グレートレース①

 話をするとリュウは、あからさまに嫌そうな顔をした。

 初めての仕事もこうだったなと思い返して、コンコは小さなため息をついた。

「競馬のイカサマなど知ったことではない」


 薩摩藩が起こした生麦事件に対する補償の一環として西洋人のためだけに造られたのが、根岸競馬場である。

 日本で賭博は御法度だが、この競馬に限っては治外法権ということで黙認されている。

 彰義隊士だったリュウからすれば、薩摩も新政府も何をやっておるんだ、と思ってしまうのだ。


「でもリュウ、僕たちに話がくる意味はわかるでしょう?」

「あやかしの疑いがあるのだな、わかっておる」

 かつての敵の後始末など面白くもないが、塩を贈るつもりでやろうかと、リュウはため息を呑み込んだ。


 リュウの家からは新田しんでんを横切り坂を上がって、西洋人のために整備した尾根道を辿れば競馬場である。


 広々とした土地の外周を、刈り整えられた芝が楕円形にぐるりと囲み、始終点の正面には瀟洒な屋根が付いた階段状の馬見所が建っている。これが一等で両翼の広場が二等だろう。

 馬見所の紳士淑女は誰も彼もが着飾っており、馬よりも話の方に夢中の様子で、さながらサロンの雰囲気である。


 コンコとリュウは競馬場の隅に陣取って、野良仕事のふりをして観察していた。

「あんなものを新政府は真似しようというのか、まったく嘆かわしい」

「どうなろうと関係ないことだ、じゃないの? あ、リュウ! あの馬だよ」


 コンコが指差した馬というのは、やたらいきり立っており、騎手は振り落とされまいと必死になってしがみついている。

 パドック手前で座り込み、パドックへ押し込めば立ち上がる。目を剥き歯を剥き、隣の馬を挑発している。

 何と品のない馬だ、素人目に見ても勝てそうにない。


 が、いざ走り出すと頭ひとつ抜きん出て速い。しかもぐんぐん加速していき、みるみる差を広げていく。

 しかし最初のコーナーで、突然止まり草を食べはじめた。

 後ろの馬に次々と抜かれ、騎手は大慌てで鞭を振るうがまったく気にする様子はなく、青々とした草をむしゃむしゃと食べている。

 すべての馬に抜かされたところで頭を上げて、驚くような速さで走り出した。背中の騎手を振り回しながら脱兎のごとく駆け抜けて、ふたつ目のコーナーを抜けた頃には先頭へと返り咲いた。

 馬見所からは悲鳴と怒号が轟いた。

 おびただしい罵声を浴びながら、先頭を譲らずゴールした。

「ああやって番狂わせを起こすんだ。勝ち続けて人気を集めたら一歩も走らなかったり、一番人気の馬の前を走って失速したり、とにかく台風の目みたいな馬なんだよ」

「イカサマどころの問題ではないな。あの速さ、ふざけた走りは、あやかしに違いないだろう」


 ゲッソリ痩せた馬主を追って厩舎を突き止め、夜になってから忍び込むと、レースの疲れのせいなのか、例の馬はぐっすりと眠っていた。

 コンコが祝詞を唱えると、黒く透き通った馬の影が浮かび上がってきた。

 リュウがその首をはねたものの、それはどうということなく立っている。

 はねた首から人の手が生え、ぴょんと跳ねると天井の梁をしかと掴んでぶら下がり、にぎにぎと移動して首のない馬の背中に乗っかった。


「サガリと首切れ馬だな?」

『よく知っていたな、稲荷狐』

 喋ったのは首の方、サガリだ。気持ちを逆なでするように、舐めた喋り方をして笑っている。

「貴様ら、何が目当てで試合を荒らす」

『面白くしたい、ただそれだけさ。何が悪い』

 喋るたびにいやらしく笑うサガリを、コンコは睨みつけていた。

「主人の魂を吸い取って、妖術を使ってまですることか!」

『何言ってンだ、だいぶ稼がせてやったぜ。使い切る時間はないけどな』


 コンコが祝詞を唱え、リュウが刀を構えると、首切れ馬がコンコの真横を踏みつけた。

『競馬場で勝負しよう、賭けるのは魂。どうだ、面白いだろう?』

 ふざけるな! と言いかけたコンコの真横に、再び脚が落とされた。

「わかった! 受けて立とう。しかし俺たちには馬がない。10日間ほど待ってくれ」

『いいだろう。10日後、この時刻に根岸競馬場で勝負だ。首を洗って待っていろ』


 一度死んだ身とは言うものの、命を賭けた勝負にもリュウはちっとも動じない。落ち着き払っている様子が、かえって心配になってしまう。

「ねぇ、リュウ。馬のあてはあるの?」

「ない」

「でも、乗合馬車の馬だったら速い子がいるかも知れないね。成駒屋さんにいた馬だったら、速いに違いないよ」

 コンコの希望的観測を耳にすると、リュウはピタリと立ち止まり、夜空を見上げて寝言のようにつぶやいた。

「俺は馬に乗ったことがないんだ」

 コンコは一瞬で青ざめて、その驚愕は月の彼方まで届く絶叫となった。


 それからリュウは高島の力添えで乗馬の練習に専念し、コンコは馬の調達に奔走した。

「この馬ではダメなのか。成駒屋にいたとかで、速いらしいぞ」

 そうは言っても、リュウの鞭さばきでは全力で走らせられるほどではない。もし全力で走ったとしたら、落馬してしまうかも知れない。

 何より、あの異常な速さだ。勝てる馬や騎手が日本に、いや世界にいるだろうか。

「あやかし相手に妥協は禁物だよ。それにリュウの命が懸かっているんだよ?」


 試合前日、やっとのことで馬を走らせるまでになり、やっとのことで南部の白馬の調達できた。

 白馬に乗って練習できる時間は短いので、一緒に過ごして心を通わせることに専念した。

 決まった勝負はやるしかない。

 もう、勝ちに行くしかないのだ。

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