Scene 3

 冬の海の嵐のような年末年始商戦を、どうにか沈没せず乗り切った暫く後のこと。

 日の少ない二月もあっという間に過ぎ、期末となる三月が始まったある日のことだ。

 フロア業務の合間を縫い、事務所で予定の確認をしていた時のことだ。

「あ、高菜くん」

「おう」

 打ち合わせから戻った渡瀬明日香と、ばったりと鉢合わせてしまった。

 ここ数か月はなるべく顔を合わせず、朝礼や業務連絡の他は関わりを避けていた。

 プライベートで会う機会がもなく、改めて俺の方から提案し、誘うことがいかに多かったかを裏付けている。

「そういえば仕事のことで、伝えなきゃいけないことがあるの」

 そう切り出す渡瀬に頷いてやりつつ、仕事とは全く別のことを考えている。

 そもそも渡瀬には、もとよりその気は無かったのではないか?

 始まりの告白の時から、嫌々に合わせていただけではないのか?

 そんなはずはないと理性で否定しても、鬱屈とした今の心が、前向きな精神活動を是としないせいで、高校生じみた負の恋愛感情を持て余している。

 だが悲しいかなここは会社であり、上司と部下の関係となる俺たちは、業務連絡を通しての関わりを余儀なくされる。

 表情の硬い渡瀬は、きっと同じように固い表情の俺に、こんなことを言った。

「高菜くん、今期の有給取得日数、五日取れてないみたいなの。今月中に有給、消化してもらえるかな?」

 そんな連絡だった。なんだと拍子抜けするような内容で、肩の力が抜けた。

 2019年4月から法改正され、企業は社員に年間五日の有給取得をさせることが義務化されており、違反すると罰則がつくため、各部署でも厳粛に順守されている。

 ところで俺が有給取得した場合、フロア人員が減るため、渡瀬がフロアに入るが、管理の仕事もある。

 対策として、事前に有休取得する日を渡瀬に伝え、調整して管理業務と重ならないようにする。

 これまでに何度かやっていることだが、何となく簡単すぎて癪だった。

 何か言ってやらないと気が済まない。高校生を通り過ぎ、小学生のような幼稚な感情に後押しをされた。

「退職者二人出てから、補充されたのは相沢一人だしな。最近忙しいし、取る暇あるかな」

「好きな日を指定してもらえれば、予定調整はするよ」

 どこか必死のような渡瀬に、もったいぶるように返答をはぐらかす今の俺は、最低の屑野郎だという自覚はあったが、自分を制御できなかった。

「まだ相沢一人でフロアは無理だけど、渡瀬ちゃんと手伝ってくれるのか? 最近あまりフロアに出てこないし、そんな暇あるのか?」

「それは予定調整すれば大丈夫。だから信用して。相沢くんせっかく来てくれたのに、一人に押しつけるなんてしないから」

「どうだか。最近の様子を見てると、いまいち信用できない」

 おまけに俺は相沢をダシにして渡瀬を困らせ、害悪を周囲に波及させる厄介者だ。

 慢性的な人員不足による多忙さと、代わり映えしない業務への徒労感。

 また同期に人事で先を越された劣等感と、何なら相手は恋人という重複した要素が、こんなところで結実し、歯止めが利かなくなっていた。

 仕事に関してバイタリティある渡瀬には、何を言っても許されるという甘えも、独善的な感情を後押しした。

 あくまでも業務の一環として話す渡瀬に、こう言った。

「自分の技能マップばかり気にして昇進して、本来の業務が疎かになってないか? 要素や条件を満たすために、予定を立ててばかりだけど、それだけじゃ見えないものも、あるんじゃないか?」

 我ながら言いがかりも甚だしい自覚はあり、俺はその時、かつての研修時代のように、渡瀬が正論を返してくることを期待していた。

 正論をぶつけられ、否定されれば、渡瀬明日香に対するくすぶる感情に、区切りをつけられるんじゃないかと、密かに画策すらしていた。

 そうすれば俺も渡瀬も、ただの同期に戻れる。その方がお互いに救われる。

 そんな風に期待していた。

 だが、しかし──。

「どうして、そんなこと……」

 渡瀬はワーカ・ホリック気味の仕事人間としてではなく。

 缶入り汁粉を美味しそうに啜る子供っぽい感じでもなく。

 去年の十二月。クリスマス・イルミネーションが光る街路の一角で、俺の告白を受けたときのように、年相応の女性らしい素振りで、こう答えた。

 ただしあの時のように高揚とした風ではなく、とてもとても、悲しそうに。

「……高菜くん、もう私のこと、好きじゃなくなったの?」

「ッ、どうしてそうなるんだよ!?」

 予想外の返答に、事務所でつい声を荒げていた。

 予定になかった返答に、頭が沸騰し、感情論に任せた浅はかな思考が排除された。

 代わりにひどくシンプルで、純粋な感情だけが、脳裏にぽつんと置き去りにされていた。


 ──俺はまだ、渡瀬明日香のことを愛している。


 そんな折りに、事務所に現れたのは、フロアを一人で回していた相沢だった。

 俺がずっとフロアに戻らないから様子を見に来たのか、或いは荒げた声が聞こえたか。

 俺と渡瀬の間の空気が、平時ではない気づいたはずだが、一瞬だけ様子を見て相沢は、

「フロアの方が手が回らないから、高菜か、渡瀬さんか、どちらかの手助けが欲しいんだが」

 今、取り組んでいる案件が一区切りついてからでもいいと、落ち着いたように付け加える。

 進退が極まった渡瀬への感情をさて置くのにも、相沢の救いの手は都合が良かった。

「スマン。今から俺が行く。ちょっと色々あって本当にすまん」

「別に構わないよ。そういう時もある」

 フロアへと向かう俺たちに、渡瀬がかけてくる言葉はなかった。

 どう告げて良いか俺もわからず、事務所からの出際にちらりと視線を向けると、渡瀬はずっと俺のことを見ていて胸が詰まったが、何も答えず、事務所からフロアへ向かった。

 やめてくれ。こんな俺を見ないで、PCモニターを見て予定でも立てていてくれ。その方が遙かに建設的なんだから。



 一日の業務を終え、ロッカーへと向かう最中に、相沢がこんなことを切り出した。

「たまには一緒に銭湯でも行かないか。疲れも取れるし、気分もリフレッシュできる。こう見えてこの辺の銭湯にはだいたい詳しい」

「銭湯か。普段は行かないが、たまにはいいけど、銭湯に詳しいとは意外だな」

「今は実家暮らしだが、古いアパートに住んでいた時もある。風呂も古い。広々とした銭湯はそれに比べて天国さ」

「なるほどな。理解した」

 珍しいなと思いつつ、そういうのも悪くないと俺は快諾した。

 相沢は話しやすいが、どちらかというと壁のある男だと思っていて、プライベートで要件に誘うことは控えていただけに、意外だった。

 日中の事務所での件を気にしただけなのかも知れないが……。

 相沢がよく行く銭湯は、最寄り駅の近くにあるらしい。

 タオルの用意もないが、レンタル可能とのことで、退勤した足で銭湯へと向かった。

 平日の夜ということで、銭湯はサラリーマンらしき男女で賑わっていた。

 入浴料を払って入場し、更衣室で相沢は手早く服を脱ぎ始め、布を残さない体勢になっていた。それほど交流がなかった相手の前で裸体を晒すのはやや気後れはあったが、周囲の誰もが裸なので、臆する意味もないと判断した。

 広い浴場に入ると、湯気と人々の活気と水音とで賑わっていた。

「まずは体を洗って、湯船にひとしきり浸かったら、サウナに行こう」

「相沢、もしかしてサウナーってやつか?」

 不慣れな俺が右往左往しつつそう言うと、相沢は笑った。

「そこまでではないけど、サウナはいいぞ。ついでに嗜み方を覚えるのはどうだ?」

「いいだろう望むところだ」

 世間でサウナブームが叫ばれて久しいが、興味が無かったのでスルーを決め込んでいた。

 だが身近で知見ある者がいるなら、それに乗っかるのは悪くないし、渡瀬への感情がひしめき、それこそ年末の百貨店の売り場のような状態の脳の思考野には、サウナでのリフレッシュは最適と言えた。

 体を洗い、湯船からサウナルームへ。慣れない高温に汗という汗が毛穴から吹き出してきて随分とすっきりとしたが、正しいサウナの作法はこれで終わらないらしく、サウナルームを出て汗を流したのちに、すぐに水風呂に入るのだと教えられた。これまでの人生で水風呂に浸かる機会がなくさすがに尻込みしたが、肩まで浸かる相沢への対抗心が沸き、えいやっと、約16度と表示される水温計を横目に、手桶で水風呂の水を、慎重に体にかけていく。予想の通り悲鳴が出るほど冷たかったが、サウナで温まりきった体だと、その刺激が心地いいといえなくもなく、慎重に水風呂の湯船に浸かっていったが、腰の辺りで震えがくる。

「めちゃくちゃ冷たいんだが」

「それが後々に効いてくるから、慎重に肩まで浸かってみてくれ」

 ここまで来て上がるのも中途半端だ。覚悟を決めて肩まで水風呂に潜り込むと、脳髄まで冷え切る感覚に悲鳴すら湧かなかったが、サウナで温まった体には、温度のシールドみたいな膜がある感じで、水風呂の水とそれが拮抗し、不思議と心地よかった。

 すでにこの時点で脳内の雑念は消えていたが、「じゃあ外気浴スペースで休憩」と言う相沢の後について、大浴場から天井が吹き抜けで都会の夜空が覗く外気欲スペースに出ると、心地いい夜の外気に、体がなんとも言えないふわふわした状態となる。

 相沢に促されるまま、置いてある椅子に座り、寒暖差に晒された体を休めると、そういえばテレビか何かの特集で、サウナーと呼ばれる人々が、気持ちよさそうに椅子に座る様子が映されていたのを思い出す。あれはこういう経緯だったのだ。

 うまく言えないが、サウナの熱と水風呂の冷温で、熱さにも寒さにも対応できていない、まっさらの状態の自分の体に、外の空気がそのまま体の中に取り込まれ、体内にたまった肉体的な疲労や、精神的なストレス、不安事。それら人体にとって本来的な不要物が、一掃されていくような感覚に襲われた。これがサウナの醍醐味。ハマる人が続出するのも納得という大いなる気づきを、隣で気持ちよさそうにくつろぐ相沢に初サウナへの所感を話しつつ得ていた。

「サウナとてもいいな。リフレッシュされた」

「気に入ってもらえて誘った甲斐がある。サウナから休憩まで1セットと数えて3セットやるのがセオリーだけど、まあそのあたりは人による」

 そう続ける相沢は自然体で、どこか影と壁があるという印象を覆す様子を見せていた。

 そういえば最近は、口数も以前より多く、活気があるように見える。

 職場に慣れてきただけと思ったが、銭湯に誘ってきたことも含め、それだけではないのかも知れない。

 そんな俺の内心を余所に、相沢はこんなことを切り出した。

「今日は事務室で渡瀬さんと何かあったのか?」

「渡瀬とのことか」

「ああ。まあ、言いたくなければ別にいいが」

 それが本題だろうと予想していた事案だった。

 実はまともに話せる精神状態でもなく、半ば諦念混じりに相沢の誘いを受けたのだが、サウナでのリフレッシュが予想以上に精神状態を良好に改善していた。

 理不尽に怒る主観的ではなく、かつ冷笑的な客観視でもなく、ちょうどいいフラットな状態で話せる気がした。

 こういう裸の付き合いも悪くない。そんな気持ちで俺は切り出していた。

「そのことを話すためには、長くはなるが、まず俺と渡瀬の関係から伝えないといけない」

「この銭湯の閉店時間までまだ2時間以上ある。問題ない」

 そんな風に答える相沢に、俺と渡瀬のことを聞かせてやった。

 研修時代から妙な偶然で関わることになった、高菜恭太と渡瀬明日香の関係を。



 ──研修時代から何かと縁のあった俺と渡瀬明日香は、同じ支店かつ同部署に配属されたことで親交が深まり、入社一年目の十二月に、晴れて恋人同士となった。

 若い二人のカップルなりに、土日休みではない業種に関わらず、努力して休日を合わせ、デートや旅行をして関係を深めていた。

 社会人となり初めての恋人が渡瀬だった。学生時代の恋愛とは違い、時間の制約はあれど、それほど勝手が違うことはなかったが、仕事では超ポジティブだが、こと恋愛に至って控え目な渡瀬を、遊びに連れて行ったり、美味しいものを食べたり、時に互いの部屋でまったりとイチャイチャをする行為が、日々仕事に明け暮れる渡瀬を、プライベートから支えることに繋がっている。

 などと、渡瀬に対する恋愛感情のみならず、そんな自己肯定感を抱かせる関係性だった。

 しかし、入社二年目の夏の人事異動で、渡瀬がフロアマネージャーに昇格してから、関係性が微妙に変わった。

 対等の関係で支え合えていたのに、渡瀬の方が(給与の面でも)上なってしまうと、そんな気持ちもわかなくなる。

 支える必要なんて、ないんじゃないか。渡瀬にとって、俺なんて不要なんじゃないか。

 ひとたび沸いた疑念は、たちまち心中を覆い尽くし、俺から誘うことの多かったデートも控えるようになると、業務上の最低限の関わりだけが残された。

 渡瀬ほどではないが、自分なりに真面目に仕事には取り組んでいる。

 だから仕事で関わり、仕事の話をすればするほど、ぽっかりと空いたプライベートでの関係が浮き彫りになっていった。

 やむを得ぬ退職者も相次ぎ、業務的にも厳しい状況で、気まずい渡瀬と二人でどうにか切り繋いでいる状況は、正真正銘に地獄だった。

 そんな折である。絶体絶命のピンチの職場に、相沢良介という男が現れたのは。



 ひとしきり顛末を話し終えると、相沢は不思議そうに所感を述べた。

「最後の引きでこの話、実は俺が主体みたいになってるけど、そうではないよな?」

「すまん。ついノリでやった。直接の関係はない。フィクションに例えるなら脇役になる」

 もちろん重要な脇役だがと付け加える。こうして俺を銭湯に誘い、物事の顛末を聞かされてる時点で、重要度は高い。それはともかくとして……。

「渡瀬さんと付き合ってたのは、何となくは察していた。気まずいというか、仕事にプライベートを持ち込まない気質なのかと認識していた」

「いちおうまだ別れてはいないので、恋人関係ではあるらしい」

 失礼したと言う相沢に、なんのと答える。

 サウナの後の外気浴スペースは気分がいいが、長居すれば冷えるので、露天風呂に移動して続ける。

「今日の事務所で揉めてた件は、気まずくて中途半端な状態がずっと続いてて、イライラしてたせいだ。些細な仕事の話で突っかかって、あとは見たとおりだ」

 なるほど理解したと、相沢は合点する。

 話を聞いてもらえただけで随分と気分が好転したのは、間違いなく相沢の功績で、感謝しても足りないが、男子の誰もが恋愛の話を好むわけではない。

 このあたりで話が途切れるなら、一区切りをつけると決めていたが、そうでもなかった。

 ぬるめの湯船に半身浴させながら相沢は続けた。

「もっと素直に話せればいいんだけどな。そう出来ないのは承知だけど、お互いに言いたいことを、仕事に転換してぶつけるから、歪んで伝わってしまう」

「そりゃ、そうだけど、なかなか素直になるのって難しいぜ。この年になると」

 意外といっぱしの恋愛観持ってるなと内心で唸りつつ答えるが、わかっていてもままならないのが恋愛だ。

 どうして素直になれないのか探れば、やはり会社での立場が変わったことが引き金だった。

 加えて仕事では渡瀬。プライベートで俺、みたいな擬似的な役割分担は、すれ違いの土壌を密かに育てていた。

 男は仕事、女は家事という画一的な価値観が、今の世で機能しないのと似ている。

 顕在化したのがあの人事だっただけで、火種は最初からくすぶっていた。

 だよな、と相沢は続ける。

「でも渡瀬さんが恋愛では受け身というのは意外だった。ぐいぐい来るのかと思ってた」

「そこが可愛いところでもある。それは付き合って知ったことだが、そうじゃなければ、三ヶ月くらいで別れていたかもな」

「その分、こうして苦労もする。恋愛って大変だ。関係が深く、突き詰まっていくと、難しいことも出てくる。ぜんぜん嫌いになってないのに」

 いかにも経験がありそうに頷く相沢は、派手に恋愛の場数を踏んでいるようには見えないが、いっぱしに語れるほどは考じている。

 本質的に壁があって、影を持ちそうなこの男が、これまでどんな女を好きになったのか。

 また今、どんな女を好きになっているのか、興味はあったが、それを聞くのは別の機会にしておく。

 あれこれと恋愛観をひとしきり語り合ったところで、話を戻すように相沢はこう言った。

「渡瀬さんは『もう私のことを好きではなくなった』というなら、高菜のことをまだ好きでいる。少なくとも気にはかけているし、未練はある。そして恋愛には受け身がち。なら、高菜が取るべき行動は、もう決まっているんじゃないか?」

「そうかも知れないな。当たって砕けろだ」

「……まあ、追うのが好きな女がいれば、追われるのが好きな人もいるだろう」

 独り言のように呟いたのち、相沢は、破滅もまた一興とばかりに、楽しそうに頷いた。

 それぐらいの心持ちで乗ってもらう方が、相談する側としてもやりやすい。

 心身のリフレッシュに銭湯は最適という現代社会のライフハックも知れたし、渡瀬と揉めたのも含め、盛り沢山の平日だった。

「話を聞いてもらえて助かった。機会があれば、今度は相沢の話も聞かせてくれ」

「ああ。いずれ、その機会があればな」

 銭湯を出てすっかり遅くなった夜の最寄り駅で、手短にやりとりを交わし、挨拶して別れた。

 何も具体策はないが、何とかなる。そんな心持ちで終えた平日の一日だった。



 昨日と同じような今日があり、明日も同じような仕事をする。

 それでも大事なものはある。

 今日は渡瀬とちゃんと話す。何なら勤務中でも構わない。

 そんな気勢を抱えて出社した翌日だったが、早々に予想の斜め上の出来事に遭遇し、朝の事務所で硬直していた。

 人事社報メールがPCに送付されており、添付ファイルを開くと、俺の名前が載っていたからだ。

「…………え、俺がフロアマネージャーやるの?」

 何度か添付ファイルを閉じたり開いたりしたが、内容に変化はなく、『フロアマネジャー:高菜恭太』という記載は変わらずそこにあった。

 本日付けの社報で、4月1日から実施となる人事異動にて、俺がフロアマネージャーをやることが確定してしまっている。

 なら、当代のフロアマネージャーである渡瀬明日香は?

 渡瀬の名前を探すと、彼女は品質保証課という部署への異動が決まっていた。

 一般に品質を保証するための業務をする課で、わかりやすいところで客からのクレーム処理など担当する部署だ。大変な部署であるという話だけは聞く。

 そんな折りに、事務所に当の渡瀬明日香が現れた。俺の姿を認めると、悲しそうに唇をかんで目をそらすが、例え人事社報が出ようと、今日俺は渡瀬と話すと決めているのだ。

「昨日はすまなかった。心から謝る。それはそれとして、俺と渡瀬にも関係する社報が出てる。そのへんも踏まえて、今日どこかで話せないか」

「う、うん。わかった!」

 有無を言わせない勢いの俺に、渡瀬はたいそう驚いていたが、了承してくれた。

 やがて相沢もやって来て、昨日の今日でこの社報が出ているのを見て目を丸くしていた。

 そういうこともあるんだなと、目を配せあって了承しておいた。

 人事社報が出た日は、対象部署が浮き足立つという例に漏れず、日頃から戦争のようなフロアはもとより、事務所までふわふわと落ち着かない一日を乗り越え、ようやく渡瀬とゆっくり話す時間が取れる運びとなった。

 百貨店の営業時間以降はあまり残れないが、業務引き継ぎの名目として、俺と渡瀬は事務所で話していた。

 いわく、誰がどう動くかは不明だったが、今回の春の人事に関して、それとなく話だけは渡瀬のところにあったらしい。

「そろそろフロアマネージャー変わるから、引き継げる準備をしておいて欲しいって話はあった。誰にとは言われないけど、ウチの部署だと高菜くんしかいない。相沢くんはまだ無理だし」

 二人で並んで、渡瀬のPCモニターの画面を見ている体勢だ。

 言いつつ渡瀬がPCを操作すると、細々とした表が表示された。

 見出しには『技能マップ』と記載されていて、やや気まずそうに渡瀬は続けた。

「高菜くんはフロアマネージャーに必要な技能は埋まってる。私はここにいても今以上には埋まらないから、別のところに異動することになったみたい。それが会社だから」

「頑張るほど異動になるって理不尽だけど、それは渡瀬が頑張ってきた証だもんな。それを蔑ろにすることを言って、すまなかった」

「大丈夫だよ。そればっかり気にしてる私も、ちょっと良くないなって思ったし」

 渡瀬は勤務中とプライベートの中間のようなテンションで話している。

 俺はいつも俺として話しているが、俺たちはいつしか、肩を寄せて話していた。

 夜遅い事務所には誰もおらず、相沢も気を利かせてくれたのか、すでに退勤している。

 一応俺たちは、引き継ぎをするという名目で残業しているので、ただ語らっているわけにもいかない。渡瀬は更にPCを操作し、別のファイルを表示させた。

 ファイルの見出しはこうあった。『フロアマネージャー 業務手順』と。

 驚いて視線を渡瀬に向けると「私は仕事の虫だから」とはにかんだ。

「慢性的に人手不足だから、フロアマネージャーもフロアに出る機会が多くなる。きっと今後、減ることはないの。でも、なら、こういうのを作って、フロアマネージャーとしての業務負荷も軽減しなきゃってずっと考えてたの。これまで無かったのも問題なんだけど、そのまま放置して高菜くんに引き継ぐのは絶対嫌だった。知り合えたのはこの会社があったからだけど、会社のせいで嫌われて、関係が終わっちゃうのは、耐えられそうになかったから」

「これを作ってたから、最近あまりフロアに出られなかったんだな」

 うん、と頷く渡瀬の目尻は、いつの間にか涙で濡れていた。

 ここは神聖なる職場だが、構うこと無く渡瀬の薄い肩を抱き寄せた。

 これから3月いっぱいで引き継ぎをしていくが、未曾有の領域となる新しい立場の仕事に対する不安感は、すでに月初の今日の時点で殆どなかった。

 渡瀬が作った手順があるなら何も不安はない。

 あの恋愛に関して受け身な渡瀬が、ずっと俺を待っている間にこの手順を作っていたという事実が、まるで渡瀬の俺に対する想いそのもののようで、少しでも渡瀬の気持ちを疑った俺を殴り飛ばしたい一心だった。

 むしろすでに殴り飛ばし、旧来の情けない自分には別れを告げている。

 俺は渡瀬との恋愛が、第二の舞台──いわゆるネクストステージに進んだのを実感している。

 これまでに経験した恋愛では進めなかった領域だ。

 相手を信じられず、相手も俺を信じられず、気持ちが冷めて終わっていった恋愛とは違い、俺と渡瀬はそのステージをクリアした。

 その先にあったのはきっと、信じて支え合う次のステージ。だが、気づいたときには互いに別部署となっているのは、「いっときでも相手を信じなかった罰じゃ」とせせら笑う神の采配ではないかと、消極的無神論者である俺が、この時ばかりは神を呪った。

 だが人は学んでいく。成長し、進んでいく生き物だ。

 俺もそうだし、渡瀬もそう。そしてそれが、俺たちなんだ。

 この事務所に防犯用のカメラやマイクがあるのか不明だが、構いなしに寄せていた肩をぐっと引き寄せ、小声で渡瀬に話しかける。

「久しぶりだけど……いい?」

 と聞くと、頬を赤らめた渡瀬が、

「……いいよ。タイムカードを切ってから」

 ここじゃない場所でね、と、付け足し、俺たちは事務所で二人、笑っていた。

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