月の陰の庭

雨宿 藍流

一節 月の住む場所

 目が覚めたのは、身を焦がすような熱に眠っていた意識が堪えられなくなったからのようだ。

 体の節々が焼き潰されるような、内臓が挽き潰されるような、神経の一本一本を引きちぎられるような。とにかく堪え難い、全身を蝕む呪いのような痛み。次いで痛みに加え酷い嘔吐感。いつものことだが、今回は特に酷い。

 ベッドの上で体を丸め、少しでも痛みを逃がそうと藻掻く。込み上げる胃液は口許を覆って必死に堪えた。なんでおれが。おればかり。他のやつらはこんな思いしなくていいのに。痛みが引くまで今日は何時間だろう。どれくらいこうしていればいいのか。そもそも、ここはどこなのか。

 痛みには波がある。少しだけ引いた時に辺りを見回してみた。全く見覚えのない場所なのだ。そもそも、目覚める前の記憶も少し怪しい。確か、あの暗く淀んだ地下で――

 きい、と何かが軋む音が聞こえた。

「……起きてる。思いの外丈夫だね、きみは」

 あまり抑揚のない、感情に欠けた静かな声に、微かに視線を上げた。

 部屋の入り口の扉を片手で閉めながら、こちらに目を向ける少女がいた。左右で色の違う、物言わぬ静かな瞳がこちらを見つめている。少女は何かが入った小さな瓶を手に、こつこつと微かな足音を響かせてベッドの側へと歩いてきた。

「誰……だよ、あんた」

「ここの主」

 再び襲ってきた痛みと嘔吐感に口を押さえながらかろうじて問うと、彼女は短く返してベッドの隅に腰を下ろし、瓶の蓋を開けた。手のひらに何か小さな粒が転がり落ちる。と、同時に、一際強い痛みと嘔吐感が襲ってきた。思わず強く口許を押さえるが、堪えきれない胃液が口の端から漏れた。シーツに小さな染みが広がる。

「うぇ……っ、ぐ、」

 何度か咳き込んで、少しだけ呼吸が楽になったと思えば、今度はまた痛みが強まった。自然と涙が出てくる。これから先死ぬまで、あと何回繰り返せば。

 不意に背中を何かが撫でる感触がして、ふっと痛みが遠退いた。体中を蝕む熱も、鉛のように苛む重力も、今だけ何故か消えている。目尻を拭って視線を上げると、何の表情も浮かべないままこちらを見下ろす少女が、背中に手を当てたまま何かを小さく呟いていた。

「……触んな、よ」

「大人しくしてて」

「……なに、して」

「端的に言えば、きみの過剰な魔力を逃がしてる」

「…………わかんねえよ」

「だろうね。縁のない生活をしていたようだから」

 少女が手を離す。先程までの痛みも熱も、まるで最初から無かったかのように戻ってこなかった。恐る恐る体を起こしてみたが、何もない。手のひらを軽く握ってみた。普通に動いた。

 全て嘘だったみたいに楽になった体に戸惑いながら、少女の方に視線を向けた。手の中に何か持っている。よくよく見れば、それは小さな花のようだった。花は一瞬で枯れ、実を結んで小さな塊となった。

「先に説明しておこうか」

 あっという間に姿を変えた実を凝視していると、少女は先程まで持っていた瓶から再び何かを取り出した。ころんとした小さな粒だ。それを摘まみ上げ、よく見えるように持ち上げてみせた。

「これは強い魔力を持つ生き物に寄生する宿り木の種。宿主の魔力を吸って成長するもので、実が薬になる」

「……それがなんだよ」

「これをきみに植える」

「……は!?」

「心配しなくてもきみに害はないし、むしろその苦しみを負う必要がなくなる。宿主に危害を加えたりはしないし、成長しきれば勝手に離れるからね。きみの場合、いくつも種を植えないと普通の人間と同じように過ごすのは無理だろうけど」

「……なに、言ってるかまずわかんねえんだよ。そんな得体の知れないもの」

 ベッドの上に座り込んだまま僅かに後退ると、少女は何も言わず暫くこちらを眺めていた。ややあって僅かに首を傾げる。

「きみ、名前は」

「……アサト」

「アサトね。……きみ、何年生きた?」

「何年……って、年の話か? 十九だけど」

「十九年。よく生きてたね、その体質で」

「……体質って何の話だよ、定期的に体調崩すからか? こんなん原因不明で医者だって匙投げて……」

「ただの人間ならそうだろうね。原因はきみの魔力が強過ぎるせいだよ。発散する術がないから、エネルギーが自分の肉体で暴発してる状態。そういう子は滅多にいないけど」

「……魔力って、御伽噺に出てくるやつか? 魔法使いとかドラゴンとかがが持ってる」

「まあ、そういう認識で今は構わない。これから追々教えていく。とりあえず植えるよ、今の状態じゃまたすぐに再発する」

「あ、ちょ……!」

 少女は立ち上がるなり、ベッドに片膝をついてアサトの肩を掴んだ。そのまま首の後ろに手を回し、持っていた種を押しつけたようだ。何とも言い難い奇妙な感覚がうなじ辺りで蠢いて身震いした。手を回して触れてみる。植物の芽のようなものが指先に当たった。

「……すげえ嫌な感じがする……」

「それは慣れるしかないね。そのまま成長して離れたら次の種を植える必要があるから、瓶はきみに渡しておく。わたしが十分だと判断するまでは使った方がいい。死にたくなければ」

「……つか、植えるのここじゃないと駄目なのかよ」

「どこでも構わないけど、手足や背中だと不便だと思うよ。そこなら寝る時さえ横になればさして他に面倒もないからね。これから食事を用意させるから着替えたら降りておいで、階段下の廊下の突き当たりの部屋だから」

 首から生えた小さな芽をいじりながら不快感に唸っていると、用を済ませた少女はベッドから下り瓶の蓋を閉めた。そのままシーツの上へと小瓶を放り、振り返り様にベッドサイドのテーブルを示す。見ると、白と黒の衣服のような布が丁寧に畳まれて置かれていた。小さく礼を言いながら、そこで改めて少女の姿をはっきりと確認した。

 年の頃はわからない。アサトとそう変わらないか、少し下くらいの見た目ではあるが、綺麗に形作られた顔は表情が浮かんでおらず、話し方もどうも少女のそれにしては違和感がある。話し言葉自体は不自然ではないのだが、威厳というか、不思議な雰囲気というか。年頃の少女が話している感覚は一切ない。髪は銀色であまり癖がなく、腰の下辺りまである。故郷では見ない色だ。誰もがアサトのように黒い髪と黒い瞳、白い肌だった。彼女はたぶん、小柄だ。アサト自身もそう体格がいいわけではないものの、それと比べても体感的には百五十あるかないか。袖がゆったりとした全身黒に近いネイビーの衣装を纏っていて、肩から黒い外套のようなものを羽織っている。衣装にはところどころ、銀の糸で不思議な装飾が施されていた。全体的に見たことのない変わった姿ではあるが、何より目を引いたのはその瞳だった。

 左は深い青を染め上げた透明感のある青玉のようで、右は目が覚めるように鮮やかな紅玉のようだった。いつか子供の頃に一目見た女王が身に着けていた、あの真っ赤な宝石に似ていると思う。気付いた瞬間見入ってしまうようなとても綺麗な色なのに、その瞳にはどの感情も見られない。静かに凪いだ湖面のようで、神秘的な一方でどこかひんやりとしていた。

「……あんたさ、人間じゃないだろ」

「そうだね」

 言うまいか少し躊躇い、思い切ってそう尋ねてみると、彼女はあっさりと肯定した。

「いや、そうだねって……そういうのって、少しは隠したりするものじゃないのかよ。あんたが本当に人間じゃないならだけど」

「逆に聞くけど、きみ、わたしが人間だと思うの」

「……見た目は人だけど、こうして見ると全然」

「その認識で正しいよ。人の街に混ざる時はもう少し隠すけど、ここはわたしの世界だからね。その必要もない」

「……つーか、その姿も本当は違うんじゃねえの。本性はもっとおっかない姿とか」

「この姿も正しくわたしだよ。他にも姿はあるけど」

「……まさか、悪魔とか?」

「わたし自身は違う。わたしと契約を交わした悪魔達もここにはいるけど、そもそもわたしの庭にいるものはほとんどが人間じゃないからね。まあ、わたしから見れば大半は人間に入るんだけど……」

「庭……?」

「きみが今いるこの世界のこと」

「つーか、そもそもここ、どこなんだよ。おれ、確か……あの……」

 そこまで口にして、唐突に記憶が戻ってきた。光のほとんど入らない暗い部屋と、迷信深い大人。異端なものになら何をしてもいいと思っている人間の屑。遠巻きに見ているだけの、自称清く正しい生き方をしている何か。

 引っ込んでいた嘔吐感が戻ってくる。発作じゃない。嫌悪と、心の芯にまで染み付いた恐怖だ。

 青ざめた顔で口許を覆うアサトを暫く眺め、少女は物言わぬ瞳を思案げに宙へと向けた。動かないアサトに手を伸ばし、頭に軽く添えて何かを呟く。聞き取れた言葉の意味はわからなかった。たぶん、知らない言語だ。何故だか少しだけ気分が落ち着いた。

「どんな目に遭ってきたかは、聞かなくてもおおよそわかる。きみには悪いけど、傷を治す時にいろいろ見たからね。きみがこれからここに残るか、それとも出て行くか、それはきみが決めることだけど、少なくともこの場所に不当にきみを害する者はいないということは保証する。外部から攻めてくる馬鹿は稀にいるけど、そういうのはわたしたちで対処してる」

「……だから、いろいろわからな過ぎて何も頭に入ってこねえよ」

「今はそれでいい。これから一つ一つ教えていくし、きみも知っていくことになる」

 アサトの様子が落ち着いたのを確認すると、彼女は手を離してベッド脇の窓に手をかけた。白いカーテンを靡かせ、穏やかな風が部屋の中を吹き抜ける。同時に小鳥のさえずりが微かに聞こえてきた。次いで、ばさばさと騒がしい羽ばたきも。彼女は窓から入り込んできた瑠璃色の小鳥の頭を指先で撫で、その歌声に耳を傾けている。

 心地好さそうに目を細める小鳥を見て、ふと気が付いた。アサトは人が得意ではないし、どちらかと言えば嫌いだ。近づかれるのは不快だし、触られるのなんて以ての外のはずなのに、先程触られた時も、最初に種を植えられた時も何の警戒心も湧かなかった。彼女曰く、人間じゃないからだろうか。

 あまりにも自然にそこにいて、何の違和感もない。まるで最初からずっと在ったかのようだ。

 彼女は窓から外を眺めて、ああ、セイルとベリトが戻ってきたね、と呟いた。

「もし起きられるなら、すぐ着替えて降りようか。話しておきたい者達が帰ってきた」

「……今はまあ、嘘みたいに平気だけど。誰だよ、話しておきたいやつらって」

「信頼できるわたしの契約者……もとい、仲間のようなものかな。彼らについては後で話すけど、その前にここについてだけ簡単に教えようか」

 小鳥を窓の外に帰した彼女は、開いた窓はそのままに部屋の出入り口の扉に手をかけ、振り返ってそう告げた。

「ここは月の陰の庭。日なたから追われた者と、傷ついた魂が流れ着く場所。もっとも、そう呼ばれているだけでわたしが名付けたのではないけどね」

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