断章 蝿の王

 耳障りなざわめきを無視して、長い長い廊下をただ黙って歩いた。

 神々の住まう天界の、最上に存在する天空神の城。白い雲が遥か下方に見える程高く、天を衝くように聳える城は、翼を持たない者にとっては酷な建築物だろう。窓から外を見遣ると、視界に高い塔が二つ見えた。自身が住居としていた星見の塔と月見の塔には、もう長いこと足を踏み入れていない。尤も、ただ一日座り込んで世界中を見通していただけの日々に、特に思い入れもないのだが。

 呼び出された理由などとうに理解している。導き出した答えも既に決まっていて、検討の余地などない。会議と名されてはいてもそれは話し合いの体を成さない、こちらにしてみれば無意味な集会だが、彼らには言葉で伝えなければ知る機会がないのだから、これはこれで仕方ないのだろう。

 先程から向けられ続ける視線の数は、形を持っていたら針の筵になっているだろう程に増えていた。それら全てを無視して歩いて、漸く一枚の大扉に辿り着いた。

 もう一つの足音も立ち止まる。振り返ると、男は無表情にこちらを見下ろしていた。

「すぐに終わるから、ここで待っていて」

 男の眉が僅かに寄せられた。

「待ってて」

 もう一度念を押すように言うと、男はじっとこちらを見返してから、扉の端の方へと歩いていった。その後ろ姿を確認して、広い廊下のあちこちで話し込んでいる神々を一通り見渡した。目が合った瞬間、慌てたように素知らぬ顔をして顔を突き合わせ再び話を始める。男に視線を戻すと、窓に近い位置で彫像のように佇んでいた。

 大扉が内側からゆっくりと開いた。結末まで全て視えた時間。小さく溜め息を溢して、自らの『眼』を閉じた。




「では、月御神つきのみかみよ。ここに呼び出された理由は察しておるだろうが、我々の質問に答えてもらいたい」

 大扉から巨龍数頭分の距離を置いて設えられた巨大な円卓には、古より存在する神々が既に集まっていた。扉から一番近い唯一の空席に腰を下ろすと、後ろの大扉は誰の手も借りないまま勝手に閉まっていく。席の両隣は空いていて、頭を動かさずとも一面見渡せる位置に神々は着いている。まるでこれから罪人でも裁くかのようだ。正面に座しているのは、主神の一柱にして全ての空を支配する、最高神たる兄だった。一瞥だけして軽く頭を下げると、兄は憂いを帯びた瞳でこちらを見返した。

 最初の質問は、やはり決まっていた。

「名だたる神を幾柱も失い、多大な犠牲を払って漸く地に引き摺り下ろし永久凍結地獄コキュートスに封じ込めたあの魔王を、何故解放した」

「元より地獄はわたしの支配下だ。自分の領域に封じられたものをどうするかはわたしの勝手だろう」

「……正気か?」

「わたしは狂ったことなど今までに一度もない」

 どよめきが起きた。全て知っていたことだ。

「では、あれを封じる為に払った我々の犠牲は何と心得る」

「偏に貴様らの力が及ばなかっただけだ」

「何……?」

 立ち上がりかけた男の一人を隣の男が制した。実力差を理解していない程、彼らも蛮勇ではないということだ。それに、この広間には天空神が、外にはあの男がいる。

 その後もいくつか質問が行われたが、全て事前に用意していた言葉で事足りた。質問の度に神々は眉を顰め、兄はただ静かにこちらを見ていた。

 最後の質問が終わった後、兄は深く溜め息を吐いて立ち上がった。

「……ありがとう。話はこれで終わりだ。……それが君の選択かい?」

 頷くと、兄は再び溜め息を吐いた。物憂げに瞳を伏せ、すぐに顔を上げて微笑みを作る。

「わざわざ遠いところを済まなかった。疲れただろう? 塔に戻って休むかい」

「いえ」

 短く答えて席を立った。ただ一言で兄は察したようで、その眼差しはどこか悲しげだった。

「ここはもう、わたしの居場所ではないので」

 誰も声を上げず、席を立たない。もうこの場所に用もない。扉の前まで歩いて、最後に振り返った。

「兄様」

「……なんだい」

「わたしは世界の為に動いています。常に最善を探しています。ただの一度も、それに背いたことはありません」

 兄は唇を引き結んで、微かに笑みを作ろうとした。理解してくれようとしたのかもしれない。信じてくれようとしたのかもしれない。例えそうでないとしても、この選択を翻すことはないけれど。

「待って、月――」

 異変に気付いてはっと顔を上げた瞬間、兄の声と重なって城を揺るがすような轟音が響いた。

 何かが崩れる音がする。城の一部が崩壊したのだろう。悲鳴が聞こえる。扉の外からだ。硬いものが折れる音、砕ける音、何かが捻じ曲げられる歪な音、ぐちゃりと何かが混ざり合うような音――

「何事だ……!?」

 漸く我に返ったかのように立ち上がる声を背に、陰鬱な気分で扉を押し開けた。




 白亜の床が赤く染まっていた。

 水を切るような音がして、何かがごろりと床に落ちた。先程まで廊下で話し込んでいた神の一柱の頭だった。恐怖が張り付いたままの顔は、口から泡を吹いていた。一面の血溜まりの上に、黒い靄のような闇が蠢いていた。闇の中から、羽蟲に似た巨大な翅がいくつも生えている。

 それは何かに気付いたかのようにふっと掻き消えた。闇に覆われていた廊下の全貌が露わになる。同じような死体がいくつも転がっていて、そのうちのいくつかは腕や足や胴や首がどこにも見当たらなかった。

 背後から悲鳴が上がった。振り返る間もなく激しい風が起きて、長い髪が巻き上がる。視界の端に半透明の翅と、自分の手足よりも太い赤黒く濡れた黒い前脚が見えた。低い翅音が周りの声を掻き消していく。

「ゼブル」

 翅音が一瞬だけ止んだ。

「ベルゼブル」

 もう一度呼んで黒い脚を掴むと、今度こそ翅音が完全に消えた。

「話は終わった。帰ろう」

 振り返らないまま告げると、何かを迷うように掴んだ脚が動いた。全ての音が翅音に吹き飛ばされて無音となっていた場所に、少しずつざわめきが戻ってきていた。

「帰ろう。そんなもの食べても美味しくないでしょう」

 念を押して振り返ろうとした瞬間、まるで何かに怯えたかのように脚が引っ込んだ。一拍置いて体ごと振り返ると、廊下に待たせていた男が渋面で立っていた。くすみのない金の髪には跳ねた血がこびり着いている。よく晴れた空のような薄い蒼の瞳も、どこか苦しげに歪んでこちらを見返していた。酷い顔をしていると思った。

 血の海の中を歩く。男は黙ってついてきていた。後ろから呼び止めるような声も、もう何も聞こえなかった。




 行きと同じように、ただただ長い廊下を歩いた。血濡れた足跡が残らなくなるまで歩いて、漸く城の外に出た。訪れた時には数多の神が好奇の目を向けてきたエントランスホールには、騒ぎのお陰か誰の姿も見当たらなかった。

「何を言われたの」

 階段を降りながら振り返ってそう尋ねると、男は眉を顰めて顔を歪めた。『眼』を閉じていてもその場面が透けるように伝わってくる気がして、視線を前へと戻した。

「いや。いい、どうせわたしのことだろう」

 男は何も言わなかったが、どんな思いでいたのかはおおよそ伝わってきた。これ以上の話は無用だ。話の場に連れて行くよりも待たせておいた方が余計な争いは起きないと思ったが、これからは常に傍に置いておいた方がいいかもしれない。

 城の外に出て空を見上げると、抜けるような青だった。城の中で起きた殺戮とはあまりにもかけ離れた色だった。

 暫く空を見上げたまま息を吐いていると、ふと絞り出すような低い声が聞こえた。

「…………申し訳、ありません」

 振り返って見上げた男は、唇を引き結んで相変わらず眉を寄せていた。そのままの顔で固まってしまいそうだ。手を伸ばして頬に触れ、軽く引っ張ると固く結ばれていた唇が少しましになった。

「酷い顔だな」

「……」

「顔形の話じゃないよ。表情」

 手を離すと先程よりはましになったものの、男の表情はなかなか変わらなかった。

「……あんなところに一人にしてすまなかった」

 男は僅かに目を瞠って、極僅かに目許を緩めた。もしかしたら、笑おうとしたのかもしれない。随分笑うのが下手だと思ったが、自分が言えた義理ではなかったので胸の奥にしまっておいた。

「敬語、使えたんだ」

「……覚えた」

「そう。物覚えがいいね」

 男は、恐らく表情に迷って口を噤んだ。表情を作るのも、言葉にするのもまだまだ下手だが、それはこれから学んでいけばいい。自分とは違って、この男はちゃんと感情が生きている。

「……お前は、ベリトという悪魔の話を聞いたことはある?」

「……いえ」

 視界の端に映る塔を眺めながら問い掛けると、ややあって困惑したような声が返ってきた。悪魔達の中でも規格外の力だとは言われているが、他の悪魔とはあまり関わりがなかったようだ。

「アスタロトと同盟を組み、大天使の率いる軍勢を尽く排しているらしい。見所がある」

「……おれは」

「別に、契約者を増やしたからってお前との契約が消えることはないよ」

 察することは元々苦手ではないが、この男はなんとなくわかりやすい。隣に並んだ男の顔を再度見上げると、心なしか先程よりも少しだけ和らいで見えた。

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