Scene 2
一人は片親の介護のため。そしてもう一人は自分自身の体調不良によるの退職のため、一気に二人の人員が減った自部署で、今日も業務であるフロア担当の仕事をこなす。
主たる担当である俺と、少し前に中途入社した同い年の男、
「相沢さん。あちらをお願いします。僕はこちらを」
「了解しました、高菜さん」
現場では経験の長い俺が大まかな指示連絡を出し、効率的に業務を回していくが、減った人員はすぐに補充はされないので、同じ業務でも疲労度は2割、3割増しになる。
だが人員が減ろうと客足は変わらず、業務量は減らないので、優先度をつけて行動するしかなく、たまった業務は残業時間に実施することになる。
そうしないためには定時間内で頑張るしかないのだが、仕事は精神論でやるものではないし、それこそ『彼女』のようなワーカ・ホリックでなければ続いても一時的だ。
相沢良介と交互に休憩に入りつつ、定時間を過ぎ百貨店が閉まる夜の7時近くになり、ようやく一息がつける頃合いになる。
閉店準備をしつつ、バックヤードでもある事務所で、相沢良介と話している。
「今日は特にお客さん多かったな。前の会社とどっちが忙しい?」
「度合いは同じくらいだけど、ここは体を動かす仕事が多い。体は疲れるけど、その方が時間が経つのは早いんで、こちらの方が性に合ってる」
「そうか、前はITだったか。まあ、転職失敗したとか思われてなくて、何よりだ」
そう伝えると相沢良介は無言で頷いた。
中途入社で同い年のこの男は、話しやすいが寡黙なところもあり、影を感じさせる。
IT業種から小売りへの転身ではスキルアップにならないので、何か嫌な目にでもあった上転職だろうが、そこは突っ込まない。気は合うが、現段階で交流が深くはない。
ちなみに業務中と口調が異なるのは、フロアでは相手はさん付けで呼び、年齢・先輩後輩に関わりなく、敬語を使うよう教育されているからだ。
そんな折りに、事務所に一人の女性が勢いよく入ってくる。書類の束が入っているらしい手提げを持ち、肩で息をしている。急いでここまで来たらしい。
「ごめん。会議が長引いた。フロア手伝おうとしてたけど、もう終わっちゃった?」
「ほぼ終わった。ていうか焦ると転んで怪我するぜ。二人も人員が減って、このうえフロアマネージャーまでいなくなったら、この職場終わっちゃうぞ」
「ごめんね。気をつける。いつも助かってるよ」
そう言うと一秒でも惜しいという風に、自席についてPCを操作し始める。
山のような資料を元に、管理業務を進めていく様は鬼気迫りさえする。どう見ても8時、9時に終わる分量ではなさそうだが、今日中に片付けるという意気込みを感じさせる勢いだ。
そういえば忘れていたという風に、寒いこの季節柄となる品物──缶入り汁粉を、手提げから取り出したフロアマネージャー・渡瀬明日香は、プルタブを開けぐいっと一口飲んだ。
さて業務に取りかかろうという所で、俺たちの視線に気づいたらしい。
「あ、二人は上がってもらっていいよ。私に付き合わなくてもいいから」
渡瀬はそう言うが、別にそういう意思があったわけではない。
渡瀬が持っている書類は渡瀬の業務で、俺たちが協力して片付けても、残業時間としては計上されるが、俺たちの評価や成果には繋がらない。
だから自分の仕事は自分でやるし、他人にやらせないのが基本ルール。
余力があれば渡瀬もフロアをやるが、最近は管理業務が増えて減少傾向だ。
フロアを健全に効率的に回していくのがフロアマネージャーの業務でもある。故に渡瀬はフロアにも出るが、そのあたりの線引きは曖昧だ。
それでも個人的に後ろ髪が引かれるのは事実だが、渡瀬が自前で用意した缶入り汁粉は、それをやんわり拒絶しているようにも見えた。
──やっぱり気まずくなってるな。渡瀬も、俺も。
腹から絞り出すように、俺は答える。
「いつも言ってるが無理するなよ。今日しなきゃいけないことを明日に伸ばしても、会社から命までは取られないさ」
「了解。心に留めるよ。また明日ね」
「お疲れ様」
そう言って俺と相沢は、未だにPCのキーボードの打鍵音と、時折缶入り汁粉をすする子供っぽい音がする事務所を後にする。
閉店後の閑散とした百貨店内のロッカーまでの道中、相沢が切り出した。
「いつもあんな風に働いていて、渡瀬さんが倒れないか心配だ」
「そうだな……でも、言ってやめるような奴でもないし、やりたいようにやらせるしか、ないんじゃないか」
我ながら冷たい言い方だったが、それが事実だった。
今回退職した二人は、当初よりその懸念を示唆していたらしく、事前に人員の募集を管理部に依頼していたのが渡瀬だ。結果、募集してきたのが今話している相沢良介だった。
退職者が出てから人員募集では遅すぎる。何事も起きてから行動する日和見主義者の多い会社組織にて、それを管理部に認めさせた渡瀬の力量は見上げたものだった。
そのファインプレーに対する賞賛も。フロアマネージャーとしての奮闘への労りも。
何なら入社してからずっと見てきた頑張りを認めることも、『追い缶入り汁粉』を押しつけるくらいの甲斐性も、今は沸いてこないのが我ながら唾棄すべき事案だった。
ロッカーに到着し、着替えながら相沢が何でもない風に続ける。
「そういえば渡瀬さんとはずっと親しいのか?」
「同期だよ。研修の時に偶然色々と関わって、たまたま同じ支店に配属された。研修当時からああいう性格で、誰よりもパワフルで、熱心で、ぐいぐい周りを巻き込んでいく奴だった」
そんなところが当初は疎ましかったが、いつしか大切になっていたとは、もちろん内心に留めた言葉だが、合点がいったように頷き、相沢は続けた。
「渡瀬さんらしいな。俺は今の役職の彼女しか知らないが、新入社員時代からそうだったんだな」
「あいつがフロアマネージャーになったのは、たった半年ほど前だよ。入社して一年半くらいの時。夏前の人事だな。ずっと熱心だったし、信頼もあった。二年目でフロアマネージャーは大抜擢だったが、誰もが納得の人事だった」
そう返して着替えを済ませ、早く帰ろうと促す。この話はここで終わりだと言外に含めたが、渡瀬と違い相沢は察しが良く、それきり続けることはなかった。
そろそろ十二月という季節が間近に迫り、百貨店にとって書き入れ時となる年末・年始の商戦の火蓋が切って落とされる。
年始は帰省する予定なので、年末は主に俺。そして年始は相沢が主としてフロア担当すると前々から決め、渡瀬も了承している。
かくいう渡瀬自身は当たり前のように年末年始の両対応していくが、プライベート無くていいのかと勘ぐり、今の彼女にプライベートが必要ないことを身をもって知るのが俺だと気付き、いらぬ自己嫌悪をする。
「じゃあまた明日な」
「ああ。お疲れ様」
最寄りの駅で相沢と別れ、サラリーマンで混み合う自宅の最寄りへの路線に乗っている最中に、メッセージアプリを起動する。
あまり無理しすぎるなよと、渡瀬にメッセージを送ろうとしたが、彼女との通話履歴を開くと、もれなく交流を密にしていた頃の痕跡に触れるため、慌ててアプリを終了させた。
どうしてこうなってしまったんだろう。仕事も恋も順調と、そんな風に思い込み、たかをくくっていた一年前の頃を思い出し、図らずも電車の座席でうなだれてしまう。
周囲の疲れ切ったサラリーマンと同じ格好だが、色恋の懸念がプラスされ、俺の方が深刻だ。
もうしばらくは電車の揺れに身を任せる時間が続く。
電車の中で生じる特有の睡魔の中、短い夢を見るように、過去を思い出していた。
──それは半年ほど前の6月。夏前の人事異動の頃のことだった。
フロア業務から事務室に戻ると、社員PCに人事社報が一斉送信されていた。
手早くクリックして添付ファイルを開き、目を通したところで硬直した。
何故ならそこに、見覚えのある部署名と名前があったからだ。
その時に、同様にフロアから引き上げてきた渡瀬明日香も現れ、PCを操作する。
「社報に名前載ってるぞ」と声をかけると、目を丸くしてPCを確認し、より目をまんまるにして驚いていた。
「私が、フロアマネージャー!?」
送付された人事社報は7月より施行される人事異動の社報だった。
いくつかの部署の昇進や交代の人事に混じり、ここの部署の異動の知らせもあった。
現フロアマネージャーが別の部署に異動となり、代わりに渡瀬明日香がその責に就くという内容だった。
「知らされてなかったのか?」
「うん。私は今知った」
渡瀬は相変わらず驚いたまま、視線がPC画面に釘付けだ。
やがて離席していたフロアマネージャーが事務所に入室してくると、渡瀬が火急の様相で詰め寄っていく。
「私がフロアマネージャーってどういうことですか!?」
「人事社報を見ての通りだよ。実は私も知ったのはさっき社報を見てからだ」
ハハハ、とフロアマネージャーは軽快に笑った。
ちなみにフロアマネージャーが異動するのは営業方面だった。
今の職場とはだいぶ業務は異なるが、当初より希望を出していたらしい。
直属の上司となる30代前半のフロアマネージャーは、まだチャレンジできる気力があるうちに、新しいことに取り組みたかったらしい。
「渡瀬さんの技能マップも、フロアマネージャーに就くために必要な項目は埋まっている。ある意味、人事はパズルみたいなもんだ」
いくつかの条件を満たしたとき、満たしたなりに人間が動くのが人事異動だ。
渡瀬明日香が技能マップ上で項目を満たしたことと、フロアマネージャーの営業職への意向。この二つが揃ったために、今回の人事異動が実現した。
フロアマネージャーに部署の人員の人事権はない。あくまで人事は人事部で決定している。
渡瀬の勤務姿勢や実績も、もちろん考慮してとのことだが、それにしても早かった。私とは大違いだと、フロアママネージャーはしきりに感心している。
逆に、未だに腑に落ちていないのは渡瀬本人だ。
「でも私、フロアマネージャーの業務内容ぜんぜん知らないんですけど」
「そのための一ヶ月の猶予期間だね。とりあえず、時間を見つけて引き継ぎをしていき、渡瀬さんに実施してもらう。私も異動先で引き継ぎをしながらとなる」
忙しくなるがよろしく頼むよ。そう言われ、未だ自信なさそうではあるが、渡瀬は頷いた。
早速渡瀬は、引き継ぎ項目について、これとこれとこれと、必要に応じてこれと、リストを作成に着手した。
それぞれ6月のいつまでに引き継ぎを実施し、それが正しく実践できるか確認をするまでの日程をみるみる作成し、フロアマネージャーを驚かせている。
ここに配属された時、技能マップについて質問した時と同じ渡瀬らしさだった。
当初疎ましかったそれは、今となっては愛しいものだが、どこか俺は寒々しい風が、胸にぽっかりと空いたスペースに吹きすさぶのを感じていた。
その正体に一抹の危惧を抱きつつ、渡瀬に声をかける。
「おめでとう渡瀬。でも仕事しすぎには注意しろよ?」
「うん、ありがとう。頑張る!」
と、俺の話を聞いているのかいないのか。渡瀬は快活に頷き、すぐにフロアマネージャーと引き継ぎ計画を詰めにかかっている。
週末にでも記念においしいものでも食べに行くか、何なら今日でもいいかと画策していたが、渡瀬に言い出せる雰囲気でもなかった。
渡瀬は例え今日がいいと俺が主張しても、仕事は仕事として片付け、遅くなれば24時間営業の牛丼のチェーン店でも、記念ならと嬉々として牛丼を掻き込む奴だ。
それはそれとして、よりによって今日から引き継ぎ業務が上乗せされた渡瀬を誘うのは、まるでその邪魔をするようで気が引けた。
しかも、邪魔する目的は、同輩が先に昇進したからと邪推されること必至だし、そういう感情が俺にゼロかというと、全くそうとは断言できない。
恋人の昇進を祝いたい気持ちと、真逆の気持ちも等しく同居しているのを否定できない。
いつまでもフロアを疎かにしておけない。フロアマネージャーと渡瀬が話す事務室を後にする。
──大丈夫。俺と渡瀬は、今まで通りに恋人同士でいられる。きっと。
ひたすら自分にそう言い聞かせたが、暑い時期に関わらず、うそ寒いような気配が胸にわだかまるのを感じずにいられない。
渡瀬が感じているかは不明だが、明確に俺は察知していた。
その感覚は、ある一つの恋愛が終わる時の、特有の気配だということを。
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