菓子侍
きょうじゅ
一、たると大名松平定行
長崎奉行、
定行は伊予松山藩十五万石の藩主である。神君徳川家康公はその伯父にあたり、時の将軍である三代家光は
定行が乗り込んだ南蛮船が掲げるのは
元から話を辿るならば、日本とポルトガルの交流は天文十二(1543)年に始まる。この年、種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人が日本に鉄砲を伝来させるとともに、
それから丸百と余年を過ぎ、今年、正保四(1647)年現在に至るまで日本とポルトガルの関係はいかにして険悪となっていったか。次第はこうだ。寛永十三(1636)年に日本人との混血児を含めたポルトガル人とその妻子が国外に追放され、寛永十六(1639)年には島原の乱の煽りを受けてポルトガル船の日本の港への入港が禁止された。
代わって日本との交易を牛耳るようになったのはよく知られるように
それからわずか七年しか経っていない今年、ポルトガルがまた使者を立ててきた。その意図は報復か。それとも、性懲りもなく貿易再開の交渉を求めてやってきたのか。長崎への入港は平和裏に行われ、つまりいきなり大砲を打ち放ってくるわけではなかったが、そうであればこそかえって彼らの手の内は読めなかった。
江戸幕府の鎖国なるものの実態については論ずるならば長くなるのだが、いずれにせよ幕府はオランダ・中国・朝鮮以外の国家との一切の交渉を完全に遮断していたわけではなかった。明らかなる事実の一つとして、外交上の有事に際し交渉などに当たる幕府閣僚が存在した。それが長崎奉行と呼ばれる御役目である。
長崎奉行はこの頃二人いたが、一人は
ポルトガル船との仲介はまず長崎
長崎奉行は職務上、多くの軍事力を手元に置いている。すなわち手持ちの兵が七千二百に、軍船が三百五十
ポルトガルの側にも
だがつまり実情はともかく建前としてはブラガンサ朝ポルトガル王国は新興国であり、日本と外交上接するのはこれが初めてであるということになる。ならば、南蛮船打ち払いについて知らぬ
結局、定行は長崎奉行として決断した。まず、ポルトガル船の者を長崎に上陸させてはならない。しかし、挨拶の用向きだけは聞くこととする。だからといってまさか船べり越しに会話をするわけにもいかないから、相手の使者を上陸させない以上は、こちらの使者を相手の船に乗せなければならない。
相手方は王命を帯びた使者である。となれば当然、こちら側もそれ相応の格式を持った者を
事と次第によっては命懸けの任務であると定行は認識していたが、船に登ってみればこれといって、殺気立った対応をされるような事も無かった。船長室に通される。通り一辺倒の挨拶と、ブラガンサ王朝の成立に関する説明が行われた。定行は丁重かつそっけなく、ただ「委細承った」とのみ回答した。その答えを通詞がポルトガルの船長に伝える。
そこから、オランダの通詞とポルトガル船の船長の間に短くも緊張した会話が行われた。
「やはり、ポルトガルは通商の再開の可能性について、探りを入れる意図を持っている
「その儀、余の胸のうちにのみ留め、幕府には奏ぜぬ事と致したい。さもなければ、また血を流さねばならぬ事と相成ろう。それは誰の望む所でもなかろうと思うが」
「御意のままに」
オランダ通詞とポルトガルの船長の間に、また会話が交わされる。通詞が安堵の表情を浮かべて、言う。
「では、これにて報ずべきところは報じましたれば、船を引き揚げること致します、と申しております」
「
「ただ、その前に」
「む」
「せっかくですので菓子をどうぞ、と申しております」
定行の意識は最前から目の前に置かれている菓子らしきものへと向かった。おそらくは南蛮菓子であろうが、菓子くらいなら構わぬという態度を示し、これを食するべきか。それとも、決然と拒否し、そのまま船を引き取ってもらうべきであるか。
「そこなるは、Tortaと申すポルトガルの郷土菓子だとのことにて御座います」
「なに? 何と申した?」
「Torta」
「たるた? いや、たると、か?」
「御意」
「南蛮の菓子ならば、同じものがオランダにもあるのではないか? 知っておるか?」
と尋ねると、オランダ通詞はちょっと口ごもった。
「セッシャの知り居りまする限り、オランダにもタルトと申す菓子は御座いますが、そこにありますものとは全く似ておりませぬ。従いますれば、オランダ商館にても同じものをご用意するのはおそらく無理ではないかと存じまする」
ポルトガル船は長旅をしてきた後である。長崎での補給は許していないから、たいしたものは積んでいないことであろう。そのような状況でただ一皿の菓子を勧めてくるというのは、まあ精一杯のもてなしであり、同時に虚勢なのであろうと思われた。
「
定行は一礼し、そして「たると」を賞味した。そして、思わず破顔する。二切れ目に手が伸びた。三切れ目。すぐ、皿の上には何も無くなった。
「
ポルトガルの船長も微笑んだ。まだ残りがあるから、お代わりを持って来させましょう、という。本来なら遠慮するのが体裁であるが、定行はあえて、お代わりを所望した。ポルトガル船長の笑みはさらに濃くなった。含意のある笑みではなく、単に祖国ポルトガルの菓子を素直に旨いと評する異国人の所作が好ましくての笑みのようであった。
「御満足いただけたようで何より。では、私どもは、これで」
通詞を介して船長は
そして、七千二百の兵を背後に率いつつ、定行はポルトガル船が長崎の港から去っていくのを見た。思わず、口をついて言葉が出た。
「無念である」
それを家老の一人が聞きとめ、意想外、という顔をした。
「これは如何なる御無念にてあらせられましょうか。異国船、無事に退去せし事、まことの慶事かと拙者は存じまするが」
「ポルトガル船はもう来ぬであろう。確かに将軍家はこれにて安泰、
「何か御所念が御座いますか?」
「つまり余はもう二度とたるとを賞味することが出来ぬのじゃ」
「はて。たるととは何にて御座いましょう」
この家老はポルトガル船に同行してはいなかったのである。
「たるととは何か。そう、それがまさに問題なのじゃ」
定行はひとりごちた。
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