第52話 閑話 それぞれの夏休み 後編
関東の海沿い、市街地を見下ろす高級住宅街の一角。
その中でも一際大きな屋敷の前に一台の車が止まる。
陽斗のように前後を護衛の車が囲むといったことはさすがに無いが、車種といい佇まいといいかなりの資産家であることは間違いないだろう。
助手席に座っていたスーツ姿のガッシリとした男性が先に車を降り、恭しく後部座席のドアを開ける。
その中から出てきたのは見るからにお嬢様然とした美少女、穂乃香である。
「ありがとう」
穂乃香はドアを開けた男性に一言声を掛ける。
名家の者の中には使用人などは仕事でしているのだからいちいち感謝する必要はないという考えの者もいるが、四条院家ではそういう教育はしていない。
たとえ報酬のある仕事であったとしてもその取り組み方は人それぞれだ。
同じ報酬であっても最低限の仕事しかしない者もいれば誠心誠意仕事をこなす者もいる。
そして日々労いの言葉を掛けられたり要所で気遣いを受けて嫌な気持ちになる者は滅多にいないだろう。逆に仕事に対する意欲が増すことが多いはずだ。
ならばたかが労いの言葉ひとつ惜しむ理由はない。その程度で増長したり上司を軽んじるような者は最初から必要ないのだ。
そういう考え方のために穂乃香は幼少時よりそう教えられてきたし、穂乃香自身も家柄が裕福だからといって他者を見下すような考えは嫌っていたために素直にそれに従ってきた。
今ではごく当たり前に労いの言葉を使用人や出先での施設スタッフに掛けている。
だからだろうか、四条院家では使用人の入れ替わりは少なく、皆が家の者に敬意を持って接してくれている。
ちなみに皇家も重斗は労いの言葉や使用人の祝い事などに心付けをしたりしているし、陽斗はそもそも周囲の人に過剰なまでに感謝の態度を表している。もっとも外見的な要員もあって使用人達の間ではほとんどアイドルか孫のような扱いになってしまっているので、何事も程々が良いようだが。
北関東の地方都市郊外にある皇の屋敷とは比べるべくも無いが、四条院家の邸宅も充分に立派なものだ。
様式としては西洋的な建物で、形は一般的な戸建て住宅とそれほど違いはない。
ただやはり大きさはかなりなもので、10以上の居室と広いリビングといった必要十分な施設が揃っている。
イメージとしてはアメリカの高級住宅のような感じだろうか。
当然門に守衛がいることもなく、警備のスタッフが別室でモニターを監視しながら待機している程度だ。
門を自分で開けて敷地に入ると、玄関がすぐに開いて女性が穂乃香を出迎えた。
「穂乃香、お帰りなさい」
「お母様、ただいま戻りました」
澄ました態度だったが穂乃香の顔には喜びと、家族に会えた安らぎに似た表情が浮かんでいる。
普段は黎星学園からさほど離れていない別宅で暮らしているので母親に会うのも久しぶりだ。
別宅にも使用人はいるし、時々両親も様子を見に立ち寄ってくれているのでそれほど期間が空いているわけではないのだが。
自室で着替え、リビングで母親に近況を簡単に話していると父親が帰宅した。
穂乃香は3人兄姉の末っ子だ。
そのせいか父親からはかなり溺愛されており、月に2度は別宅に穂乃香の顔を見に行くのを欠かさないほどだ。
つい先日のオリエンテーリングの2日前にも別宅に来ていたのであまり離れて暮らしている気がしないのだが、父親はそうでもないらしく過剰なほどに穂乃香にまとわりついて邪険にされるということを繰り返している。
もっとも、思春期の女子に多いという父親に対する嫌悪のようなものはなく、単に過干渉気味の父に対する反発に近い。
「うふふ、高等部では良い出会いがあったようね。良い具合に肩の力が抜けているし、表情も随分と柔らかくなったわねぇ」
母、遥香が作ってくれた食事を囲みながら談笑していると、さり気なく娘の様子を見ていた遥香がそう言って柔らかく笑う。
「そう、でしょうか? 自分では分かりませんが、ただ、わたくしは随分と恵まれていると、経済的なものだけでなく、知ることができました。それと、背伸びをするのを止めましたわ。もちろん成長するための努力は大切ですが上ばかりを見ていると周囲が見えなくなってしまうことに気付いたので」
率直に語る愛娘に父親である彰彦も驚いた顔をする。
この年代の子供はどうしても自分を大きく見せようとしてしまうものだ。
そのこと自体は悪いことではなく、背伸びしながらそれに見合うように成長していくものだからだ。
だが今の娘からはそんな気負いは感じられずに、自然体で話しているのが分かる。
黎星学園には家柄のこともあって精神的な成熟度は高い生徒が多いが、それにしても高等部に進学してわずか数ヶ月しか経っていないのだから余程心境が変化するような出来事があったか、影響を受ける人物との出会いがあったということなのだろう。
「中等部の頃は四条院家ということを意識しすぎて無理をしていたようだったから心配していたのだが、それなら安心できそうだな。
ただまぁ、父親としてはあまり早く成長して欲しくないという気持ちもあるから複雑だなぁ」
「そうねぇ。あんなに小さかった穂乃香に気になる人ができるなんて、私も歳をとったということかしらぁ」
「な?!」
「はぁ?!」
しみじみと口にした遥香の言葉に穂乃香と彰彦が揃って動揺の声を上げる。
「は、はは、遥香?! き、聞いていないぞ? だ、だ、誰なんだ?!」
「ど、どうしてそうなるんですの?! そ、そんな人なんて、わ、わたくしは……」
動揺のあまり口角泡を飛ばす勢いで詰め寄る彰彦と顔を真っ赤に染めて言葉を濁す穂乃香。
もはや遥香の言葉を肯定しているようなものだ。
「だってぇ、穂乃香の年頃の女の子が変わるのは異性の影響って相場が決まっているじゃない。それも良い方に変わったってことはとても良い方なんでしょう?
あの学園に入学しているのなら家柄的には問題ないでしょうし、穂乃香がお付き合いしている方なら私も早めに会っておきたいわねぇ。
……そう言えば、前に電話で話していた男の子、確か名前は、さい…」
「は、陽斗さんとはそのような関係ではありません! その、ご自分が辛い境遇で暮らしていたのに、真っ直ぐで優しさと強さをもった、と、とても尊敬できる方なのは確かですけれど」
慌てて遥香の言葉を遮ったものの、それが単なる自爆であることに穂乃香は気付いていない。
「ふ、ふふふ、よろしい。可愛い穂乃香にまとわりつく小僧は私直々に見極めねばならんな。新学期が始まったら出来るだけ早く会いに行くことにしよう」
「あらあら、父親が子供の色恋に口を出すと嫌われるわよ? でも私も興味があるから行くなら一緒に行こうかしら」
「で、ですから! そんなんじゃありません!!」
食事の途中だというのに大騒ぎである。とても良家の食卓とは思えない。
彰彦と穂乃香が落ち着くまで食器をかたづけられずに困り顔の給仕のメイドであった。
コンコンコン。
「はい、どうぞ」
自室で机に向かっていた壮史朗は扉を叩く音に顔を上げた。
「壮史朗さん、橘の事務所から報告書が届きました」
ドアを開けて入ってきた中年の女性がそう言いながら封筒を壮史朗に渡す。
「ありがとう。父さんは?」
「旦那様はまだお帰りになっておりませんが、本日は早めに帰宅すると伺っています」
「そう、ありがとう」
頷く壮史朗の顔には特に何の感情も浮かんでいない。
本来の、というか、家での壮史朗は基本的に滅多に感情を表に出すことはない。
壮史朗の生家である天宮家は明治時代初期に造船業で財をなし、代々重工業を中心に多角的な事業を展開するAGIグループを経営する創業家だ。
その事業規模や資産は皇家や錦小路家には及ばないものの四条院家と同格であり、この国でも屈指の名家である。
当然、その嫡子である壮史朗は幼少期より天宮の家に相応しい振る舞いを求められており、結果として自分にも他人にも人一倍厳しいという性格が形成されたというわけだ。
もっとも、最近は周囲の同級生達の影響でかなり緩和してきているようだが。
それともうひとつ、壮史朗の人格形成に大きな影響を与えている理由がある。
壮史朗が受け取った封筒を開く。
中に入っていたのはA4のコピー用紙が10数枚。
「……そういうことか」
書類の内容に目を通した壮史朗がポツリと呟く。
これは天宮家が抱える調査会社に壮史朗が個人的に依頼した調査結果の報告書だ。
そこに記載された内容を読んで、どこか腑に落ちたように深く溜息を吐く。
「調査に間違いがあるとは思えないが、これが事実だとするととても僕には真似できそうにないな」
書類を封筒に戻し、デスクの引き出しにしまうと複雑そうな声音で独りごちる。
と、その直後唐突に部屋の扉が開かれた。
「よう、壮史朗。帰ってたんだな」
無遠慮に部屋に入ってきたのは大学生位の男。
肩に掛かる位の長めの髪を金色に染め、ピアスやブレスレットを身につけている。どこからどう見てもチャラ男である。
「何度も言ってるが、入る時はノック位してくれないか」
応じる壮史朗は溜息混じりだ。
「相変わらずの堅物ぶりだな。別に良いだろ? 兄が弟の部屋に入るのにいちいち面倒なことしてられねぇって」
壮史朗の言葉にも何ら感じるものはなさそうに兄、京太郎は笑みを浮かべる。
「珍しく帰ってくるなんて、何か用事でもあったのか?」
「いや? 母さんが帰ってこいってしつこいから顔出しただけだ。2日くらいしたら戻るさ。友達と約束もあるし、せっかくの休みに実家に引き籠もってられるかよ」
あっけらかんと言う京太郎に対しても壮史朗は淡々としている。
4つ年上の兄に対する態度とは思えないが、ふたりのやり取りはずっと以前からこのようなものだ。
別に仲が悪いということは無いのだが、明るく社交的で自由人気質の兄と、生真面目で融通の利かない弟という、両極端な正確なために相性自体はあまり良くない。
京太郎の方はあまり気にしていないようだが、壮史朗はどちらかといえば兄を避けているといえる。
「随分遊び歩いてるって聞いてるが? そんなことで卒業大丈夫なんだろうな」
「いや、正直遊びすぎてあんまり余裕はないけどな。まぁ一応計算してるし、大丈夫だろ。それに卒業したらどうせ天宮の系列企業に入ることになるんだし、気負ってもなんにもならないからな」
京太郎の態度に、壮史朗が眉を顰める。
「兄さんは天宮の跡取りだろう。ゆくゆくはグループ会社を統括する立場になるというのに」
「努力しようが適当にやろうが、結局は同じ道を行くんだから今のうちに楽しまないでどうすんだよ。良いんだよ、優秀な人間は山ほど居るんだからそういう奴に任せときゃ」
「…………」
京太郎は昔からこうだった。
天宮家の長男として生まれ、何不自由のない暮らしと恵まれた環境が最初から用意されていた。
旧家にはよくあることだが、長男が何よりも優先され、次男はあくまで長男のスペアという扱い。
それは京太郎と壮史朗にも当てはまった。
といっても、別に極端に扱いに差があったわけではないし、愛情を注がれなかったというわけでもない。
ただ京太郎は割と甘やかされ、壮史朗は厳しく育てられた。
それでも幼い頃は壮史朗は兄を尊敬し、慕っていた。
京太郎は物覚えや頭の回転が速く、運動神経も優れていて、何でもそつなくこなす兄に憧れていたものだ。
だがいつからか京太郎は必要最低限のことはこなすものの、それ以外は自由気ままに行動するようになった。
中学高校こそ黎星学園だったものの大学は都内の私立に通いながら一人暮らしをしている。
それは将来が自分の意思とは関係なく敷かれたレールの上を走らざるを得ないことに対する反発なのか、それとも諦めなのかはわからない。
対して壮史朗はその反動で逆に『天宮家として恥ずかしくない』ことを強いられた。
壮史朗はそのこと自体に不満は無い。
家を誇りに思っているし、天宮に相応しい人間になることを当然のように自分に課している。
だが、それだからこそ兄の自由さが気に触るし、残念にも思う。
「随分違うな」
脳裏に浮かんだのは一人の少年の姿。
「ん? 何がだ?」
「いや、なんでもない」
自由気ままと言っても所詮は親の庇護の元で好き勝手にしているだけ。
壮史朗にしても裕福な家柄で不自由なく過ごしている。
飢えに苦しみ、暴力に脅え、嘲笑に晒されながらも努力を続け、優しさと思いやりを失わずにいた同級生と比べて、あまりに自分達が子供じみているように思えてならない。
(一度兄さんにも会わせてみたいな)
そんなことを考えながら、久しぶりに京太郎とゆっくり話をしてみようかとデスクから立ち上がった。
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