういう態度を取ったらいいのか判然としないのだ。
「さ、桜子様、陽斗さまが困っておられますので一旦説明をしたいのですが」
「ああ、ごめんなさい。そうね、驚くわよね。
コホン。
私の名前は“
「え、あ、はい。ぼ、僕は西蓮寺、陽斗、です」
桜子の言葉に驚いたものの、重斗から妹がいると聞いたことがあったのを思いだし、慌てて気をつけをして頭を下げる。
しかし疑問が顔に出ていたらしく、桜子は眉を顰めた。
「どうかした?」
「えっと、お祖父ちゃんの妹って聞いて、その、もっと、あの、お婆ちゃんみたいな人かなって思ってて、あの、だけど、想像より綺麗な人だったから……むぎゅ」
言葉の途中で再び強く抱きしめられる陽斗。
「な、なんて可愛いの!?」
見た目からは想像もつかないほどの力で頭を抱き寄せられる。
ただでさえ非力な上に、年配の女性相手に暴れるわけにもいかず、窒息寸前な陽斗を救ったのは凛とした声だった。
「桜子さん! 陽斗さまが苦しがっています! 放しなさい!」
直後、陽斗の顔が開放され、酸素を求めて大きく深呼吸を繰り返す。
「あ、ひ、比佐ちゃん、ご、ごめん」
先程までの勢いはどこへやら、メイド長である比佐子に腕を掴まれてバツが悪そうに項垂れる桜子。
「まったく、貴女は! 手紙を送ったのは半年以上前だというのに、今までどこで何をしていたんですか! どうせ旦那様の説教が書かれていると思い込んで放置していたんでしょう?」
目を吊り上げて説教モードになっている比佐子の前で、何故だか正座している桜子。
唖然として成り行きを見るしかできない陽斗の眼前で、しばらくの間比佐子の叱責の声が食堂に響いていた。
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