三、かすていら等安
かすていらを日本で初めて作ったのは
さて、天正二十(1592)年、豊臣秀吉が朝鮮出兵の指揮を
この頃、天下人たる秀吉がキリシタンへの禁圧を強め始めている頃だったので、その煽りを食っていた長崎の商人たちは、誰かはやらなければならない事であるのだが秀吉の前に
そして、等安は秀吉にかすていらを献上し、これを大いに気に入られ、長崎代官という職を秀吉から与えられた。一説に、彼のキリシタンとしての本名は
そのあたりのところは本来、安左衛門が抱えている問題の解決とは直接に関係のないことではあったが、書籍商より買い集めた南蛮菓子関連の書籍の中に、等安に関する一書が混じっていたため、ついこれを読み
この等安というのがまた、何とも奇怪な人物であった。といっても、奇行をするという意味ではない。率直に言えば、この男は悪党なのである。特にひどい女好きで、キリシタンの身にありながら
もっともただ悪党一途の男であるならそんなものは珍しくもないが、この男はこれで同時に、キリシタンとしては非常に敬虔な一面も持っていたのだという。この時代、まだキリシタン禁令は全国的なものではなく各地で散発的に行われているに過ぎなかったから、自分の仕える家などから追放されて長崎に流れてくるキリシタンが大勢いた。等安はそのような人々に対しては常に手厚く援助を与えた。それが出来るだけの財力もあった。長崎代官なるものが具体的に何をやる役職だったのかよく分からないが、恐らくは当時の南蛮交易に口を利き、利ざやを
ちなみに等安は慶長九(1604)年に徳川家康にも謁見して、このときにもかすていらを献上している。このとき家康は、等安に長崎代官の地位を安堵した。
彼の栄光と絶頂にはまだ続きがある。にわかには信じがたい話だが、地上の富を極めた等安は自らが一国の主になることを夢見、私的に十三隻からなる船団を仕立てて、高砂国すなわち台湾を征討しようと企んだのである。
もっとも、この船団は台湾に到着することもなく嵐の前に沈んだ。そして、等安の栄光はこのあたりを境に下り坂になっていく。結局、
安左衛門は慨嘆した。かすていらの商いを起点に士分となり、果ては一国の王を目指した異形の
さて、安左衛門がほうぼう手を尽くして藩の公金で
「鶏卵ひとつに砂糖を
鶏卵、砂糖、いずれも貴重なものである。とはいえ、仮にも伊予一国の首府の置かれる松山に在るのだからして、手に入らないという事はなかった。砂糖は舶来のもの、つまり長崎交易のものである。卵は松山でもあまり流通してはいないが、金を積めば手に入らないということはなかった。うどん粉は、隣国讃岐が名産の地であるので、比較的容易に手に入れる事ができた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます