ワーカホリック気味の女の子に惚れた、恋愛体質の男の子の話

佐原

Scene 1

 大学卒業後に新卒として就職した百貨店の同期に、渡瀬明日香わたらせあすかという女性がいた。

 十数名からなる同期面々の中でも、その女性は飛び抜けて明るく、華のある女性だった。

「せっかく同期入社したんだから、ずっと仲良しでいようよ。飲み会したりして、情報交換にもなるし!」

 同年代といえ同期に顔見知りは一人もいないし、周囲の者たちも同じだった。新入社員研修中に、周囲の様子を伺いながらも、表だって話しかけない者が大半の中、渡瀬明日香の行動は異端であり、鮮烈だった。

 初対面の同期入社の者たちに、研修の合間を縫って性別の隔てなく接していく。

 彼女を経由することで、同期の面々たちは交流を図り、徐々に親交を深めていった。

 同期は仲間。情報交換しよう。連絡先。渡瀬明日香の行動により、あれよあれよと同期入社たちのネットワークが形成されていく。

 この百貨店は系列として支店を幾つも持つグループで、同期入社の面々は、入社試験や面談の結果により、様々な支社、様々な職場へと配置されていくことになる。

 何なら研修社員の今しか交流を持てない人物たちもいる。そういう意味でも、渡瀬明日香の行動は価値がある。

 だが人は様々だ。飲み会という名目の情報交換という計画に乗りきれない、内向的な人物もいるだろう。現に戸惑ったり、やや表情を曇らせる者もいる。

 トータル的な視点で渡瀬明日香の行動は正しい……と、思う。

 この会社で長く勤めていくにしろ、キャリアアップの一環として次を狙っていようと、人脈というのは無駄になることはない。

 だから俺は、悔しかったのだ。何なら渡瀬明日香のとった行動を、俺がやってもいいくらいだったが「別に自然でいいか」と言い訳を立て、自己肯定したのだった。

 どうせこの渡瀬明日香とかいう女とも、別々の支社に配属され、もう会うこともあるまい。

 研修の合間を縫い、それぐらいの気持ちで声をかけた。

「そうやって率先して同期チームの仲良しごっこををやろうとしてるらしいけど、迷惑に思ってるやつもいるかも知れないし、この件が切っ掛けで、渡瀬さんを嫌う奴も現れるかも知れない。周囲にとっても、君にとってもリスクにならないか」

 我ながら言いがかりも甚だしいが、こうして俺が突っかかっている事実が、俺の主張が正しいことを証明している。そんな気持ちで渡瀬明日香の回答を待った。すると、

「そりゃ、そうだろうね。でも人間関係ってそういうものだし、会社経営だってリスクとリターンの天秤でしょう。計画がうまくいけば利益が出るし、うまくいかなければ損失が出る。でも何もしなければ結局、じり便になる。勘違いしてほしくないけど、私は私が正しいなんて、これっぽっちも思ってない。正しさを押しつけてる自覚なんてないよ。ただ私はこういう奴で、こういう風にしか生きられないの」

 だからこうしている。渡瀬明日香はそんな風に堂々と締めくくった。

 周囲で聞き耳を立てていた同期面々は、めいめいに頷いたり、首をかしげたりしている。

 正しい反応だし、渡瀬明日香の主張もまた正しいことを、周囲の反応が証明している。

 主張は平行線。というか元々、一理あるが現実的にそうする方が利がある、という行動を渡瀬明日香はとっていて、デメリットの存在も含めて彼女は認めている。故に勝敗の問題ではなく、構えた槍の引っ込めどころを探る行為が互いに急務となる。

 当然、槍を先に構えたのは俺だ。その役割は俺が担うべきだが、

「あ、こうして議論めいたことするのも嫌いじゃないよ。今度お酒飲みながらやろうよ!」

 そんな風に快活に言われては立つ瀬がない。そうやって渡瀬明日香はリスクを最低限に抑え、何ならリターンに昇華して、生きてきたのだろう。

 やや緊張気味だった空気感も、明るいものに変質していくのを肌で感じ、自分の体温も上昇した気がした。

 槍はとうに納めている。緊張の後に生まれたこの空気を壊したくないと思った。

「そういうのも悪くないな。まあ、残念ながら会う機会はもう二度とないだろうが」

「絶対あるよぉ。情報交換しようって言ったじゃん。私の話聞いてたの-?」

 そう言って渡瀬明日香は笑い、和やかな空気感のまま研修は終了していく。

 研修官を勤める社員も、例年と比較して、今年の新入社員はチームワーク研修の成績が良く、成果が出ていると品評していた。

 初対面の人間たちとする共同作業は難しく、その点で成果を出したのは、間違いなく渡瀬明日香の功績だった。



 一週間の研修期間は瞬く間に過ぎていき、配属先が公開されることになった。

 研修室のホワイトボードに人事辞令が張り出され、わっと同期面々が集まっていく。

 配属先の各支店と部署名を確認し、期待と不安の顔色を浮かべる同期面々の中で俺は、おそらく唯一、真っ青な顔をしていた。

 ある支店の配属先に、渡瀬明日香と並んで俺の名前が記載されていたからだった。

 俺は日本という国に占める大多数の消極的無神論者と同じ立場だが、この時ばかりは神を呪った。

 クスクス。運命だな。ご愁傷様。因果応報。そんな周囲の同期面々からの憐憫と嘲笑の視線が苦しい。

 もちろん、こんな時にも渡瀬明日香はやはり渡瀬明日香だ。

「ほら言ったじゃん。絶対あるんだって。仲良くがんばっていこうね!」

 言葉もない俺に笑いかける渡瀬明日香に対し、もう突っかかる気概すら湧かなかった。

 配属先でひとしきり盛り上がった頃合いに、研修室にスーツ姿の初老男性が入ってきた。

 それはグループの現在の代表者であり、我々の雇い主だった。

 挨拶と新入社員たちへの激励の言葉を研修室の壇上で述べたのち、配属先の辞令を、賞状授与式のようにして渡していく。

「持ち前の快活さで、皆を引っ張ってほしい」

「はい!」

 と、渡瀬明日香にも辞令を渡していく。降壇際にこちらにウィンクなどしてくるので、黙殺した。

 やがて自分の番となり登壇すると、

「負けん気の強さを生かして、頑張ってほしい」

「はい」

 まさか嫌ですとは言えないので、頷いて辞令を受け取るしか選択肢はなかった。

 そのようにして辞令が渡されて、一週間の研修生活は幕を閉じていったが、週末を挟んですぐに配属先での勤務が始まる。

 週明けに配属先となる百貨店の事務室へと向かうと、

「久しぶり、高菜恭太たかなきょうたくん。今日からよろしくね!」

 と、事務室ですでに勤務用スーツに着替えた待機していた渡瀬明日香に、大々的にフルネームで呼ばれ、出勤一日目から頭を抱える羽目になった。負けん気の強さとか関係なく、忠告しておく必要がある。

「馴れ馴れしい態度はよしてくれよ。あらぬ関係と噂されたらどうするんだ」

「あらぬ関係って、古風な言い方するね。別にいいじゃない。あらぬ関係ではないんだから、堂々としていれば。業務に関係のない事柄だし」

「そういうわけにもいかないだろう」

 業務とか関係なく、そういう目で見られたらお前自身が嫌だろうと言外に込めたが、伝わったのか不明。意外と鈍感なところがある。

 男のくせに何を細かいことを気にしていると言わんばかりに、渡瀬明日香は小首を傾げてくるが、説明するのは諦めた。

 この支店に配属されたのは俺と渡瀬明日香の二人。二人ともフロア──つまりは百貨店の売り場担当で、接客から在庫の補充と管理までやるのが基本業務だ。

 近隣の宅地が整備され、来客が増加傾向のための配属だった。配属初日に新入社員教育に当たったフロアマネージャーはこう説明をした。

「ここではジョブ・ローテーションを導入しているため、数年、早ければ一年で配属先が変わります。多能なスキルを身につけ、状況により効率的に人員を配置するためです。そのために、一日でも早く業務を取得してください」

 俺と渡瀬はめいめいに返事をするが、俺は漠然としか事実を捉えていない。

 まあ、業務は取得できた時にできる。その際に言われたら対処すればいいくらいに考えていたが、渡瀬明日香は、

「取得していくに当たり技能マップはありますか?」

 などと質問していた。フロアマネージャーは驚きつつ技能マップの説明をした。

 業務を体系・細分化し、項目ごとに評価レベルを定めたもので、職位や役職に必要な業務を可視化する。例えばフロアマネージャーに必要な技能は幾つも定められており、それらを満たした者がフロアマネージャーに任命される。

 その際に今のフロアマネージャーは別の役職、もしくは別の部署に異動となる。

 それがジョブ・ローテーションだ。

 渡瀬明日香は興味しんしんと。そして俺はどこか他人事のように聞いていた。なんとなくやっていて時期が来ればそうなるだろう、と。

 その日からフロア業務に取り組んでいったが、ほどほどに要領よく、時期が来れば自然に覚えるというスタンスの俺に対して、渡瀬明日香は貪欲に業務に取り組んでいった。

 言われたことをまずこなし、言われていないことも取り組んでいく。

 それは入社一年目で触れる必要はないが、やれるならやってもらった方が先輩社員たちは助かるので、渡瀬明日香に教えていく。

 俺は俺で要求レベルの業務はこなしていたが、渡瀬明日香は要求の範疇を超えていた。

「あー、今日も疲れたね。早く帰ってご飯食べてお風呂入って寝たい」

「渡瀬、働き過ぎなんじゃないか。先輩たちより残業時間が多いじゃないか」

「いいじゃん。ルール超えて残業してないし、早く色々覚えたいから」

 残業代も貰えるし、稼げるうちに稼ぎ、覚えられるうちに覚えると、渡瀬は力説する。

 閉店時間を迎え片付けを終え、フロアからロッカーへ向かい、肩を並べて話している。

 今日はたまたま同じ時間に退社するが、普段は渡瀬明日香の方が遅いので、こうしてゆっくり話す機会はあまりない。

 入社してから半年と少し。俺たちは相変わらず学生時代のような関係性を継続している。

 新しい業務をどんどんと覚えていく渡瀬だが、隣を歩く姿は年と性別相応に小柄で、薄い肩が疲れたように揺れている。

 ある種の奇縁により関わることになった相手だが、過労死ラインの残業を日々こなし、若い身空で突然死など迎えたら、これほど寝覚めが悪いことはない。

「渡瀬、甘い物は好きか?」

「好きだよ。だーい好き」

 答えを待ってロッカー入口近くにある自動販売機であるものを購入すると、まだ熱々のそれを渡瀬に手渡した。

 疲れたときは甘い物がいいと伝えると、渡瀬はしばし目をパチパチとしばたかせたが、やがて腹を抱えて笑い出した。体をくの字に折り、床に膝をつき、たまりごとがないという風に。

 ひとしきり笑い尽くすと、立ち上がり目尻に涙を溜めて笑った。

「高菜くんって面白いね。割とモテそうなのに女性へプレゼントは缶入り汁粉なの?」

「そういう意味じゃないぞ。疲れを取るにはいいと思ったんだ」

「それだけなの?」

「どういうものか興味もあった。買ったことないからな」

「私も同じ。ありがとう。折角だし飲んでみようか」

 渡瀬は慎重にプルタブを開け、開いた缶の口をのぞき見て、中身の様子を伺っている。

 残念ながらよく見えないようで、意を決して口元に持って行った。

 缶を傾けて口の中に缶入り汁粉を流し込んでいくが、渡瀬は目を見開き口を膨らませると、モグモグと口を動かした。何かを咀嚼するように首を上下し、やがて飲み込んでいく。

 手に持つ缶を不思議そうに眺め「なるほど」と呟いた。

「これ、飲み物というか食べ物だね。そりゃそうか、缶入り汁粉だもんね」

 でもこれ美味しいと渡瀬は顔をほころばせると、何かに思い至ったように「高菜くんも飲む?」と缶を寄越してきたが厳密に辞退した。

 渡瀬は缶入り汁粉を存外に気に入ったようで、スマートフォンで缶の写真を撮っている。

 きっとSNSにでも投稿するのだろうが、飲み姿がワーカ・ホリック気味の若い女としては子供っぽくて、つい横目に見入ってしまう。

 やがて飲み終える頃合いとなり「小豆が残ってるけど出てこない」と甘味を食してるのに渋い顔で缶を睨んでいる。

 残念ながら缶入り汁粉の飲み方に知見はお互いになく、名残惜しげに缶をくず籠に入れた。

 また奢ってやるよと言うと、うんと子供のように頷き、渡瀬はこちらに向き直った。

「とっても美味しかったよ。体暖かくなって元気出た。どうもありがとう」

 それぐらいお安いご用だと、今し方まで缶につけていた渡瀬の口元から目を逸らしつつ答える。

 缶入り汁粉の回し飲みを提案されたのはつい今さっきだが、丁重に辞退して正解だったと今更に実感している。

(このうえ間接キスなんてしてみろ。絶対に好きになってしまうからな)

 惚れたら負けという恋愛哲学を持つ俺にとって、それは絶対に避けるべき事案である。

 そもそも意図的にそうなることを避けて、これまで人生を全うしてきた。

 一時的にしのぎはしたが、いつかしのぎきれなくなる日が来そうだし、何ならその日は間近に迫っている気配すらする。

 体調を気遣った缶入り汁粉は口実で、きっと狙いは距離を詰めることにあった。大いなる気づきと共に、その日の到来を覚悟する。

 きっと俺は、渡瀬明日香を好きになり、告白をするのだろう──と。

 


 『その日』は存外に早く訪れた。

 退社時間が一緒になったある十二月の寒い日。渡瀬と並んで最寄り駅のホームに向かう最中に、そろそろ電飾の装飾が目につき始めた夜の街並みを眺めつつ切り出した。

「なあ渡瀬。お前今は付き合っている奴とかいるのか?」

「いないけど」

 その回答は予見していた。渡瀬は男に振られたから仕事に熱量を注いでいるわけではなく、地でそうしていると踏んでいたが、彼氏がいる素振りはこれまでなかった。そういうところも、分かりやすい女だった。

「じゃあ俺が告白してもいいってことだな?」

 と続けると、渡瀬は一瞬だけ考える素振りをし、面白そうにこう答えた。

「それってもう告白してるのと同じじゃないかな」

「そうだ」

 街路の途中でお互いに足を止め、電飾の飾り付けが夜の街を赤く照らす街路樹のそばで、俺たちは向き合った。

 通行人はそれなりに行き来していたが、誰もが皆、忙しい今日びの日本において、電飾を眺めるか、スマホを眺めるか、はたまた何も眺めずに駅を目指す人が大半で、誰も俺たちに注意を配ってはいなかった。

 そんな中で俺は「渡瀬明日香のことが好きだ」と本人に伝えた。

 見つめ合っていた時間はそれほど長くなく、しばしその言葉を受け止める時間に費やした渡瀬は、やがてこう答えた。

「なんとなく、いつかこういう日が来るような気がしていた」

 研修中の時からずっと。何なら来年くらいには私の方から告白していたかも知れないと、技能マップについてフロアマネージャーに問いかけたいっぱしの社会人風でもなく、缶入り汁粉の残った小豆を食べられずに名残惜しそうにした子供っぽい素振りでもなく、女性が年齢相応の色恋沙汰に直面したときのように、そんなことを言った。

 なんとなく、納得できる物言いだったのは、そういう自覚が俺にもあったからだ。

 きっと俺たちは時間の問題で、あとはどちらが先手を打つかの段階だった。

 たまたま俺が渡瀬より一ヶ月ほど早かったのだが、それがこれまでの経緯による必然のタイム・ラグだった。

 男女関係は、惚れるか、惚れさせるか──。

 だが、告白という必然の儀式を過ぎた後には、相愛の一組の男女がいるのみであった。

「うん。私も好きだよ、高菜くんのこと」

「じゃあ、恋人として改めてよろしく。渡瀬」

「こちらこそ。ふつつか者だけどよろしくね、高菜くん」

 紆余曲折あった職場の同僚から恋人同士へと関係を変えたことの証として、並んで歩きながら俺たちは手をつないだ。

 十二月の街並みも、そこにいる人々も変わりない中で、訪れたある一つの変化を噛み締めるように、俺たちは夜の街並みを二人で歩いて行った。

 こんな時に人は、永遠なんてこの世にないと知りつつも、その存在を間近に実感する。

 ここにある愛は、きっと限りなく永遠に近いものである。そうに決まっている、と。

 それが実は錯覚であることを、何度かの恋愛を体験している俺も、おそらく渡瀬も知っているのだが、今だけはその永遠の存在を信じていたかった。

 繋いだ手の温もりがその証そのものであると、強く祈るようにして。

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