二節 還れない魂
少女が部屋を出て行くのを見送ってから、アサトはベッドを降りて用意されていた衣服に袖を通した。肌触りがとても滑らかで、村では決して手に入らないような質の良いものだとわかる。彼女が「治療した」と言った通り、体中にあった傷は痕一つ残さず綺麗に消えていたが、それが逆にアサトをどこか不安な気持ちにさせた。殴られたり蹴られたりした傷は数え切れない程多く、消えない古傷も出来たばかりの生傷もあって、ただ薬を塗って暫く安静にしていれば治るようなものばかりではないからだ。一体何をどうすれば、まるで何もなかったかのような状態にできるのか。そう思ったが、首筋から伸びたままの謎の植物の芽に触ってみると、こんな得体の知れないものがあるなら、彼女にはそれくらい簡単なことなのかもしれないとなんとなく納得できてしまった。
脱ぎ捨てたシャツも新しく綺麗なものだったことに気付いて、もしや着替えまで面倒を見られたのだろうかと居たたまれない気持ちになった。それでも、同性に面倒を見られるよりは正直、恐ろしくない分ずっといい。
扉の前は床が一段低くなっていて、家の中で履くらしい靴も置いてあった。普通のものと違って爪先を引っ掛けて歩くようなやや心許ないものだったが、有り難く使わせてもらうことにした。ふかふかとして履き心地がいい。ベッドに転がったままの瓶を振り返って、少しの間迷ってから拾い上げた。少しずつ生長する芽は既に実を結ぼうとしている。そのまま落ちるのを待ってから、瓶を開けて新しい種を取り出した。
部屋の扉を開けると、階段はすぐ隣にあった。反対側の広い廊下にはアサトがいた部屋と同じような扉がいくつも並んでいる。階段を降りると目の前に廊下が広がっていて、まっすぐ行った先に大扉があった。途中で左右に廊下が分かれていたが、人の気配はしない。大扉に耳を近付けると、中から物音が聞こえた。別に悪いことをしているわけではないので隠れる必要などないのだが、なんとなく邪魔にならないようにそっと扉を押し開けた。
「……ああ、来たね。座って」
ほとんど音を立てなかったはずなのに、少女はすぐに気付いてアサトの方を見た。その隣には彼女よりもやや背の高い女性がいる。少女の方もかなり印象的な容姿をしているが、その女性の頭を見て呆気に取られた。
ふわふわと綿雲のように柔らかそうなアイボリー色の髪は緩やかにウェーブ掛かっていて、肩の上辺りでふんわりと揺れている。垂れ目がちのブラウンの瞳は優しげに細められていて、おっとりと人の良さそうな顔立ちだ。そこまでは普通の人間なのだが。
「よく眠れましたか? はじめまして、私はシャナムと言います。気軽にムー、と呼んでくださいね」
柔らかな笑みを浮かべる女性の頭には、湾曲した大きな角があった。牡羊のようにくるりと内側に巻いた立派な角は、だが片側だけ半ばから折れて欠けている。髪からぴょこんと飛び出た耳も人のそれじゃない。こちらもまた、村で放牧していた羊のそれに酷似していた。
「……ど、どうも。よろしくお願いします……」
「ふふ、よろしくお願いします。お名前は聞いてますよ。アサトさん、ですよね? ちょうどお粥が温まったところなので、ちょっと待っててくださいね」
女性はにこにこと感じのいい笑みを浮かべて奥のキッチンへと引っ込んでいった。呆然としたままそれを見送り、すぐにはっと我に返って少女を見た。
「え、あ、今の」
「世界にはいろんな姿のヒトがいるものだよ。彼女らからすれば、尾も翼も角も持たないきみのような姿の方が物珍しい」
「そ、そう……かな……そういうもんか……」
事も無げな返事に思わず頷いた。詳細を聞く前に的確な返事が来たところを見ると、どうやらこういった質問は珍しくはないようだ。ここが自分のいた村がある世界ではないと言われたのも、なんとなくだが納得できる。村の外の世界などほとんど見たことはなかったが、それでも村の人々の噂話や、母が渡してくれた本の知識が、ここでは全く当てにならないのだとこの数十分間でとうに理解できてしまった。
「わたしにも尾と翼はあるしね。角はないけど」
「……は?」
「さっき、わたし自身は悪魔ではないと言ったでしょう。龍なんだ、わたしは」
まじまじと少女を見下ろした。その姿は人間離れして神秘的に映るが、先程の女性のそれ程異質な何かは特に持ち合わせていないように思える。もしや冗談なのだろうかと少女の目を見てみたが、変わらず静かに凪いだ透明な眼差しがそこにあるだけで、冗談なのか本当のことなのかどうにも判別がつかなかった。
「……そうなんだ」
「そう。きみは他の子よりも順応力が高いね。もっと取り乱すものかと思っていたけど」
「……変な夢見てんのかな、とは思うけど」
「現実だね、残念ながら」
少女の言葉がどれもまるで当然のことのように響くから、そうなのか、そういうものなんだと、なんとなく自然に受け止めてしまう。起きたばかりの時は頭を擡げていた警戒心も、まるで玉葱の皮でも剥くみたいにどんどん剥がされていくようだ。
急に肩の力が抜けて、視野が広くなった気がした。脱力ついでに一通り部屋を見回すと、そこが広々としたダイニングキッチンのような場所だとわかった。作りは村にあった宿屋を兼ねた食堂に近いが、広さがまるで違う。きちんと手入れされていることが一目でわかる清潔感のあるテーブルがいくつも並び、椅子のいくつかにはふかふかとしたクッションが置いてある。部屋の隅には数人掛けのソファが三つ程あって、誰かが使っていたのかややへこんだクッションと無造作に置かれたブランケットのようなものが見えた。
「座ったら? どこでもいいから」
「あ、うん……」
少女に促されて、手近な椅子に腰を下ろした。少女は立ったまま動く様子がない。一人だけ座っているというのもなんとなく落ち着かなくて、そわそわとしているうちに先程の女性が戻ってきた。平たい皿の乗った盆を持っている。テーブルに置かれたそれはスープ皿のようで、ところどころ粒を残した白い粥のようなものが湯気を立てていた。
「少し冷ましましたけど、まだ熱いので火傷しないように気を付けてくださいね」
「……ありがとう、ございます」
軽く頭を下げると、女性はにっこりと花の咲くように笑った。屈託のない笑みだ。こんなに優しい表情を向けられたのはいつぶりだろう。曖昧な記憶を辿って思い出したのは、四年前に亡くなった母の笑顔だった。
「シャナム。ベリトとセイルが戻って来たのは見た?」
「はい、先程お迎えしましたよ。今は広間でお待ち頂いてます」
「わたしはアサトに少し説明してから行くから、先にお茶を持っていってくれるかな。昨日焼いた苺のタルトタタンが残ってるから」
「はい。私もご一緒してよろしいですか?」
「もちろん。ベリトは暫く留守にしてたし、気の済むまで話すといい」
「ふふ、わかりました」
先程シャナムと名乗った女性は、心なしか浮き立った様子でキッチンに戻っていった。かちゃん、と小さな物音が聞こえてくる。
「まずは少し食べた方がいい。それなら負担も少ないから」
「……頂きます」
勝手に口を付けていいのかなんとなく躊躇われてキッチンの方を眺めていると、見兼ねた少女に再び促されてスプーンを取った。ほかほかと湯気を立てているそれは、口許に近付けてみると意外と熱くない。一口含んでみて、想定とは違う味に思わず呟きが漏れた。
「……パン、じゃない……?」
少女は頷いて補足してくれた。
「シャナムは粥と言ったけど、どちらかというとジャムに近いかな。それはトゥムという果実を煮詰めたもので、仄かな甘みと胃への負担の少なさで病人も口にしやすいから、よく滋養強壮を目的として体力のない者に振る舞われる」
「……聞いたことない果物だ」
「きみのいた世界にはないからね」
世界が違えば食べ物も変わるのだろうか。そもそも村からろくに出たことがないから、本当にこの果物が他のどの国にもないのかはアサトにはわからなかった。口当たりは果物のジャムのようだが酸味はなく、よく噛んだ穀物から感じられる甘みに近い味がする。何とも言えず不思議な食べ物だが、確かに無理なく口にできた。
「じゃあ、軽く説明するから食べながら聞いて」
空っぽの胃を驚かせないように少しずつ粥を口にしていると、立ったままでいた少女が先程アサトが入ってきた大扉に近付いていった。キッチンから戻ってきたシャナムが、ティーポットや甘い匂いのする菓子を乗せたワゴンを押して扉の方に歩いていく。少女が扉を開けると、シャナムは軽く頭を下げてブラウンのエプロンドレスを翻しながら部屋を出ていった。
「ここは月の陰の庭。通称『庭』と呼ばれている。きみのいた世界とは違う場所にあって、冥界……まあ、わかりやすく言うと死後の世界か。死した魂が眠りに還ってくる冥界と、生きた人々の住む世界との狭間にある。どちらでもない空間だね」
「……じゃあおれ、死んだのか」
思わずスプーンを置くと、少女はいや、と小さく首を振った。
「まだ死んでないよ。死んだらきみはここでこうして話していられないし、食事も必要ないから」
「それは……そうかも」
「ここにやってくるのは、元いた世界ではもう生きられなくなった魂。冥界に還れなくて正しい流れに戻ることもできないから、ここで保護してる」
「……保護?」
「そう」
少女はテーブルまで戻ってきて、食事の再開を促した。皿の中身はまだ半分も減っていない。スプーンを再度手にした。
「わたしはここの管理者。名前はあるけど
そこまで言うと、少女は軽く首を傾げた。
「ここまでで質問は?」
「……ないです。ないっていうか、ほぼ理解できてねえっつーか……」
慣れているのか、少女の説明は簡潔で事務的ですらあった。それでも、突然見知らぬ場所で目を覚まして、知らないことばかり話されていると、状況の整理が追い付かなくて混乱してしまう。彼女はそれを承知しているように頷いた。
「それはそうだろうね。まあ、ここについては知識として覚えてくれれば十分だから。ここはわたしと契約者達で守られているから、きみ達を脅かすようなものは何もない。暫くは体を休めることに専念して」
スプーンを運ぶ手を止めて、自らの体を見下ろした。傷は塞がっているが、確かに体のあちこちが重く、節々が痛んでいる。長らく室内で過ごしていたからか筋力も随分落ち、正直なところあの階段を降りるのも少々きつかった。これではまともに生活できないと思われても仕方ないだろう。
「……えっと、主……さん」
「さんは付けなくていいよ」
「あ、うん。その……」
一体、どう尋ねたらいいだろうか。体の傷を治してもらったということは、色々と気付いているはずだ。でも、直接口にするのはどうしても憚られる。
上手く言葉を見つけられずにまごつき、諦めて口を噤むと、彼女は暫くアサトを眺めた後に小さく息を吐いた。
「上でも話した通り、ほとんど知ってる。視たし調べたから。男性の姿の者に近付かれるのは怖いだろうから仲間には伝えておくし、何かあればわたしかシャナムに言ってくれればいい。……他には?」
「いい、大丈夫。……あ、ありが……とう」
無意識に緊張で強張っていた体が緩んで、思わず声がつかえた。喉が震えそうになる。彼女は何も言わずに頷いて、アサトの手許に視線を落とした。
「一度に詰め込んでも混乱するだけだろうから、ひとまず今日はこのくらいで説明は終わり。後日改めてもう少し詳しく話すから。食べ終わったならそろそろ移動しようか、紹介だけしたい」
「……わかった」
「皿はそのままにしておいて。後でシャナムが片付けてくれる」
頷き返して席を立った。何から何まで世話になりっぱなしだ。彼女の先導で先程の大扉から出て、左右に伸びた廊下を右に折れた。途端に窓が大きくなって、明るい木漏れ日が廊下いっぱいに差し込んできた。外には背の高い木がいくつも見える。どれも鮮やかな色の花をたくさん咲かせていて、そこで初めてもう春が訪れていたことを知った。かつて押し込められ過ごしていた、小さな窓しかなかったあの暗く狭い部屋は、時の流れを随分曖昧にさせていた。
花を眺めながら主の背中を追うと、着いた先は先程と似たような大扉だった。ただし、材質が違う。食堂の扉は木製だったが、こちらは金属で出来ているようだ。いかにも重そうに見えたが、彼女はまるで布でも押しているかのように軽い動きで扉を押し開けた。
そこはかなり大きな空間だった。壁に並んだ棚には茶器や花の閉じ込められた瓶が飾られている他、アサトが目にしたことのないいろいろなものが収められている。実際に見たことはないが、例えばアサトが生まれた村がある領地の伯爵の屋敷は、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。ソファやテーブルも一つ一つが食堂にあったものより大きい。客人を招く場所だろうか。
「……中庭の方にいるのか」
きょろきょろと部屋を見回すアサトを他所に、主は室内に誰もいないことを確認するとまっすぐに部屋を横切って行った。その先には外に繋がっているらしい大きな扉が見える。アサトがいた村が小さな集落だったこともあるが、この建物はどこを見ても広いし大きい。彼女が扉を開けた瞬間、暖かく柔らかい風が二人の髪を撫でた。
とても美しい庭だった。
そこは、明るい日差しに満ちている。豊かな木々に囲まれ、色とりどりの花が風に吹かれて優雅に花弁を揺らしている。鳥の囀りと葉の擦れる音が重なり合って、讃美歌でも奏でるように平和を謳歌している。
まるで、額縁に切り取られた絵画の向こう側でも覗いているようだ。
光に飲まれて立ち尽くしていると、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
視線を向けると、中庭の中央に長方形のテーブルがあった。真白なレースのテーブルクロスが掛けられたその上には、繊細な意匠のティーポットに揃いのティーカップ、皿に並べられた赤い果実が煌めくタルトタタン。見覚えがあると思ったら、先程シャナムが運んでいたそれによく似ている。主に軽く背中を押され、恐る恐る近付いた。
テーブルには、シャナムの他に二人の男が着いていた。一人が立ち上がり、何か長方形の箱のような
、紙で出来た袋のような物を見せるように持ち上げている。黒髪でやや緩い癖があり、毛先が何故かところどころ青い。自然では有り得ない色だ。後ろは短いが左のサイドだけが長くて、黒いリボンのようなもので三編みにしている。なかなか変わった髪型だ。やや円みのある大きな瞳は血のように赤くて一瞬驚いたが、それよりもその相貌の方が目を引いた。何と言うべきか、恐ろしく整っているのだ。思わずまじまじと眺めてしまった。よく見ると、左目の下に星のような青い模様が描かれている。舞台役者か何かなのだろうか。
人懐っこい笑みを浮かべたその青年は、アサトよりいくらか年上に見えた。
「君が新入り? おれセイル、よろしく」
「え、あ、どうも……?」
「空いてるとこ座りなよ。ドーナツ買ってきたんだけど一緒に食べねえ?」
「セイル。彼はまだ固形物を口にできる状態じゃないから」
「あ、そうなんだ。なんかごめんな、見せびらかすみたいな真似しちゃって」
「い、いや、全然。気にしなくても……」
セイルと名乗った青年は、主の言葉を聞いて申し訳なさそうな顔をアサトへと向けた。表情に屈託がなさすぎて、何故かこちらが狼狽えてしまう。ぼそぼそと小さくなっていく声にも構わず、青年はにっと笑みを返してから隣に座っていた男の目の前へと箱を置いた。
「じゃあこれ、ベリト様どうぞ」
「……? 皆に分けるつもりで用意したんじゃないのか」
「実はもう一箱あるんですよねー。何買おうか決めらんなくて全種類買ってきちゃった」
静かにティーカップを傾けていた男が顔を向けると、青年は隣の空いた席に手を伸ばしてもう一つ箱を持ち上げた。
「おれが飽きてもベリト様が食べてくれるからいいかなって」
「それは別に構わんが……」
男はやや呆れたような顔で青年を一瞥してから、ティーカップを置いてアサトへと顔を向けた。そこでまた驚く。目を覚ましてからというもの、ひたすら驚くことしかしていない気がした。
少女の時と同じように、左右で瞳の色が違う。彼女は右目が赤、左目が青だが、この男は左目が赤で、右目はなんと金色をしている。セイルに負けず劣らず端正な顔立ちだが、目付きが鋭くて威圧感が強い。座っていてもかなり背が高いのが見て取れるから、それもあるかもしれない。暗赤色の鎧のような物を纏っていて、どこか騎士然とした印象を受けた。
その鋭い視線を真正面から向けられて、全身の神経に瞬く間に緊張が走った。
すぐにそれを遮るように主の声が聞こえて、何からかはわからないが助かったような気がした。
「その、セイルの隣にいるのが」
「……ベリトだ。お前、名は何と言う」
「へ……あ、アサト……です」
「あ、おればっかり名乗ってちゃんと名前聞いてなかったな。ごめんごめん」
セイルの陽気な声で呪縛のようなものが解けて、まともに息を吸えた。全身の緊張が漸く解ける。そんなアサトの様子を一瞥した主が、ついと騎士然とした男に視線を向けた。
「ベリト、顔。顔っていうか、目付き」
男ははたと気付いたようにアサトから視線を外し、どこか気まずそうな様子で口許を手のひらで覆った。
「……申し訳ありません。そんなつもりはないのですが」
「まあ、言ってそう直るものでもないからいいけど……」
主は小さく肩を竦めて言葉を返し、再びアサトへと目を向けた。
「彼らが契約者のうちの一柱、ベリトとセイル。よくこの庭にいるから顔を合わせることも多いと思う。他の契約者に比べたら格段に親切だし優しいから、あまり身構えないでほしい」
「……ど、努力する……」
「努力はしなくていいよ、少しずつ慣れることができたらそれでいい。それから、」
彼女はアサトの返事に頷いて、視線を落とし自らの影に話しかけた。
「ゼブル」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
主の影の中から、より一層濃い闇がぬっと持ち上がった。それは瞬く間に広がって寄り集まり、人の形を成していく。得体の知れない靄から底知れない恐ろしさを感じて、腹の底がさっと冷水を注ぎ込まれたように冷えていった。
黒い闇が霧散した瞬間、そこに立っていたのは長身の男だった。
「こっちがベルゼブル。わたしが留守にしてる時は大体ここを任せてる」
呆然と見つめていると、主の声と共に男がこちらへと視線を向けた。
「……っ」
目が合った瞬間、背筋がぞっとして全身から力が抜けていく気がした。
くすみのない金髪で、よく晴れた日の空のような色の瞳の、どこか貴公子然とした出で立ちの品の良さそうな男だった。だが、その全てと相反したあまりにも冷ややかな目が、本能的な怖気を引き摺り出して無意識に膝が震え出す。それは生き物が根源として抱く、捕食者を前にした時の恐怖によく似ていた。鉛のように重くなった足が、意図せずに一歩、二歩と後退った。
「おっと」
咄嗟にセイルが椅子を置いてくれなければ、そのまま腰を抜かしてテーブルを倒していただろう。背凭れに体を預けたまま目を逸らすことができずにいると、男は関心を失ったかのように視線を在らぬ方へと向けた。
ふっと体に感覚が戻ってくる。知らぬ間に吹き出していた汗が全身を冷やし、先程とは違う純粋な寒さで体が震えた。
主は微かに眉を寄せ、どこか窘めるような目で背後に影のように控える男を振り返った。
「威圧しない」
「……しておりません」
男は彼女と目が合うと、まるで主人に咎められた犬が気まずさを誤魔化すかのようにふいと目を逸らした。その妙に人間臭い仕草で、ほんの少しその場の温度が戻った気がした。
主は僅かな溜め息を吐いてアサトへと向き直った。
「ごめんね。危害はないから」
「ていうか、ゼブル様はその現れ方もびっくりするって。大丈夫? あったかいお茶飲む? ムーさん、用意してあげてよ」
「はい。お砂糖は入れますか?」
「な、なんでも……」
背後からセイルとシャナムの声が聞こえる。漸く動き始めた体を起こし、椅子をテーブルへと向けて座り直すと、鳥肌の立った腕を軽く擦った。少しずつ温もりが戻ってくる。「使いなよ」とセイルが差し出してくれたブランケットを有り難く受け取った。
「気にするなよ。奴は誰にでもああだからな」
シャナムが淹れてくれた紅茶を受け取ると、暫く様子を見守っていた主がシャナムへと顔を向けた。
「わたしはこれから少し出掛けてくるから、お茶が終わったらアサトを案内してくれる? 屋敷の中だけでいいから」
「はあい。お任せくださいな」
「ベリト。留守にしてる間、ここを任せる」
「……私にですか?」
「うん」
「え、ゼブル様も連れてくの? どこに?」
「ラジエルに会いに」
紅茶にそのまま口を付けようとすると、スプーンを咥えていたセイルがぽかんと口を開けて身を乗り出した。
「へ? 天使に? なんで」
主は小さく肩を竦めた。
「四百年前に与えた
「へー……そんなことあったっけ。いってらっしゃい」
セイルがひらひらと手を振ると、主は頷いて踵を返した。そのまま背後の男を見上げる。
「ゼブル」
「はい」
名を呼ばれただけで理解したように頷いた男を伴って、彼女はその場を離れていく。この場に置いていかれるのかと急に焦りが生じて、思わずティーカップを持ったまま立ち上がった。
「え、ちょ、おれ……」
思わず上擦ってしまった声に振り返った彼女は、極僅かに目許を緩めた。
「今日中には戻るよ。お茶を飲んだら屋敷の中だけ軽く見て、後は部屋に戻って休んだ方がいい」
「……わ、わかった……」
やや不安が残るが、頷いて椅子に座り直した。目が覚めてから大した時間は経っていないのに、既に長らく一緒に過ごしたような妙な感覚がある。心細いのは、その不思議な安心感が急に離れていくからかもしれなかった。
頷き返して歩き出した彼女を見送っていると、ふと空に月が浮かんでいることに気付いた。綺麗な上弦の月だ。まだ昼間なのに珍しいと思いながら、ああそうか、と唐突に理解した。
(月や星に似てる)
狭い窓から見上げていた、暗い夜に浮かぶ月や星の光。あれを眺めていた時だけは、少しだけ気持ちが落ち着いたことを思い出した。
青く明るい空にぽつんと浮かんだ月は、夜闇の中の輝きとはまた違う、不思議な優しさを纏っていた。
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