ホテル・ザ・シキ①

 東海道の神奈川宿から高台に上がると、自らの業績を見守るように邸宅が建っていた。

 使いの者の案内で奥へと通されると、ひとりの男がいた。これが高島嘉右衛門である。

 この横浜で異国人の建物を多く建て、社交場となる豪華な大旅館を建て、海上に鉄道線路を建設し、ガス会社を作りガス燈を普及させた。

 しかしついこの間、役目は終わったと言わんばかりに隠棲いんせい。巨万の富をもたらした易断を、今は趣味として楽しんでいるそうだ。

 これだけの事業を成し得た後、趣味に没頭する生活を選んだのだから年寄りだろうと思っていたが、まだ40歳半ばという若さであった。リュウは驚きを隠せなかった。


 経緯と事情を話して、雪女を封じた壺を高島に渡した。

 両手でそっと触れると「ひんやりと冷たいから確かに雪女だ、これは面白い」と笑っていた。

「これを北国に送ればいいのだな」

「あいすくりんのないところだよ」

 あいすくりんのないところか、と穏やかに笑ってから、北海道がいいだろうと言った。

「どんなものかは知らないが、東京では安いあいすくりんを売っているそうだ。作り方を工夫して日本中に広まれば、雪女も逃げ場がなくなってしまうな」

「そうしたら、あいすくりん屋で働けばいいよ。冷やすのは得意だし、好きなものなら一所懸命に作るでしょう。ね?」

 すると壺は、嬉々として小刻みに揺れていた。


「ご苦労様とねぎらいたいところだが、申し訳ない。また、あやかしの相談があるのだ」

 はじめにコンコが言っていた通り、この横浜に日本中のあやかしが集っているのは、本当のことのようだ。

 そのうち、海を渡ってきた異国のあやかしと対峙する日もくるのだろう。

「と、その前にリュウさんと言ったか。渡したいものがある」

 そう言って高島は、使いの者を呼んだ。


 リュウの戸惑い顔を、コンコは嬉しそうに見つめていた。

「リュウは細身で背筋が伸びているから、洋装も似合うね!」

 高島から贈られたのは、タキシードだった。

 生まれて初めての洋装は、服が貼り付くようで気持ちが悪いと、不快感をあらわにしていた。

「我慢しなよ。洋装じゃないと今日の仕事はできないんだから」

「わかっておる! 刀はどこに差せばいい」

 怒りっぱなしのリュウに、コンコは呆れ気味にやれやれと楽器ケースを指差した。


 一方、性別がない稲荷狐のコンコは男装か女装かで迷っていた。

「今日は、どっちにしようかな。リュウ、一緒に行くならどっちがいい?」

 どっちにしたって子供の姿だ、どうでもよいと答えられ、コンコはカチンときたようだ。

 ドレスを合わせて頬を染め、唇に指を当てて、上目遣いで尋ねてきた。

「リュウ…僕が女の子だったら、よかった…?」

 タキシードを合わせ、不敵な笑みを浮かべた。

「それとも、男の子の方がよかった?」

 ニシシと笑うコンコの頭に、拳が落ちてきた。


 神様に何ていうことを、とプリプリ怒るコンコはタキシードを着せられていた。

「大人をからかう神などいるか」

「やっぱりドレスの方がよかったなぁ」

「お前の女装は、後が面倒そうなのだ」

「もうリュウには選ばせてやらない!」

 キイキイと怒っているうちに、目的地へたどり着いた。

 堂々たる西洋建築を見上げて、息を呑んだ。

 そこは、ホテルである。


「高島様ですね、お待ちしておりました。荷物をお預かりしましょう」

「いや、結構だ」

 武士の魂たる刀を、そう易々と渡せるものか。

 しかし楽器ケースに仕舞ってあるものだから、ホテルマンはいぶかしげな表情である。

 廃刀令が公布された今となっては、模擬刀でも怪しいものには違いない。


「リュウ! 凄く分厚い布団だ!」

「いや、これは脚が付いておるのだ。布団自体は厚くはない。それに案外硬いな」

 それでも、リュウたちが寝ている煎餅布団より遥かに分厚く柔らかかった。

 これだけ布団が高く据えられていると、寝返りを打つだけで怪我をしてしまいそうだ。コンコの寝相で、大丈夫だろうか。

硝子ガラス行灯あんどんだよ! 見て見て、からくり付きの文机ふみづくえだ!」

 西洋人向けのホテルだから、建物の中はどこを見ても西洋文化の大洪水である。

 初めて目にするものばかりで興奮したものの、想像以上にコンコがはしゃぎあちこちを見て回っていたので、その役目を譲りベッドに腰掛けた。


「それで、どのようなあやかしが出るのだ」

 事の詳細は、コンコしか聞いていない。

 その間、リュウはテーブルマナーの手ほどきを受けていたのだ。

 あちこちを触っていた手がピタリと止まると、冷ややかな真顔をゆっくりと向けた。

 うろのような目をして、しばらく黙っていたものだから、恐る恐る「コンコ…?」と声を掛けた。


 コンコはリュウをじっと見つめたまま、口だけを重々しく動かした。

「……出るんだって……」

 リュウは目を泳がせ、そわそわとしはじめた。動悸の予兆を感じて落ち着かず、意味もなく身体を動かしてしまう。

 コンコは薄く笑うと、両手の甲をだらりと垂らして胸の前に並べた。

 リュウの引きつった顔は、みるみる青ざめた。

 子供の頃に、近所の寺で見せられた幽霊の絵が思い出されて、小刻みに震えだした。


 落ち着け、ここはかつて海だった新田しんでんだ。

 開港するまで田畑が広がっており、事故や事件や戦乱が起こるような場所ではない。

 開港以来、悲惨な海難事故はなかったはずだ。

 幽霊など、出るはずがない。

 そう言い聞かせていると、コンコが抑揚のない声で、ぼそっと言った。

「豚屋火事って……知っているかい?」


 部屋の隅にすぅっ…と人影が現れた。

 リュウはコンコを抱きしめて、ベッドめがけて飛び込んだ。

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